二次創作小説

特別な人

「ゴムゴムの…」 捕獲! 「キャァァァァ!」 轟いた悲鳴はサニー号の甲板を越えて、展望台の剣士にも医務室の船医にも、 もちろんキッチンのコックにも、船内問わず過ぎたばかりのレッドラインにも微かに届いた。 「どうした!?ナミさん!」 いち早く飛んできたコックはかき混ぜていたシチュー鍋を放って、お玉片手にデッキへ飛び出してきた。 「な、何だ!」 「敵襲か!?」 「大丈夫?航海士さん。」 あとは届いた悲鳴に驚いて、クルー達が流れ出るようにデッキへと飛び出した。 慌てて芝生に降り立ったクルーが声の主を捜す。 「おーい!ナミさーん。」 コックが人一倍懸命にその姿を探し、皆もそれに準じて辺りを見回す。 が、確かに声の聞こえたその場所にナミの姿は見当たらない。 ナミの姿は。 「おい、ゴム!ナミさん見なかったか!?」 ブランコの下がる木の下で胡座を掻くルフィにサンジが詰め寄る。 ルフィは小さく横に首を振った。 「っかしーな。確かにナミの声が聞こえたと思ったんだが…。」 もう一度ウソップが辺りを見回すが、やはりナミはいない。 「おーい!ナミー?」 チョッパーの可愛らしい呼びかけにも返事はない。 クルー達がルフィを囲んでやっぱり空耳か、とつぶやき始めた頃、 自分が彼女の声を聞き違える筈がないと言い張るコックを抑え、 クルー達の輪の最奥でロビンが口を開いた。 「ねぇ、船長さん?どうして両手を後ろに回してるのかしら。」 クルーが一斉にルフィを見る。いつも煩いルフィは木の幹を背に胡座を掻いたまま、 何故か手を背中に回して黙ったままだ。 「おい。てめぇ、手出してみろ。」 コックの静かな怒声にルフィがすっと目を泳がせる。 隠してやがんな。 誰もがそう思った時、純粋な船医はルフィを越え、くるりと木の幹を回った。 「あ…。」 「あっ!」 ルフィの声を掻き消すようにチョッパーが甲高い声を上げる。 「ナ、ナミ!」 「何っ!?」 チョッパーに続いてクルー達が覗き込むと、木の幹にゴム…もといルフィの手によって口を 塞がれ、ぐるぐる巻きにされたナミがいた。 無論、声の出せないナミはルフィの何重もの手の内でもがいていたが、ルフィの腕はびくとも していない。ナミは怒りで顔を真っ赤に染めて覗き込んだクルーを睨んでいる。 「くぉら!ナミさんを離しやがれクソゴム!」 「嫌だ!」 「嫌だじゃねぇ!」 「おい、この姉ちゃん、すっげぇ怖ぇ顔してんぜ。今離したら逆にやべぇんじゃねぇのか?」 「おい、余計なこと言うな。フランキー!」 「けどよぉ。」 「そうだ!今離すとやべぇんだ。」 「そうだ、じゃねぇ!クソ野郎が。」 「ねぇ、船長さん?」 言い合うクルー達の会話をロビンが遮る。 「何だ、ロビン。」 「航海士さんに嫌われては意味がないんではなくって?」 「…。」 ルフィがじっとロビンを見る。その様子にロビンが何もかも見知ったように片眉を上げると、 ルフィが拗ねたように腕の力を抜いた。 ロビンが笑って、皆がほっと一息つくと、追いかけるようにナミの怒号が響いた。 「こんの…大馬鹿船長っ!!」 「ったく、ルフィにも困ったもんだな。」 夕食後のキッチンにウソップ工場が広げられる。サンジお手製のシチューは昼間の騒ぎで底焦げ が出来、結局チーズたっぷりのグラタンに早変わりしたが、皆大満足で完食した。 競っておかわりした結果膨らんだお腹をオーバーオールの上から摩りながら、ウソップは大きく 溜息をついた。 「全くだ、あの野郎。」 一晩寝かせたシチューがおじゃんになったこともあり、サンジはもうずっと機嫌が悪い。 「あれで隠してるつもりだから質悪ぃんだよな。」 「いや、隠してるつもりはねぇんだろ。言ってねぇだけだ。」 