二次創作小説
君の居る場所
「珊瑚ちゃんの子供が見たい。」
かごめが唐突にそう言い出したのは、あいつがこっちの時代に来て、一ヶ月が過ぎたころだった。
「あ?あいつらのガキなら毎日見てるじゃねぇか。」
俺は囲炉裏で薬草を仕分けるかごめの後ろ姿を眺めながら、冷えた板壁にもたれかかっていた。
「そうだけど…。」
かごめは世話しなく動かす手はそのままに、ぽつりと呟く。俺にはかごめの考えがさっぱり理解出来なかった。たとえかごめがこ
ちらの時代に来て日が浅いと言えど、朝から晩まで楓の家まで出向き、珊瑚や、当然その子供達とも毎日顔を付き合わしているの
だ。今さら、何をそう唐突に求める必要があるだろうか。
「ねぇ、ちょっと珊瑚ちゃん家まで行ってみない?」
かごめは仕分け終わった薬草籠を抱えて立ち上がる。
「あぁ!?今からかよ。もう日が落ちちまってるだろーが。」
小屋の小さな格子枠から見える外はすでに日が沈んで暗闇に包まれている。
「すぐだから。ね?お願い。」
かごめが俺の目の前まで歩み寄り、視線を合わせるように屈む。その表情に相変わらず心を折られそうになるのだが、なんとか自
分を押し止めて、もう一言。
「…明日じゃ駄目なのかよ。」
そう言うと、かごめは抱えたままの籠の中から、一掴みの薬草を俺の前に掲げる。
「これ、渡すだけだから。」
そう言う彼女に、面倒だとは思いながらも、一人で行かせる訳にもいかないことから、渋々彼女を背負って家を出た。
「珊瑚ちゃーん。居るー?」
楓の家を通り過ぎ、少し外れにある弥勒達の家の前で、かごめを降ろした。かごめが中を伺うようにみすを上げると、ちょうど出
掛け様の弥勒と鉢合わせた。
「おや、かごめ様。それに犬夜叉も。どうしました?こんな時間に。」
少しばかり慌てたように飛び出してきた弥勒が、ふと動きを緩めて言った。
「弥勒様こそどうしたの?慌てて…。」
かごめが問うと、弥勒は困った様な顔をして、
「いや、些か下の赤子が熱を出しましたので、楓様によい薬でも頂ければと思いまして…。」
そう言う弥勒に、かごめは
「それなら心配ないわ。」
と安堵に似た息を吐いた。
「かごめ?」
俺の問いかけに、かごめは微笑んで、弥勒と俺を小屋の中へと促した。
「少し犬夜叉とお邪魔してもいい?弥勒様。」
「え…えぇ。それは構いませんが。」
弥勒がそう言うと、かごめはお邪魔します、と呟いて中へと進む。俺達もその後を追うようにして中へ入った。
「かごめちゃん。」
かごめに気付いた珊瑚が、囲炉裏の傍に座ったまま、顔をこちらに向けた。
その脇にはいつもと打って変わった大人しい双子が座っており、やはりぐすったように泣く赤子は珊瑚の腕の中に抱かれていた。
「せっかく来てくれたのに悪いんだけど、この子が熱持ちでね…。」
と珍しく不安げな顔をする珊瑚に、かごめは全て心得ていると言った笑みを向けた。
「大丈夫。熱冷ましに効く薬草を持ってきたから。」
そう言って、自分達の小屋からずっと握りしめていたそれを珊瑚に渡す。
「…どうしてわかったんだい?」
驚いた顔をする珊瑚同様、俺も弥勒も二人の後ろで同じく目を見開いた。
「なんとなくよ。今日、珊瑚ちゃんと薬草を摘んでた時のその子の様子が何だかいつもと違ったから。」
「それだけで?」
そう、尚も驚く珊瑚に微笑みかけ、
「とにかく、それを早く薬にしてあげて。」
そう言うかごめに、弥勒と珊瑚が思い出したかのように世話しなく動きだす。
「そ、そうだね。まぁ、とりあえずかごめちゃんも犬夜叉もそこらに座って。」
そう言う珊瑚に促され、いつになく慌ただしい弥勒達を眺めるかごめを、同じく俺は唯、唯眺めていた。
子供に砕いた薬草を煎じて与え、双子と共に寝静まった後、俺達は囲炉裏を囲んで、珊瑚の煎れた白湯を飲んでいた。
「いやいや、今日はかごめ様のおかげで助かりました。」
そう笑いかける弥勒に、珊瑚も微笑んで礼を言う。
「ほんとだよ。親が二人そろって慌てちゃって……。それにしても、母親のあたしが気付けないなんて、母親失格だね。」
そう、眉を下げる珊瑚に、かごめが慌ててつけ加えた。
「そんなっ。珊瑚ちゃんは一度に三人も見なくちゃいけないもの。それに、あの子はいつも背負ってるから、顔が見られないし。」
そう言って、かごめは白湯を一口運ぶ。俺は黙って交わされる話に耳を傾けていた。
「それにしても、かごめ様もよく気付かれましたな。赤子の表情は読み取りにくいというのに。」
珊瑚を庇うように話を反らす弥勒にかごめは笑って言った。
「…たまたまよ。」
「…?」
そう言うかごめの笑みが曇ったように見えたのは、気のせいだろうか。
俺は何も言わずにまた普段の笑顔を取り戻すかごめを見つめていた。
「それじゃあ、弥勒様、珊瑚ちゃん。あたし達はそろそろ…。」
ひとしきり話した後、夜も更けきったこともあって、帰ると言うかごめの声に釣られるようにして、俺も静かに腰をあげた。
「それでは、外まで見送りましょう。」
そう言って立ち上がる弥勒と、また礼を言う珊瑚の声を背に受けながら、俺達は小屋を出た。
「それじゃあ、弥勒様。」
そう言うかごめに無言で屈んだ背を向けると、俺は行き同様にかごめを背負って、立ち上がった。
「夜更けにありがとうございました。」
弥勒はかごめに笑いかけ、
「犬夜叉もすまなかったな。」
と声をかける。
「あぁ。」
俺は短く答え、自分達の小屋へと歩を進めた。
