創作小説

女籠 ―兵士と慰安婦―

 彼女は、昔自分はカナリヤだったと言う。 広い部屋に敷かれた絨毯に素足を埋めて、ワンピースの裾をまるで波打ち際でも歩くように両手で握る彼女は、透けるように白い 肌の可憐な人だった。 「カナリヤだったの。」 そう言う彼女の歌は、それを疑わせない程綺麗で、いつも穏やかに屋敷に満ちていた。 「たくさんの人が私を求めたのよ。」 当たり前のように彼女は言うが、少しも驕った素振りは見て取れなくて、 俺は日の差し込む窓辺で踊る彼女をただ静かに眺めていた。 「たくさんの人が主人になった。皆が私を飼いたがったの。」 窓辺にかかった空の鳥籠を揶揄うように指でつついて 「貴方のように。」 とやはり穏やかに彼女は笑う。 そう、とやっと口を開いた俺に彼女は柔らかく微笑んで、それからほんの少し眉を下げた。 「でも、」 彼女は窓の外に視線を投げる。眩しくて、ここからでは彼女の見ている景色は見えない。 「誰も愛してくれなかった。」 垣間見せる憂いの表情は、春の日和が誤魔化すように空に奪っていく。 「一曲歌うわ。最後だから。」 そう言って、彼女はワンピースの裾から手を離し、こちらを振り返る。俺の返事も待たずに開かれた口唇からは、 やはり小鳥のように繊細な音が紡がれる。俺は目を瞑って彼女の歌に聞き入った。 傷を癒す彼女の歌は、心にも、失った右足にも、沁みるように広がった。 「どうだった?」 歌が止み、小さく一息ついた彼女が言う。良かったよ、と俺が言うと、彼女もまた良かった、と微笑んだ。 そうして、満足したように彼女は部屋を、屋敷を出て行った。 彼女の消えた窓辺には、相変わらずの日差しが差し込み、けれど先程よりも幾らかくすんで見えるそれに、改めて、自分は彼女を 愛していたと思い知る。彼女は俺よりも早く、この気持ちに気づいていたのだろうか。 だから、長く暮らしたこの部屋を、いとも簡単に手放したのか。 傍にいてくれとは言わなかった。 「貴方の傷は、癒えないのね。」 失った右足を見て、彼女は静かにそう言った。 その表情が告げるのは、右足を失った自分が、もう戦えないと悟った時の喪失感によく似ていた。 窓の外に目を凝らす。眩しさの向こうに広がる青い空に、また少し目を細める。 血の流れる時代が終わった時、皆がこの空に喜んだ。 皆が歓喜に湧いた時、俺は、彼女は自分の捧げた時間の無情な終わりに声なく嘆いた。 彼女はもう、ここには帰って来ないだろう。 帰るつもりなら、他人に身体を捧げる前に交わした契りを彼女が忘れる筈がなかった。彼女は俺の失った片足を嘆いても、 変わってしまった二人の未来には何も言わなかった。戦いは、彼女から俺への愛を根こそぎ奪っていった。 「私は昔、カナリヤだったの。」 彼女の言葉が蘇る。 そうだった。彼女は昔カナリヤだった。俺の手元で囀って、ずっと変わらないと思っていたのに、籠の外を知った彼女は本当に 愛してくれる主人の心を忘れてしまった。 「皆が私を求めたわ。貴方のように。」 それでも、誰も自分のようには彼女を愛さなかったのに。 空の鳥籠が風に吹かれて窓辺で揺れる。腰を下ろしたベッドの脇に手を伸ばすと、冷たい感触が指に触れた。 錆びた表面に染みているのは、何処の国で誰の身体を切った時に浴びた血なのか。 窓をすり抜けた風がシーツの端をふわりと膨らませ、彼女の出て行った扉の向こうへ走っていった。 何処で間違い、何が間違っていて、本当にそれは過ちだったのか。 冷たい切っ先を喉に押し当て、目を瞑る。彼女の歌が頭の中を反芻し、彼女の微笑が頭を過ると、時期に世界は白くなり、 それ以上何も分からなくなった。


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