あぁ、そうか、とカウンターでコーラを傾けるフランキーが苦笑う。 サンジ以上に機嫌の悪いナミを宥めるロビンはナミを連れて夕食早々女部屋に引っ込んだ。 チョッパーはグラタンの食べ過ぎで伸びたルフィを医務室のベッドに運んだ。 勿論、健康状態は良好。ただ食べ過ぎただけ。ゾロはデッキで食後の筋トレをしているだろう。 残ったクルーは昼間の騒ぎをネタに何となくキッチンに残っている。 「言ってねぇっつったって、俺たちは勿論、あの姉ちゃんだって気づいてるだろうが。」 「まぁ、気づいてるっつーか…ナミだってルフィと同じだろ。」 「言うな!」 包丁片手に振り向いたサンジにウソップがヒッと悲鳴を上げる。 「けどよ、同じだっつーなら何で毎回毎回怒るんだ?さっさとくっついちまえばいいじゃねぇか。」 今日の騒ぎなど馴染みのクルーからすれば何も初めてのことじゃない。 むしろ、あぁ、またかで済むレベルの話だ。航海が比較的穏やかで、敵襲もなく波も静か… なんて日は、思い出したように今日のような騒ぎが起きる。 いつからだったかなんてもう思い出せない。 「ナミがはい、そうですかなんて言うと思うか?照れ隠しみたいなもんだろ?あれは。」 「きちんと言葉にされるのを待ってるってことか?」 「まぁそう言うことだろうな。あれで結構女っぽいとこあるからな、ナミは。」 「ナミさんは立派なレディだっ!」 語気を強めるサンジに分かったよ、とウソップ。 「ともかく俺たちを巻き込むのは勘弁して欲しいな。いつものこととは言え、 今日はてっきり敵襲かと思っちまったぜ。」 「違いねぇ。」 と、話を遮るように船室の扉が開く。 「おい、コック。酒。」 首にタオルを引っ掛け、トレーニング終わりのゾロが立っていた。 「汗かいたままキッチン来んじゃねぇぞ。今出してやっからそこで待ってろ。」 振り返らないサンジに分かってる、とゾロが言う。 「見張り台にいる。」 言って去っていくゾロにサンジが慌てて声をかける。 「おい、自分で持ってけよ!」 聞こえないふりをしてそのまま扉から離れたゾロに小さく舌打ちしながら、 サンジは酒とつまみの乗ったお盆片手に、ゾロを追いかけるようにキッチンを出て行った。 残ったウソップとフランキーが呟く。 「要するに酒も要るがサンジも要るんだ、と。」 「コックの兄ちゃんもなんだかんだ言ってつまみの用意は怠らねぇ癖に舌打ちなんて可愛くねぇな。」 「おい、サンジが聞いたら怒るぞ。」 「だな。あれも照れ隠しか?」 「違いねぇ。」 女部屋のデスクで羽ペンがミシッと嫌な音を立てる。ベッドに腰掛けながら、 ロビンはナミの手の中のそれを憐れむように見つめた。 「…むかつく。」 「駄目よ、ナミちゃん。お肌に悪いわ。」 冷静なロビンの言葉にナミの手が僅かに緩む。 ロビンは読みかけの歴史書を閉じて自分の脇に置いた。 「船長さんは本当にあなたのことが好きなのね。」 「…。」 「あなたも、船長さんが好きなのね。」 「そんなことっ…!」 「あら、違って?」 「…。」 戸惑うような溜息をついて、今度はナミが書きかけの航海日誌を閉じた。 「ルフィは…私のことなんて何とも思ってないのよ。」 「あら、どうして?否定しなかったじゃない。」 尋ねるロビンにナミは小さく首を振る。 「そうね。でもルフィも肯定はしないもの。」 振り向かないナミの表情はロビンには分からなかったが、その声色を気遣って、 ロビンがナミの後ろに立った。 「あなたが大人にならなくちゃ。彼の船を導くのがあなたの仕事でしょう?航海士さん。」 「…ずるいわね、その言い方。」 拗ねた声にロビンは少し肩をすくめる。それでもナミの握った拳からは力が抜けた。 「今日の夕食、美味しかったわね。でも、少しさっぱりしたものも欲しいかしら。」 