かごめ達が視界から遠ざかるのをしばらく見送って、弥勒は小屋の中へと戻った。子供達に上掛けをしてやる珊瑚と目があった。
同じことに感づいたのは、その表情を見れば一目瞭然だった。
「法師様…。」
「やはり、珊瑚も気付きましたか。」
珊瑚は囲炉裏の傍に歩みよりながら、小さくうなづく。
「かごめちゃん、何か変じゃなかった?」
「何かを隠して居られるようでしたね。」
それに犬夜叉も、と同じく囲炉裏の傍に腰を降ろした弥勒が言うと、また珊瑚が小さくうなづいた。
「対したことじゃないといいけど…。」
そう言う珊瑚に、
「そうですね。あの二人は夫婦と言っても、まだ子供のようなものですから。」
と弥勒も息を吐く。
二人の絆が、大人子供に関わりなく深いことは、共に旅をしていた者達なら十分心得ている。時を越えてまで叶えた願いだ。そう
易い縁でないことはわかっている。だが、二人にとっての三年が地を分かつほどの流さだったとしても、今思えば、周りから見る
三年は、たった三年。ままごとの延長線上とも言える二人の暮らしが、そう易々と進んでいく訳がないと、わかっていたのに。
「本当に、対したことでないとよいのですが…。」
そう呟く弥勒の言葉が、静かな夜の宙にぽかりと浮かんだ。
「それにしても、お前よくわかったな。」
自分の背に向かって問い掛けると、うとうととしていたところだったのか、呂律の回りの悪い返事が返ってきた。
「ん?まぁね。今日は一日珊瑚ちゃんがあたしの前で薬草摘んでたから、たまたま背中の赤ちゃんに目がいっちゃっただけよ。」
そうあっけらかんと言うかごめ。やはり先刻、弥勒達の家で見た顔は気のせいだったのだろうか。
「そうか。」
背に居るかごめの表情は、俺から見ることが出来なかった。
俺の返事が早いか否か、早々と帰りついた自分達の小屋の前で、かごめを降ろした。
眠そうに瞼を瞬く瞳がゆっくりと開かれ、小屋の外で降ろされたことに気付くと、かごめは眉を下げて作り笑いを浮かべた。
「…今日もなの?」
その言葉が、毎夜繰り返される俺の行動を引き留めるように響いたが、俺はそれに気付かないふりをして、かごめの髪をそっと撫
でた。
「すぐそこに居るんだ。心配すんな。」
それだけ言って、俺は腑に落ちない顔をするかごめを小屋の中へ促した。自分の衣の上を脱ぎ、かごめの肩にそっと羽織らせる。
「風邪、ひくんじゃねぇぞ。」
そう言って、かごめが小屋の隅の床に入り、
「おやすみ。」
と呟くのを聞いてから、俺はそっと御簾を降ろした。
外気は冷たいが、上着がなければ過ごせないと言うほどでもない。俺は小屋の傍の木に登り、いつもの枝に背を預けた。
もう、二週間近く…いや、かごめがこちらの時代に来て、初めてあいつを抱いて眠った夜から、小屋の中でかごめと床を同じくし
たことはない。もちろん、自分の欲に反した行動だった。かごめを腕に抱いて眠れるのなら、何も好んでこうして一人の夜を過ご
している訳ではない。けれど、自分を抑えられないのなら、こうするしかないのだ。
彼女を永遠にこの手に掴んでおく為には。
小屋の外に居ても、かごめが寝返りをうつ衣擦れの音は耳をつく。そして、しばらくして聞こえるかごめの押し殺した泣き声も、
同じように。泣かせる為に、傍にいる訳じゃない。
だから、日が頭上を照らすうちは、せめてかごめの傍を離れず、望むことは何でも叶えてやりたいと思う。
しかし、それでも夜だけは、かごめの傍には居られないのだ。
「かごめちゃん。」
楓の畑で薬草の植え替えをしているかごめの背中に、珊瑚が声をかけた。
「昨日はありがとね。」
そう笑う珊瑚の背を覗き込み、穏やかな顔で眠っている赤子に安堵する。
「全然。もう、大丈夫みたいだね。」
そう言って、双子ちゃんは?と尋ねるかごめに、珊瑚は楓の小屋の方向を指し示す。
「しっぽー。」
「きつねー。」
小屋の外で、双子に翻弄される七宝の姿が目に入り、思わずかごめは苦笑した。
「遊ばれてるわね。」
そう言ってまた畑に腰を降ろすと、珊瑚も隣に屈んで雑草の処理を手伝った。
「それにしても、法師様が褒めてたよ。かごめ様は勘が冴えてらっしゃる、って。」
一見、屈託なく昨夜の話を振った珊瑚だったが、もちろん策があってのことだった。弥勒とさりげなく話を聞き出すよう交わして
いたからだ。かごめは動かす手を止め、小さく息を吐いてから、呟くように言った。
「見てたからよ。」
珊瑚も手を止め、俯くかごめを覗き込む。
「何をだい?」
そう言うと、珊瑚の背に目をやったかごめが言う。
「その子を。」
珊瑚の背で欠伸を漏らす赤子に、かごめは目を細めた。
「あたし…羨ましくって。」
小首を傾げる珊瑚に、かごめは呟くように続ける。
「珊瑚ちゃん達みたいに、子供がいるのっていいな-って。」
「かごめちゃんにだって、すぐ出来るさ。犬夜叉と夫婦なんだから。」
あっけらかんと言う珊瑚に、かごめは諦めたように首を降った。
「無理よ。犬夜叉は望んでない。」
そう言うと、珊瑚は怪訝な顔をして聞き返した。
「犬夜叉がそう言ったのかい?」
かごめは、唯首を横に振る。
具体的な話など、何もしていない。唯、二人で過ごすだけでも、十分すぎるほど幸せなのだから。
「聞かなくたってわかるよ。嘘が下手なやつだもん。」
そう言って、かごめは珊瑚が抜いた草を手で遊ばせながら苦笑した。
「嘘?」