唐突な話にナミがロビンを見上げる。 「コックさんに美味しいドリンクでもお願いしましょう?」 そう言って微笑むロビンに、ナミは暫し考えるて、つられるようにそうね、と笑った。 「で、何でこうなるんだよ…。」 尻すぼみな自分の言葉に、サンジは深く気落ちした。ゾロが平然と酒瓶を掲げる。 「お前も飲むか?」 「飲まねぇよ!」 そんな度数の高い酒が飲めるか、と冷静なサンジは自分の酒に対する力量を見切っている。 ゾロはサンジがそう言うだろうことを予想してか、さして気にした風もなく、 見張り台まで追いかけ て来た酒付きのサンジを膝の上に抱え上げたままでいる。 何で膝だよ。 心の中で悪態をついてもゾロに届く筈もなく、散々暴れた跡のサンジもとりあえずスーツの上着 だけ脱いで不本意ながらゾロに体を預けていた。 「…汗臭ぇ。風呂入れよ。」 「んな暇なかったんだよ。昼間の騒ぎで中断した分、夜鍛えねぇと。」 それなら自分を抱いていないでずっと鍛えてろ。無言の悪態がサンジの中を飛び交う。 だからと言って自分でゾロから離れることはやっぱりしない。 「まぁ、ナミさんがキレちまった後、逃げ回るルフィやら慌てるウソップやチョッパーやらで トレーニングどころじゃなかったからな。」 実際、おじゃんになったシチューを見て騒ぎ立てた自分も含め、我関せずのロビンと壊れた先から 船を直して回るフランキーの代わりに暴れるクルーと倒れるクルーを拾って回ったのはゾロの役目だった。 その点に関してはキッチンでわめき散らした割りに宥めに来たゾロの 「焦げても食う。心配ねぇ。」の一言に絆された自分には何も言えない。 「そういや、ナミはまだ撫すくれてんのか。」 「ナミさんはブスじゃねぇ。まぁ…多少クソゴムのせいでご機嫌斜めでいらっしゃるが…。」 それを撫すくれてると言うのだ、とゾロは思ったが、ルフィにも考えものだ。 「ルフィは。」 「医務室。腹が膨れて立てねぇんだと。」 チョッパーが面倒見てるよ、とサンジが呆れたように答える。 「ったく、あいつは。とんだ船長だな。」 敵襲でもあったらどうすんだ、とゾロも言う。 「それよりナミさんだ。認めたくねぇがな。」 「お前が認めるも何もねぇだろうが。」 「分かってるけどよぉ…。」 全てのレディは俺のもんだ。例え俺がゾロのもんになろうとも。 「まぁ、そのうちなるようになるだろ。」 「なるようになっちゃ困るんだっつーの。」 俺だけのナミさんだったのに、と永遠に一方通行の忠誠心がぽっかりと行き場をなくす。 「ルフィもまだガキくせぇとは言え男だ。いざとなったら早ぇだろうよ。」 そう言って瓶の中身を飲み干したゾロはサンジに惚れたと呟いてから抱き込むまで数秒だった。 「自分のことは棚に上げやがって…。」 サンジの呟きに聞こえなかったふりをして、瓶を手放した手をそのままサンジのシャツに伸ばす。 「うわ、何だよ?!今日はしねぇぞ!まだ片付けが…。」 「うっせぇ。」 膝の上で抱え上げられたまま落ちてくる琥珀色の眼に唇を噛む。シンクに残った洗いものを頭の 片隅に残しながら、サンジが目を瞑りかけた時、 「サンジくーん。いるー?」 「ナミさんだ!」 先刻まで抜け出せなかったゾロの腕の間をするりと抜けて、サンジが窓からデッキを見下ろす。 むっと顔を顰めたゾロを後方に、見上げるナミに手を振った。 「何か冷たいものもらえる?ロビンの分も。」 「はーい!喜んでー!」 ナミに愛想のいい返事を返して床下の階段に足をかける。 「おい!」 ゾロが不機嫌そうにサンジを見下ろす。 「ナミさんのご機嫌が戻った以上、レディ達が最優先だ。諦めろ。」 「…。」 納得のいかないゾロを見上げてサンジは小さく肩を竦めた。キッチンへと急ぎつつも、 ハッチを閉める瞬間、 「いい子にしてたら後で相手してやるよ。」 そう言い残して、サンジはあっさりと出て行った。 やっとこさズボンから引き出したサンジのシャツは、知らぬ間にきちんとズボンの中に収まって いる。1人残されたゾロは小さく舌打ちして諦めたように頭を掻いた。 「さっさと終わらせてくれ…ルフィ。」 「ごめんね、いいところを邪魔しちゃって。」 悪戯っぽく言うナミに小さな声で何のことですか、と愛想笑っておきながら、内心ちょっとだけ、いや、ほんのちょっとだけ…がっかりしていた。もちろん、女性陣の答えに応じずにはいられないのがサンジであるが。 「シャツはきちんと収まってるみたいだけど、スーツの上着はどうしたの?」 ロビンと二人カウンターに並んで、ナミが言う。サンジははっとして自分の胸元を覗きこんだ。 そう言えば、見張り台で脱ぎっぱなしにして羽織らずに降りてきてしまった。 言葉に詰まるサンジを見て、ロビンがその辺にしてあげたら、と助け舟を出す。 それに甘えてサンジは逃げるようにカウンターの奥に引っ込んだ。 「何にします?紅茶?珈琲?」 「うーん…何かさっぱりしたものがいいな。」 「そうね。フルーツを使ったドリンクを頂ける?コックさん。」 「畏まりました。少々お待ちを。」 言って直ぐに冷蔵庫から前に停泊した島で仕入れておいた南国風のフルーツを数種類とり出す サンジの背を眺めながら、ナミはぼんやりと肩肘をついた。 「サンジ君はいいわね。大事にされてて。」 羨ましげに言うナミに、サンジはほんの少し振り返って眉を下げる。 ゾロとサンジの仲は隠すまでもなくクルー全員が知っていることなので、何も今更隠しだてすることもないのだが、サンジとしては女性陣にその手の話を待ちだされることが居た堪れなかった。 「サンジ君達がそう言う仲だって初めて知った時は天地がひっくり返るほど驚いたし、 この船にホモカップルだなんてって思ったけど…。」 ずけずけともの言うナミに苦笑うロビンとサンジ。 もちろんサンジはフルーツの果汁を搾りながら冷や汗ものだ。でも、とナミが言う。 「無条件に傍にいられるのって、幸せでしょ?」 サンジは小さなカクテルグラスに炭酸水を注ぐ。 小さな泡が光を反射しながら結晶の欠片の様に浮いては弾ける。 ロビンがテーブルの上で組んだ腕を俯いたまま組みかえた。 「…そうですね。」 サンジが笑う。 「勿論レディ達に奉仕するのが俺の最高の喜びですけど、コックの自分に何かを与えてくれるのは 不本意ながらあのクソマリモだけですからね。」 珍しく自分達のことを語るサンジにナミもロビンも顔を上げた。 後に照れたように笑ったサンジは片目を瞑って「いい意味にも悪い意味にもですけど。」 と付け足した。 「さ、お待たせしました。カクテル風トロピカーナです、レディ。」 そう言って小さなプラムの欠片が刺さった可愛らしいカクテルグラスが二人の前に差し出された。 「わあ、可愛い。」 「本当。ありがとう、コックさん。」 「どう致しまして。」 夜風に当たって身体を冷やす。 結局サンジの手料理に溺れてカクテル風のフルーツジュースがカクテルになり、 やけ酒交じりに杯数を重ね、気付けばすっかり出来上がっていた。 サンジにドクターストップならぬバーテンストップがかかり、 先に部屋に帰ると言うロビンに酔いを冷ましてこいと言われ、 今回ばかりはナミも二人の言葉に素直に従った。 「ちょっと飲みすぎたかなぁ…。」 自分の気持ちが弱っている時は、何故か同じ境遇の人間に優しくしたくなるのが人の情と言うもので、 普段は「ホモカップル」呼ばわりしているサンジに自分の介抱を早々に切り上げさせ、 恐らく飢えたまま待たされているであろうゾロのもとへと送りこんだ。 