珊瑚が聞く。かごめは、畑の土を眺めながら、全てを言ってしまうことを覚悟した。
ふと垣間見る二人の間の違和感。望むものの違いに気付かないほど心が通っていない訳などない。だから、わからないのだ。本当
に彼が望んでいることが。
「犬夜叉、もう何日も小屋の外で寝てるの。」
「え?」
珊瑚が目を丸くした。当然だろう。夫婦が寝床を別にするなど、特別な理由がなければ普通の行為ではない。
かごめは一つため息を吐き出してから、顔を上げ、田畑の向こうに広がる山並みを見つめた。長閑だった。自分の心に反比例する
ように。
「初めは、一緒に小屋の中で眠ってたのに……しばらくしてから、奈落を倒した巫女が住んでるって周りの妖怪に知られ始めたか
ら、あたしが危なくないようにしばらく見張るって言って…。」
かごめの言いたいことはわかっていた。いくら危険だからと言っても、村の周りに潜む妖怪など、犬夜叉ならば眠ったままでも倒
せるような魑魅魍魎ばかり。それに、有りそうな話だとしても、珊瑚は弥勒からそのような話は一度も耳にしたことなどなかった。
「犬夜叉のこと、疑いたくはないけど…。」
一抹の不安。自分と床を同じくすることを避けている…?
かごめは小さく笑って俯くが、かごめも珊瑚も、犬夜叉の言うそれが嘘であるという確信を得ていた。
「まぁ、犬夜叉の行動は腑に落ちないけどさ、それは後で考えるとして、子供のことは、あたしは焦らなくていいと思うよ?…そ
んなに子供が欲しいのかい?」
場を濁すようにして問う珊瑚に、かごめは言葉に詰まった。
「それもあるけど…。」
そう言って、かごめは酷く哀しい顔をした。
「あたしは人間で、犬夜叉は半妖だから…。あたしは生きてもあと何十年でしょ?でも、犬夜叉は違う。」
珊瑚は、黙ってかごめの話を聞いていたが、なんとなくかごめの考えがわかるようだった。
「あたしが死んだら、あいつはまた独りになっちゃう。珊瑚ちゃんも、弥勒様も、あいつが初めて手に入れた仲間はみんないずれ
はいなくなっちゃうわ。」
そう。また彼を独りにして。
「もちろん、あたしが死んだ後で、もしかしたら犬夜叉に、他に好きな人が出来るかもしれないけどね………。」
暗くなった空気を払拭するかのような、思ってもいないようなことを努めて明るく言い放つかごめに、珊瑚の心は小さく痛んだ。
「そんな。」
「でもね。」
呟く珊瑚の声を、かごめが遮る。
「もし…もしあたしと犬夜叉の子供が居たら…もしその子供が家族を増やしていったなら…。」
そこまで言って、かごめはふっと笑みを浮かべた。想像していた暖かな未来を思い描いて。
「犬夜叉は、独りじゃないわ。」
「かごめちゃん…。」
珊瑚の背で、赤子がぐずりだした。そろそろ太陽が真上に上がることを告げる。
「だから、不安なの。もしあたしが避けられてるんだとしたら…。」
自分が彼の妻でいることに疑問が湧く。
「あたし、ここに帰ってきてよかったのかな…。」
「かご……!!」
「珊瑚。」
かごめの痛々しい一言に、珊瑚が声を荒げかけたが、背後の声に拒まれた。
二人が振り返った先には、弥勒が双子を抱いて立っていた。
「法師様…。」
弥勒は穏やかな笑みを浮かべながら言う。
「そろそろ昼餉の時刻でしょう。子供達に食事の準備をしてやってください。かごめ様も。小屋の上で犬夜叉が待ってましたよ。」
そう言われ、かごめは立ち上がった。
「わかったわ。ありがとう、弥勒様。」
そう言って、服の土を払ってから珊瑚にも笑って告げた。いつものかごめの笑顔だった。
「珊瑚ちゃんも、ありがとう。じゃあ。」
そう言って急ぎ足でかけて行くかごめの後ろ姿を見つめながら、弥勒がぽつりと言った。
「あとは、私に任せなさい。」
「法師様、聞いてたの?」
珊瑚も小さくなっていくかごめを見ながら問う。
「後半だけですが…まぁ、大方あの馬鹿の考えには察しがついています。午後から退治の依頼で奴と出掛ける用があるので、その
時にでも…。」
そういつもの口調で言う弥勒をちらりと伺うと、口調と反して厳しい顔をした夫に、珊瑚はあとを彼に任せることに従った。
「かーごーめー!!」
一方、かごめの帰りを待つ俺は、仲間の微かな動きに全く気付くことなく、腹が減った苛立ちと、
かごめが傍に居ないという事実に対する苛立ちが内混ぜになった感情を、自分の小屋の屋根にぶつけていた。
「遅ぇな、あいつ。まだ楓ばばあにコキ使われてんのかよ。」
ぼそりと呟き、屋根にごろりと横になる。目の前に広がるのは、唯、唯青い空。
かごめが居るからこそ、綺麗だと思えるようになった空。
あいつのいない三年は、こうやって見上げることもなかったな…。
今は、ただ澄んだ青。あの頃くすんで見えていた物と同じとは、到底思えない。
そんなことを思いながら、ふと昨夜のかごめのすすり泣く声を思い出し、ぎりっと唇を噛んだ。
俺、いつまでこうやって我慢してられんだろうな…。
自分の感情の漏れなど、目をつむっていてもわかる。汚い男の欲が流れ出ている心の内を、かごめにだけは知られたくなかった。
抱けるものなら、四六時中あいつを俺の腕に閉じ込めておきたい。そんな姿を想像しないと言ったら嘘なのだから。唯、その欲に
塗れた想像の端にちらつくのだかごめの居なかった頃の荒んだ日々が。
もう、二度と味わいたくない。
だから、触れられない。
「犬夜叉ー。」
小屋の下からかかった声に、俺は驚いてはね起きる。考え事をしていたせいか、かごめの匂いに気がつかなかった。