申し訳なさそうに、けれども何処か和らいだ表情で夜食片手に展望台へと上がって行くサンジの背中を 見つめながら、ナミはサンジの言葉を思い出していた。 『コックである自分に何かを与えてくれるのはゾロしかいない。』 ふいに左腕のエターナルポースに触れる。彼は、自分に居場所と自由を与えてくれた。 それは永遠に変わらず、不変にあるものだ。例えば、今の関係が不満な訳じゃない。 仲間のままでも傍に居られることで穏やかな思いを得られるのなら、 それでもいいなんて殊勝なことも考えている。けれど、自分がこの船に、 あの男に与えているのは進路。彼の目指す夢までの道だ。もしその夢が叶った時を思うと怖いのだ。 特別でなければ、いつか必要でなくなる時が来る。 自信家の自分には似合わない考えだとは分かっているのに、こんなことを考えるなんて、 自分も一丁前に女だったのだと思ってしまう。 涼しい夜風に当たって、火照った頬をデッキの手摺りに擡げる。ただ辛いのは、 この船の何処にいても、ルフィの香りがすることだ。 「あ〜!やっと動けるようになった。」 ふいに聞こえて来た声に、ナミははっと顔を上げる。 「もう食べ過ぎは駄目だぞ、ルフィ。」 「おう!さんきゅな、チョッパー。」 医務室の扉が開く音がして、チョッパーの声も微かにデッキまで届いて来た。 「うん。それじゃあね。おやすみ。」 チョッパーの声に重ねておやすみ〜と間の抜けたルフィの返事が夜空に抜ける。 ばたばたと子供っぽい足音が船内をデッキに向かって近づいてくる。 船内の扉がばたんと開いて、ナミは少しどきりとした。 「動けるようになったら何か腹減ったな〜。サンジになんか作ってもらおうかな。」 声と同時にナミが投げかけた視線の先にルフィが姿を現す。 かち合った視線にナミはまたどきりと胸を打つ。 「お、ナミ。」 普段と変わらない声に、ナミは分からない様に溜め息を吐いて、ルフィから視線を逸らした。 「サンジ君ならゾロのとこ。邪魔しちゃ駄目よ。」 すかさず飛んでくる落胆の声。 「えー!!くっそぉ、ゾロの奴。サンジを一人占めしやがって。ずりぃぞ!…ってかナミ、 お前こんなとこで何してんだ?」 「何も。ただ風に当たってただけ。」 つっけんどんな返事にルフィが顔を覗き込むようにこちらを窺ってくる。 「まだ怒ってんのか?」 「…別に。」 ナミは目を伏せながら言う。平生を装っているつもりで、声は明らかに不機嫌そうだ。 「いや、声が怒ってるぞ。」 「怒ってないわよ。」 「ほんとか?」 ルフィがまた一歩近づいて、ナミを覗きこむ。強くなる、この船の香り。ルフィの香り。 ナミは一度ぎゅっと目を瞑って、ぱっとルフィに向き直った。 「ねぇ、ルフィ。」 「何だ?」 きょとんと丸い目が見返してくる。もうこの瞳に見返されるのが居た堪れなくて仕方ない。 「もし、あんたが海賊王になったら、私、この船を降りるわ。」 「駄目だ!!」 咄嗟に帰って来た言葉に、聞いたナミ本人が驚いた。 「何でよ?もう必要なくなるのよ?」 その先の航路がルフィが自由に決めればいい。あんたが海賊王になったら、 私の役目はなくなってしまう。 「駄目だ!そんなことねぇ!」 「どうして?」 意地悪い質問だとは分かっていた。けれど、早く気付いてほしかった。 「ナミはいるぞ。絶対いる。」 「だから…どうして?」 どうして、自分はルフィに必要なの。 「ナミはいる…いるんだ。」 独り言のような言葉を聞きながら、明確な答えを待つ。 しかし、いくらナミがその言葉の先を待っても、ルフィはただ考え込むように黙ってしまうだけだった。 「…。」 やっぱり。 ナミは自分で作った空間から逃げるようにデッキを離れ、向かい合っていたルフィの傍を通り過ぎた。 「何か冷えてきちゃった。私、もう寝るわね。」 いつもの調子ですたすたと船内扉へと歩いて行くナミにあっけにとられ、ルフィは慌てて返事をした。 「あ?お、おう…。」 その声に、ナミはちくりと胸が痛むのを感じたが、気付かなかったふりをして、扉のノブに手をかけた。 「おやすみ。」 おやすみ、とルフィの小さな声が帰って来る頃には、 ナミの入って行った船内扉は静かに閉じられた後だった。 「だあああっ!!あの大馬鹿野郎がっ!!」 少し開いた展望台の窓に張り付いて、サンジは一人悶絶していた。 サンジが目を凝らして眺めるデッキには、ルフィを残して船内へと返って行くナミの姿があった。 「今が決め所だろうがっ!!」 「お前さっきと言ってること違うな。」 ゾロはそんなサンジを少し離れた所で眺めながら、もう何度目かの溜め息を零す。 やっと戻って来たかと思えば、大人しく腕の中に収まるでもなく、窓枠に張り付いて覗き。 ルフィの声が聞こえてきた時には窓ガラスが圧力で割れるのではないかと言うほど額を押しつけて その様子を窺う恋人に、ゾロはもう何も言えない。 とりあえず、こちらに突き出されているスラックスの中の形のいい尻を眺めて無理に自分を満足させていた。 「ルフィとナミがくっつくのは嫌なんじゃなかったのかよ。」 「そうだけどよ〜…。」 それでもナミさんには幸せになってほしいんだ。そう言う恋人の言葉にゾロはほんの少し嫉妬する。 「ほら、もういいだろ。こっちこいよ。」 「まだ。」 ルフィがキッチン荒さねぇか見届けねぇと。 そう言って結局サンジはルフィが大人しく男部屋へ戻るのを見届けるまで、 窓際から決して離れなかった。 「はー…。ったく。」 やっとソファに腰を降ろしたサンジを抱え上げ、ゾロは自分の胡坐を掻いた足の間に座らせる。 「もういいだろ。」 言いながら首筋に顔を埋め、ゾロはその嗅ぎ慣れた香りに目を瞑った。 「ナミさんにさ…。」 「ナミの話はもういい。」 「いいから聞けよ。」 むっとしたサンジの声に、ゾロは仕方なく埋めた顔を持ち上げる。 ここで機嫌を損ねられたら自分が困る。 「ナミさんがさ、言ってたんだ。無条件に傍にいられるのって、幸せでしょって。」 そう言って、サンジが自分の額をゾロの肩口に押し付ける。ゾロが金糸に指を通すと、 甘えるように擡げた首を擦りつける。 「気づいてないだけなんだよ、ナミさんは。自分だって無条件にルフィの傍にいるんだって。」 「あぁ。」 ゾロはサンジの言おうとしている言葉の意を汲み取って、短くそう返す。 「ルフィにはナミさんがいないと駄目だ。」 「そうだな。」 「ナミさんにも、ルフィがいないと。」 「駄目だな。」 「うん。俺だってナミさんが好きだけどさ、でもさ…。」 サンジが言い淀んで、ゾロは静かにその言葉の続きを待った。 「ルフィにとってのナミさんと俺にとってのナミさんは違うだろ?」 「あぁ。」 「ルフィにとってのナミさんはさ、」 眠いのか、声がまどろむように穏やかになる。 顔を覗きこむと、薄く目を瞑って話しているようだったので、ゾロはサンジを抱えて、 床に広げた毛布の上に、そのままゆっくりと倒れ込んだ。 「ルフィにとってのナミさんはさ、マリモにとっての俺みたいなもんだろ?」 その言葉にゾロはがっくりと肩を落とす。待っていた答えと違うではないか。 「おい。こう言う場合お前にとっての俺みたいだって言うんじゃ…。」 「あ?何でだよ。」 真面目に眉を潜めるサンジに、ゾロは溜め息を一つ吐いて、苦笑った。 「まぁ、強ち間違ってはねぇな。」 言うとサンジは自分の首元で嬉しそうに「だろ?」と笑う。ガキ臭ぇ顔だな、とゾロは思う。 「ルフィにも、いつか分かる…。」 