「遅ぇよ。」
嬉しさを押し殺し、仏頂面を保ったままかごめの前に飛び降りる。
「ごめん、ごめん。珊瑚ちゃんて話しこんじゃって…。」
そう言いながら小屋の御簾を上げるかごめの表情は見れなかったが、くるりと笑顔で振り向いたことに安堵した。
「すぐお昼の準備するから、もうちょっと待ってて。」
「あぁ。」
そう言って小屋の中へ入るかごめを見て、この笑顔だけで十分なのにと自分に言い聞かせ、俺も続いて中へと入った。
かごめの用意した昼を食べ終え、しばらくかごめが後片付けに走り回るのをぼんやり眺めながら、端と弥勒との仕事の約束を思い
出す。
「かごめ。ちょっと出て来る。」
そう言って立ち上がると、囲炉裏の火を調節していたかごめがこちらを振り返った。
「仕事?」
「あぁ。弥勒と退治の依頼だ。」
そう言いながら御簾に手をかけ、中を振り返る。
「ちと山を越えなきゃなんねぇ。遅くなるから、先寝とけ。」
日が落ちてから、かごめをこの家に一人残すのは気が引けるが、こればかりはどうしようもない。
本当はかごめを抱えて行きたいところだが、わざわざ物の気の住家に自分の女を連れていく馬鹿も居ないだろう。
それに、わざわざ嘘を通してかごめと寝床を隔てずに済んだことに、内心ほっとする自分がいた。
「わかった。気をつけてね。」
心配そうな顔に手を翳して、ぽんと頭を叩くと、かごめはふわりと笑った。
「あぁ。お前も、心細かったら珊瑚のとこにでも行っとけ。」
「うん。いってらっしゃい。」
俺は背に見送りを受けながら、弥勒の家へと向かった。
道中はやはり山一つ越えるだけあって、無駄に足場が悪く、地道に歩を進めなければならない弥勒はうっとおしそうに杖の先で纏
わり付く草木を払っていた。
「こう道が悪いと帰りも厄介だな。」
そう顔をしかめる弥勒に、俺が木々を飛び越えながら
「お前はな。」
と言うと、人への慈悲がかけている、と詰られた。
二刻ほどかけて山を越え、目的の屋敷へ出向いたが、やはり予想通り全く手応えのない化け狸を二匹素手で殴り倒しただけという
結果に終わり、苦労して山を越えた割に呆気なかったこともあって、弥勒が憂さを晴らすように並べた嘘八百によって、褒美だけ
は十分すぎるほどしっかりと受け取った。
その帰り道、先を歩いていた弥勒がふと立ち止まり、俺もつられるようにして歩みを止めた。
「どうしたんでぇ、弥勒。」
背中に声をかけると、ゆっくりとこちらを振り返る。笑顔だ、いつもの。唯、目が笑っていなかった。
「な、なんだよ。」
少しうろたえた俺に、弥勒は不気味に笑ったまますぐ傍に見えていた川辺を指差し、
「少し休憩しましょう。お前に、人への慈悲と言うものを教えてさしあげます。」
そう言って、俺の返事も聞かずに川辺を目指して進行方向を変える弥勒に、俺は慌てて、
「お、おい。弥勒!」
と声をかけたが、弥勒は振り向きもしない。俺は仕方なく後について川辺により、少し離れたところで腰を降ろした。
「ふぅ、いささか疲れましたな。」
暢気にそんなことを零す弥勒に怪訝な視線を送りつつも、俺は静かに次の言葉を待った。
慈悲?説教なんてごめんだぜ。
そう思いながらも。
「犬夜叉。」
しばらくして、川岸を見つめたままの弥勒から声がかかる。
「あんだよ。」
「最近、かごめ様とは上手くいっているのですか?」
「なっ!!」
俺は予想外の質問に思わず顔を赤らめてしまった。
「な、何言い出すんでぃ、急に。だ、大体慈悲がど-こ-じゃなかったのかよ。」
俺は明らかにうろたえながら、全く望んでもなかった説教を引き合いに出してしまった。
弥勒はそんな俺の挙動を察したのか、こちらには視線もくれず、唯やんわりと笑って、
「ほぉ。その様子だと仲睦まじくと言う感じですな。」
そう言われ、俺は小さくまあな、と呟いた。
「では、夜の方は?」
そう問われ、俺は赤らんだ頬をさらに紅潮させた。
「ばっ…!!何言ってやがるっ。」
だが、弥勒は俺の悪態には少しも動じず、唯一点を見つめたままだ。
「どうなのですか?」
より追求され、俺はたじろいたが、ここはごまかすしかないと思い、適当に返事をした。
「ま…まぁ、ぼちぼち…だな。」
明らかな嘘。だが、知られるはずはない。そう思って言った矢先、終止穏やかだった弥勒の声色ががらりと変わり、酷く低い音と
なって返ってきた。
「下手な嘘はつかずともよい。」
と。
「え…。」
思わず声を漏らす俺に、初めて弥勒が顔を向けた。
厳しい。
その一言につきた。
「色々とこちらから問い質し、言ってやりたいこともあるが、まずお前の考えを聞いてやる。我々…いや、かごめ様を騙した理由
を聞かせて貰おうか。」
そう言う弥勒に、俺は何故そう言う展開になっているのかは読めなかったが、今の追い詰められた状況を避けるように、
「何のことだよ。」
と弥勒から目線を外した。
「ほぉ。白を切るつもりか。なら私から言わせてもらいましょう。何故嘘をついてまでかごめ様との閨を避ける?」
そう的を捕らえた言葉に俺はばっと弥勒に目をやる。かちあった視線に、俺は逃げられないことを悟った。
「………かごめか。」
そう呟くと、弥勒は先刻よりは幾分穏やかな声で言った。
「私ではない。珊瑚が聞いた話だ。しかし、その様子だとかごめ様が気に病んでいるのを知っていたようだが?」
探るような言葉のやり取りに、自分の嘘は通用しないと諦めた。俺も、視線を静かに流れる水面に移した。