いいながら眠りに落ちて行こうとするサンジを抱え直し、今日はお預けだなと、 ほんの少し残念に思いながら、それでも穏やかなサンジの寝顔に、ゾロは穏やかに笑みを零した。 「いつか…分かる…。」 寝言のようにサンジの言葉が小さく響く。 ゾロの腕がきゅっと自分の身体を抱えるのを感じながら、沈んで行く意識の端で考えていた。 ルフィにも、いつか分かる。ルフィにとってのナミさんが、俺にとってのゾロのように、 無条件に傍に居られて、無条件に必要な唯一無二の人なのだと。 どうして、あんなこと聞くんだ。 ルフィはもやもやと苛立ちに似た思いを抱えたまま、朝靄の残るサニー号のヘッドに座っていた。メリーの頃と同じように特等席のそこからは、普段ならまだ眠っているであろう頃に見られる涼やかな朝の海が広がっている。ルフィがこんなに早起きをするのは初めてのことだった。 船を降りる。 ナミの昨夜の一言が、頭にこびり付いて離れない。何故、降りるなんて言う。 この船の、自分の航海士はナミしかいないというのに。 「何でだ。」 悩みなんてものはいつも、実力行使で解決するルフィにとって、 こんなに繊細でどうにもならない思いを抱えるのは初めてに近いことだった。 どうしてと聞くナミに、こうだと言える自分を知らない。 「何でだ。」 もう何度も同じ言葉を繰り返しながら、ルフィはサニー号の先に見える色の薄い水平線に目を凝らしていた。 「何でだ。」 「おはよう、船長さん。」 突然かかった声にルフィが振り向くと、そこにはブランケットを肩にひっかけ、 珈琲片手に微笑むロビンが立っていた。 「おう、何だロビン。お前、もう起きてんのか。」 「えぇ。昨夜面白い本を見つけたから、一晩中読み耽ってしまって。」 そう言うロビンは自分で淹れたのであろう珈琲カップを掲げて見せる。 「ところで船長さん、誰かと話していたの?」 「いや?俺一人だぞ。」 「そう?でも声が聞こえたわ。何か独り言だったのかしら。」 そう言うロビンの笑顔はいつもと同じで、ルフィは暫し考えてサニーのヘッドからひょいと飛び降りると、 ロビンに向き直ってその場に胡坐を掻いて座った。ロビンもあわせるように腰を降ろす。 「ナミは、俺のことが嫌いなのか?」 ルフィの唐突な言葉にロビンは目を丸くする。 「どうして、そう思うの?」 「…俺が海賊王になったら、ナミは船を降りるって言うんだ。俺、ナミに何かしたか?」 ルフィの素直な言葉に、逆にその言葉の中に明確な答えが何一つないのだとロビンは感じた。 返事に困った挙句、ロビンは率直にその答えまで導くことにした。 「何かしたからじゃなくて、何もしないから、じゃないのかしら?」 「ん?どういう意味だ。」 首を傾げるルフィに、ロビンは諭す様に続ける。 「船長さんは、船医さんのこと好き?」 「チョッパーか?好きだぞ。」 「じゃあ、長鼻君は?」 「好きだ。」 「剣士さんや、コックさんは?」 「好きだ。」 言いながらルフィは頭の端で、ゾロはたまにサンジを独占するから嫌いだ、 なんて意地悪いことを考えたりもした。 「私やフランキーは?」 「好きだ。」 「それじゃあ、航海士さんは?」 「もちろん好きだ。」 「その好きは、私達が好きなのと一緒かしら?」 長い間、ルフィは甲板の一点を見つめて考えていた。 ロビンは時折珈琲を口に運んでその様子をじっと見守る。 やがて、ルフィがぽつりと言葉を漏らした。 「皆、好きだ。」 その言葉に、ナミは含まれていないと、ロビンには分かっていた。 「航海士さんは?」 穏やかな声で先を促す。いつになく真剣な声が、淀みなくルフィの口から発せられた。 「…好きだ。」 その声に、迷いはない。ロビンは無言でふわりと笑って腰を上げる。 「私、女部屋に戻るわね。船長さんはもう少しここに?」 