「あぁ…。あいつを泣かせるつもりはなかったが、こうするしかなかったんだ。」
そう呟いた瞬間、ふっと前に座っていた影が動き、次の瞬間には頬に鋭い痛みが走っていた。
「何しやがるっ!!」
怒鳴りつけた矢先、まだ拳を握ったままの弥勒から荒い声が返ってきた。
「何がこうするしか、だっ!!てめぇを守る方法がこれしか思い付かなかっただけだろうが。自分の持ってるもん全部捨てて飛び
込んで来た自分の女に対する態度がそれか!!」
弥勒の言葉にはっとした矢先、矢継ぎ早に問われた。
「認めるんだな。」
そう言われ、俺はあぁ、と一言漏らすのが精一杯だった。
弥勒は握った拳を崩し、その場に腰を降ろして言った。
「それは、お前が半妖で、かごめ様が人間だからという理由か?」
俺は咄嗟に答える。
「違ぇよ。ただ…。」
弥勒は黙って俺の言葉を待っていた。
「ガキが出来るのが怖ぇだけだ。」
怖い、なんて口に出したことなどほとんどなかった。ただ、かごめのせいじゃない。それだけは確かだ。
「子供?」
弥勒が聞き返す。俺は足場の悪い川辺に視線を落とした。
「俺とあいつの子供なら、少なからず妖怪の血が混じった子だ。もしかごめが身篭ったとしたら、
どれだけ俺の血を受け継いで生まれてくるかもわからねぇガキを産ませることになる。いくらかごめに霊力があったとしても、
腹の中に居る間に、かごめ自身が赤子の妖気に堪えられる保証はねぇだろ。」
自分の母がそうであったように。
「あいつを…かごめを失うくらいなら、子なんていらねぇ。」
そう言い切ってから、やはり気付く。
それでも、抑えられない自身に。
かごめに触れたい。
その欲求だけは、己が惨めになるほど感じるのだ。
弥勒はしばらく何も言わなかった。足元に視線を落とす俺を、唯じっと見つめている視線だけは痛いほど感じた。
「今日、かごめ様が何ておっしゃられたか教えましょう。」
ふと口を開いた弥勒に目をやると、その表情はいつもと変わりなかった。
「自分は、ここに帰ってきてよかったのか、と。」
「…!!」
目を見開く俺に、弥勒は続けた。
「お前の考えはよく分かりました。私が考えていたほどの馬鹿ではありませんでしたが、いささか頭の回りが悪いのは確かです。」
さらりと言われた暴言にも、俺は二の句が挙げられずに唯黙っていた。
「先刻、お前に言いましたね?かごめ様は全てを捨ててこちらの時代に来たのだと。」
弥勒はまた視線を川岸に投げる。
「つまり、こちらの時代に来たのは言わずもがなお前の傍に居たいが為のこと。それを理由も聞かされず、唯お前の考えのみで突
き放されたとしたら、たとえどんなにお前の考えが正しかったとしても、かごめ様にとっては、たった一人の拠り所を失ったも同
然でしょう。」
俺は弥勒の言葉を聞きながら言いかけた。そんなつもりじゃない、と。
「この時代を選んだことで、かごめ様にとってはたとえ我々がいくら傍に居ようと、お前の心が向いているのを感じられなければ、
存在意義を見出だせないのも当たり前です。」
弥勒は続ける。
「それだけの覚悟があってお前の傍に居ると決めた方が、自分の子に食い潰されることを厭うとでも?それなら、
最初からお前の元に、かごめ様は帰って来などしないでしょうに。」
俺は唯黙っていたが、弥勒は何も言わなかった。目の前の川だけが静寂を助長し、日差しのが着実に弱まっては、俺達の影が細く
伸びた。
「いささか、喋り過ぎましたな。遅くならないうちに帰りましょう。」
そう言って腰をあげた弥勒の背に、俺はぽつりと零すように聞いた。
「かごめに話したら、怒るよな。」
子供っぽいその言葉に、言ってから自分で羞恥を覚えたが、弥勒がふっと微笑んだのを感じ、とにかく今は早くかごめの元に帰り
たい、と先を歩く弥勒に続いて帰路を急いだ。
楓の村についたのは、やはりとっぷりと日が暮れ、所々では明かりさえ消えてしまっているような時刻になってからだった。
俺は弥勒に一言礼を零し、馬鹿を撤回してみろ、と言う挑発に乗せられながらも、かごめが待つ家へと急いだ。
しかし、家へと近づくにつれて、俺ははたと違和感を覚える。
かごめの匂いがしねぇ。
速度を上げて小屋まで帰りついてから中を覗くが、囲炉裏の火も消え、中は空だ。
「かごめ…?」
ふと、昼間珊瑚のところにでも行っていろと言ったことを思い出し、踵を返して元来た道を弥勒の家まで急いだ。
「かごめ居るか?」
いきなり小屋に現れた俺に、弥勒は今別れたばかりだろう、と多少嫌気のさした顔をしたが、すぐに俺の言葉に首を傾げた。
「かごめ様?」
弥勒の後ろで子供を寝かし付けていた珊瑚も同じく首を傾げて言う。
「かごめちゃんなら、夕方別れてから見てないよ。」
と。
「何っ!?」
嫌な予感が頭の隅を過ぎった。
「家に居られなかったのですか?」
そう問う弥勒の言葉を聞きながらも、俺は頭の中でかごめの行きそうな場所から、有り得る可能性まで全てに思考を巡らした。
俺の居ねぇ間に何かあったんじゃ…。
弥勒が返事をしない俺に何度か問い掛けているのが聞こえていたが、自分の思考がその最悪の場合に辿り着いた瞬間、身体が勝手
に弥勒達の家を飛び出していた。
「犬夜叉!」
そう叫ぶ珊瑚に、弥勒は
「私もかごめ様を捜してきます。お前は子供達を。」
そう言い残し、同じく家を飛び出した。
くそっ!!どこだ、かごめ…!!