ルフィも麦わら帽子を深く被り直して、船先が示す水平線の向こうを眺める。 「あぁ。さんきゅ、ロビン。」 ほんの少し赤い耳をロビンは可愛いなどと思いながら、 「えぇ。」 そう言って、ゆっくりとその場を後にした。 「世話が焼けるな。」 船内に戻る途中、デッキの傍に立っていた人影がロビンの背中に声をかける。 ロビンは振り向くことなく、その背に言葉を返す。 「えぇ、ほんとに。最初の頃のあなたみたい。」 「あ?俺ぁ、あんなんじゃ…。」 「私も好きよ?あなたのこと。」 その言葉を遮る様に先手を打つと、大きな影はぴくりと揺れる。 「…朝っぱらから何言ってんだ。」 照れたように踵を返した海パン姿の背中に、ロビンは小さく笑みを零して船内に消えて行った。 いつもより少し遅れて、サンジが見張り台からキッチンへと向かう。 どうせ寝惚けたゾロの腕から抜けだすのに時間がかかったのだろう。 いくら無知なルフィでも、船長としてそう言う内部事情はこっそり知っていたりする。 サニーのヘッドに座ってデッキを見つめながら、ルフィは待っていた。 「あら、サンジ君。おはよ。」 「あ、ナミすわん!おはようございまーす。」 暫くして、船内でサンジとやりとりするナミの声が聞こえて来た。 ルフィはひょいとヘッドを飛び降り、デッキまで飛んでいく。 新聞を広げたナミが、眠気眼のまま甲板を通り過ぎて行くところだった。 「ナミ。」 控えめに声をかけると、ナミはゆっくりと視線を泳がせてルフィを捉え、 ほんの一瞬困ったように笑ってから、すぐにいつもの勝気な表情で 「おはよ、ルフィ。」 言いながら、欠伸を1つ。 デッキに捕まって歩いてくるナミを見つめる自分の横を通り過ぎる寸前、 ルフィがナミの腕を掴んだ。 「ナミ、困るぞ。」 「は?」 話の糸が見えず、ナミが怪訝そうに顔を顰める。 「船降りるなんて言うな。困る。」 あぁ、昨日の話かと思い当たると、ほんの少し鬱な気分になる。 「あ、そ。」 そっけない態度でナミはルフィの腕を振りほどこうとするが、 きつく握られていて思うようには振りほどけない。 「困るぞ。」 理由も分からないくせに。小さな溜息がしらず零れそうになった時だった。 「好きだ、ナミ。」 「え…。」 「好きだ。」 「何、言って…。」 すっとナミの手から力が抜ける。それと相反して、ルフィはナミの腕をぎゅっと自分に引き寄せた。 「他の奴らもみんな好きだ。」 あぁ、そう言うこと。ナミは擡げかけた期待を手放して苦笑う。引っ張られた勢いで、 新聞を足元に落としてしまった。朝からがっかりさせるような真似をしないでほしい。ナミはきゅっと唇を噛んだ。 「でも、ナミの好きは違う。」 「ルフィ?」 新聞を拾いかけた手を止め、目の前の顔を見上げると、いつかどこかで見た様な大人の顔をした 麦わら帽子がそこにいた。 「困るぞ。」 この顔を見たら、嫌でももう分かってしまう。そう気付いた瞬間、ナミは慌てて顔を伏せた。 「ナミはいなくちゃ駄目だ。」 視線を逸らすと、代わりのように伸びて来た腕にひっぱられ、今度こそ赤いベストにダイブする。どんなに傍に居ても、今ほどこの男に近いと思った時はない。ナミは唇の端を噛んだままその肩口に頬を埋めた。 「…ん。」 「絶対だぞ。」 「うん。」 眼を瞑って、ルフィの声を聞く。 いなくちゃ駄目だ。絶対だ。 特別だ。 朝靄のかかるサニー号の甲板で、静かに行われた麦わら海賊団きっての盛大な告白を、 お子様トリオのうちの二人を除いて、朝ご飯を待つキッチンの船内扉に張り付いたクルー達が 聞いているとは、ルフィもナミも気づかなかった。


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