俺は楓の家や畑から村の全ての家々を走り回り、いつもかごめを連れていく湧き温泉にまで出向いて見たが、かごめの姿どころか
匂いすら残っていない。生憎、湿った夜気が雨の後のようにしっとりと夜を包んでいたせいで、鼻の効きも悪かった。
こんなことは初めてではない。かごめを置いて遠出し、朝方帰ってくることも不本意ながら少なくなかった。
その度にあいつの身が心配で堪らなかったが、多少疲れて帰ればいつも笑顔で出迎えてくれた。
きっと、今日だって対したことなどない。いつもの好奇心で、どこかそこらに居るはずなのだ。
そう思い込もうとする一方で、昼間弥勒に告げられた言葉を思い出す。
『ここに帰ってきてよかったのか』
その言葉が頭を掠める度に、自然と走る速度も速まった。
一度自分達の小屋に戻り、やはり人の気配がないのを確かめると、はたと思い付いた場所があった。
「御神木か…?」
そう呟いて、行き慣れたその場所を目指した。
しかし、そこへ行く途中、目的の場所が目と鼻の先となったところで、香ってくるその匂いに気付く。
風向きを確かめ、その匂いがどこから流れてくるのかを確信すると、血の気が引く思いがした。
ふざけんなよっ!!
俺はそう遠くない、そしてやはり行き慣れた…いや、以前はその匂いが自分の元に帰ってくるのを待ち望んでいたその場所へ向か
う。あの頃は、愛しい匂いが帰ってくるその場所へ出向くことなど日課のようなものだったが、今は違う。
あの場所からその匂いが香ってくるということ、それは何かが帰ってくることよりも、何かが去ってしまうことを連想させた。
俺は骨喰いの井戸の手前に降り立った。
やはり匂いはそこから流れてくる。俺はそっとその懐かしい木目に触れ、中を覗き込んだ。
「かごめ…。」
真っ暗で、冷たい闇の底で、膝を抱えたかごめが居た。
こんな寒い中、立った一枚、巫女装束を身につけただけの寒々しい姿で、冷たい内壁に身を傾けている。
胸が、裂かれたように痛かった。
俺は小さくなったまま動かないかごめの前にそっと飛び降りた。おそらく…と思った通り、眠っているだけのその姿に安堵した。
「おい、かご…。」
そう言いかけて、かごめの頬に残る涙の跡に気付く。俺は触れようとして伸ばした腕を一度引き、かごめを起こさないように抱え、
井戸から出た。
家までの帰路は、唯かごめを静かに抱えながら歩いた。
井戸は閉じている。もうこいつが自分の世界に戻ることは出来ない。わかっていたのに、いざかごめの匂いが井戸から香ってきた
ことに、酷く焦りを覚えた。そして、自分の腕の中で冷えた身体で眠るかごめの涙を考えた。
俺の態度に傷ついた故の涙だとしたなら、まだ取り返しがつく。
けれど、かごめは井戸の中に居た。
この涙が、繋がらない井戸への悔しさだったら。
この時代へ帰ってきたことへの後悔だったら。
俺の傍に居ることを拒絶したのだとしたら。
そう思うと、かごめが目覚めた時を考えるのが怖かった。
「犬夜叉。」
背後の声に俺は立ち止まった。
「かごめ様、見つかったのですね?」
村を抜ける手前で、弥勒が俺を捉えた。俺は振り向かず、唯一言残した。
「あぁ。心配かけてすまねぇ。礼は…いずれする。」
そう言って再び歩き始める。振り返れなかった。今の自分を、見られたくなかった。
「犬夜叉。かごめ様が何のためにこちらに戻って来られたのか、忘れるでないぞ。」
そう言う弥勒の言葉を噛み締めながら、腕の中の愛しい女をきつく抱いた。
主の留守ですっかり冷えた家を温める。かごめを敷いた衣の上に寝かせ、囲炉裏に火をつける。だんだんと大きくなる火が、かご
めの白い頬を明るく照らす。
「…ん…?」
すると、急な明かりに顔をしかめるようにしてかごめの瞼が微かに動く。
「起きたのか?」
かごめの傍までより、その身体をそっと自分の膝に抱えた。
「い…ぬやしゃ…?」
覚醒しきれていない頭を擡げ、ゆっくりとかごめの瞼が開き、俺の顔を見て驚いたようにさらに目を見開いた。
「ど…して…。」
あぁ、やっぱりか。
そう思った。こいつは、俺から逃げたのだと。
「………あんま、心配させんじゃねぇ…。」
それだけ呟いて細い身体を胸に引き寄せると、吐く息が震えた。
「ごめんなさい。」
胸の中で、かごめが呟く。微かに、涙の匂いが香ってきた。
俺はしばらくかごめを腕に抱いたまま黙っていた。かごめも何も言わなかった。
小屋の中がほんのり温かくなってきた頃、俺は意を決して口を開いた。
「どうして、井戸の中に居たんだよ。」
と。
「…。」
答えない。その沈黙に押し潰されそうだった。俺は先を急ぐようにして言ってしまった。
「帰りてぇのか?」
すると、俺の胸に顔を埋めていたかごめが、大きく反るようにして顔をあげた。涙が溜まった哀しい目をしていた。
「どうして…そんなこと言う…の…。」
「か…。」
次の瞬間、かごめが強く俺の身体を押して離れた。
「どうして!?」
せきを切ったように、かごめの目から雫が零れた。軽薄な俺を諌めるように、囲炉裏の牧が音を立てて砕けた。
「もう…やだ…。犬夜叉の考えてることがわかんない…。あの頃よりも…あたしを見てくれなかった頃よりずっと!!」
かごめの涙を唯見つめた。見たくなくて、ずっと避けてきた涙。
俺は馬鹿だ。
俺は咄嗟に離れたかごめの腕を強く引き、もう一度自分の腕におさめた。
「やだっ!!離して!」
「離さねぇ。」
俺は逃れようとするかごめの腕を押さえ込み、そのまま床に引き倒した。
かごめが驚いて動きを止める。俺はかごめに覆い被さるようにして抱きすくめた。
久しぶりだ。こんなに触れるのは…。
かごめの抵抗を押さえながら、ぼんやりと思った。髪に触れ、頭を撫でてやることも、手を引いて隣を歩くことも、背に乗せて運
んでやることもした。
ぎこちなくしか接してやれなかったことが、三年を経て、照れは生じても、迷いなく出来るようになった。
こいつは俺のだ。
そう言えるようになったから。けれど、前にこれほど強く抱きすくめたのはいつだっただろうか。
かごめに触れるのを恐れていた時よりも、腕の中に収めている今がひどく安心する。
「違う…俺にはお前しか居ねぇんだ。」
そう呟くと、俺の胸板を押す力が和らぐ。
「犬夜叉?」
「怖ぇんだ。お前を抱くのが。」
失ってから気付いたのでは遅いのだ。
そう身を持って知っているから、踏み出せない。
「お前を抱けば、子が出来てもおかしくねぇ。」
かごめの髪に顔を埋めたまま呟く。甘い香りに、幾分心が落ち着いたように思えたが、そんな俺を受け止めているかごめの声色は
険しかった。
「それって、あたしとの子供はいらないってこと…?」
「違っ…!!」
咄嗟の弁解は浮かぶように吐き出された言葉に消える。
「あたしって、犬夜叉の何なの?」
「かごめ…。」
俺は口足らずだ。女一人満足に愛してやることも出来ない。それでもかごめはここに帰ってきた。自負…だったのかもしれない。
呟くかごめに、ぐんと隔たった距離を感じた。
「違ぇんだ。」
「違う、違うって、そればっかり!!何も違わないじゃない!!」
かごめが俺を押し退けるようにして身をよじる。
「こんな気持ちになるんだったら……!!」
………『帰ってこなければよかった』か?
次の言葉を言い切る前に流れた涙で、かごめがぽっかりと口を開けたまま押し止まった。その先を言ってしまうのを恐れるように。
「かごめ。」
時が止まったように唯泣き続けるかごめに語りかける。瞳が微かにこちらを見た。
「俺の命の代償は、お袋の命だった。」
かごめの瞳が、はっきりと俺を捉える。
「半妖でも、親父は西国の大妖怪だ。押さえを知らないガキの妖気だって半端ねぇ。唯でさえお袋は弱い女だった。触れたら壊れ
ちまうような。」
急に静まり反った小屋の中で、俺の声だけがやけに響いた。
「そんな女の腹の中で、妖気が何月もうごめくのが想像できるか?」
「犬夜……。」
「食い潰したんだ。お袋の命を、俺が…。」
不本意に目頭が熱くなった。ずっと心の奥にしまっていた言葉。
吐き出してしまうと、こんなにも核心をついている自分の言葉に驚く。
「俺は、かごめを死なせたくねぇ。」
半妖の身体で、人間の女を抱く。
腕の中で、かごめの身体が僅かに軋んだ。
「もう、お前が居ない時間には戻れねぇ。」
それが全て。お前が全てだ。
一息の間を置いて、かごめの声が、俺の声と同じように、静かな夜に浮かぶ。
「だから、よ。」
「え?」
俺は顔を埋めていたかごめの髪から身体を起こす。かちあった視線は、射抜くように俺を見ていた。
「あたしだって、犬夜叉が居ない時間には戻れない。」
かごめが、ゆっくりと俺の肩を押し、身体を起こして対座する。
「だけど、あたしはあんたより先に死ぬわ。だって、あたしは人間だもの。」
真摯な目で、かごめはそう告げた。わかっていたことなのに、そう言う迷いのない目を見つめていられなかった。
目を逸らして無意識に唇を噛んだ俺の拳に、かごめがそっと手を添えた。
「だから、家族が欲しいの。」
俺はかごめを再度見る。優しい笑顔を浮かべていた。
「あたしには、死ぬまで犬夜叉が居てくれる。でも、あたしにそれは出来ないから…。」
そう言って、かごめの腕が俺の背にゆっくりと回される。俺は身を固くしたままかごめの抱擁を受けていた。
「あたしが死んでも、子供や、その子供達が犬夜叉の傍に居てくれるの。」
俺は無意識にかごめの背に同じように腕を回した。
「もう、絶対独りにはさせない。」
強い女だった。昔から。
曇りのない目で、隔てなく見つめ返してくる目が好きだった。
傷ついた気持ちを隠して、それでもこの俺に笑顔を向けてくれるのは、後にも先にも
かごめだけだ。
俺が泣くのは、愛しい女が死ぬ時だけ。そう思ってたが……………
「犬夜叉…?」
「な、…何でもねぇ。」
俺は頬に伸びてきたかごめの手をやんわりと押し返して、衣の袖で目頭を拭った。
涙じゃねぇ。
心の中でそう言い訳を繰り返したが、目の前の女は見通したように笑っている。
「わ、笑うんじゃねぇ。」
そう言ってキッと睨むと、
「よかった。」
「あ…?」
俺は予想外の言葉と笑っていたはずのかごめの頬を、俺のが移ったかのように伝う雫を見て、息を殺した。
「ここに……犬夜叉のところに、帰ってきて…」
そう言って浮かぶ笑顔に、また目頭が熱くなった。
「よかった。」
俺も
俺もよかった。お前がここに居てくれて。
「もう、大丈夫みたいだね。」
「そのようで。」
夜もとっぷりと更けた小屋の外で、弥勒とかごめが息を潜めるようにして中の様子を伺っていた。
「そろそろ行きましょうか。いつまでも子供達を楓様に預けておく訳にも参りません。」
そう言って、弥勒は鼻の効く犬夜叉に勘づかれないようにと這った結界を解いた。
「それに…。」
弥勒は珊瑚の背に手を添えながら、そっとその場を後にする。
「それに、何だい?」
声を潜めながら聞く珊瑚に、弥勒は全て心得ているといったような不適な笑みで、
「初夜…いえ、久方の閨を邪魔する訳にはいきませんからね。」
「なっ!!」
声を殺しつつも珊瑚は闇夜でもわかる程頬を赤らめる。そんな珊瑚に、弥勒はいつも一言多いのだ。
「どうです?珊瑚。今宵は子供達も居りませんし、私はもう一人出来ても………」
「阿呆!!」
下弦の月が淡く光る。
それぞれが静かに眠ることの出来る夜が、それぞれの為に更けていく。
いつもと変わらぬ夜に得た幸福に、それぞれが同じ安息を噛み締めた。
「ねぇ。」
俺は屋根の上、かごめは小屋の前に座り込んでいる。また俺は放ったらかしだ。
最近、急速にかごめとの時間が奪われている気がする。
以前まで昼間は楓と珊瑚に占領され、やっと夜だけでもゆっくりと過ごせるようになったこの頃。
楓がかごめの身体を気遣い、巫女仕事を半減させたにも関わらず、その空いた時間をこいつは珊瑚のところへ『れっすん』
…もとい修業などとやらをしに忽然と居なくなる。
夜はもちろん俺に構う暇などないかのように、着実な成長に合わせて準備を整える。
つい最近まで井戸ん中に飛び込んで泣いていたやつだとは思えない。今では俺がそうしたいくらいだ。
「ねぇってば。」
「あ?」
俺は何をするでもなく日光浴とやらに投じるかごめを見下ろす。
「名前、何にする?」
何が楽しいのか、屋根の上で昼寝をしていた俺を見つけてから、こいつは始終笑顔だ。
「何にって、まだ男か女かわからねぇじゃねぇか。」
俺は怪訝な顔のまま身体を起こす。屋根の縁に当たっていたせいか、やんわりと背が痛んだ。
「きっと男の子よ。」
かごめが俺を見上げる。
「何でわかるんだよ。」
「何となく。」
「けっ。当てになんねぇな。」
俺はそう言って、また同じように寝転がる。ぼんやりと空を眺めながら、今言われたことを考えていたなどとは、
口が避けても言えない。
「何よー。母親の勘が信じられないって言うの?」
飛んで来た不平を無視すると、卑怯な一声が返って来た。
「男の子だったら犬夜叉なんか相手してやんないから。」
「なっ!!」
俺はガバッと身体を起こし、かごめを再度見下ろす。勝ち誇ったような顔で、小屋の壁に凭れかかっている。
あたしも上生きたい、と言われるままにかごめを渋々屋根の上にあげてやると、腹に手を当ててこれみよがしに
「早く生まれてきてねー。」
と呟く。
「…俺は女がいい。」
同じように優勢なかごめの隣で呟く。
「お父さんより格好よく。」
寝転んでそう笑う。
「かごめに似てるやつ。」
また同じように寝転んぶ。
「名前どうしよっかなー。」
「………お前人の話聞いてねぇだろ。」
そう言うと、かごめが声をあげて笑った。
…ったく。
そう思いつつも、この上ない幸せを素直に感じている自分を否めない。
「犬夜叉。」
「あんだよ。」
ふて腐れた顔のまま返事をすると、
「自分の子供にヤキモチ妬かないでね。」
「!!」
「ね。」
「…〜〜〜〜!!」
『母は強し、ですぞ。犬夜叉。』
つい最近弥勒がそう言っていたのを思い出す。
ぽっかりと抜けるような青に浮かんだ。
男でも、女でもいい。
出来れば、父親の白銀の髪も琥珀色の瞳も、母親の漆黒の髪も、瞳も、どちらも受け継いで生まれてほしい。
俺達が、時を越えた想いの証だとわかるように。
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