二次創作小説
海の向こうへ
つい、数日前のことなのに。
「大丈夫?ナミさん。」
電電虫の向こうで心配そうなサンジくんの声に、
「何言ってんの、大丈夫に決まってるでしょ。」
そう答えたのは、つい数日前のことだったのに。
「海賊王が捕まったって。」
街を行き交う噂に耳を塞いで、子供の手を引きながら、それでも自分は大通りを闊歩する。
「ねぇ、海賊王って父ちゃんのこと?」
見上げて来る無垢な瞳に曖昧に笑って前を向く。少しでも俯いたら、作った笑顔が崩れて、堪えたものが流れてしまう。
平然を装った心さえ、崩れてしまいそうな気がしてならない。
以前は平気だった偽りの素振りも、幸せに甘んじた今はもうそのやり方を忘れてしまった。
「帰ろうか。」
独り言のように繋いだ手を引っ張って、喧騒を離れる。少しずつ前方に広がって来た蒼い水平線を見て、ほんの少し心が和らいだ。
あいつは必ず帰ると言った。
その言葉を疑いたくないからと自分の心に言い訳して、確かな情報にも噂だと耳を塞いできた。
『海賊王が捕まったって。』
『クルーは。』
『一人だったそうだ。』
痛む心を抑える変わりにきつく瞼を閉じる。何故、一人で行かせたのか。自分が居れば、船で逃げ切ることも容易かったのに。
その後悔ばかりが頭を過る。
「母ちゃん、お船だよ!」
足元から聞こえて来た声にはっとする。真っ直ぐ前を向いて歩いていたはずが、いつの間にか俯いてしまった顔を上げると、
随分近くなっていた水平線と見慣れた家の影、
そして、その二つを繋ぐ様に伸びる桟橋に、一隻の船が止まっている。そのヘッドに見覚えがあった。
「母ちゃん?」
子供の手を引き、慌てて家へと走る。早鐘のような鼓動が苦しく、強く引っ張った手に小さな声で苦情が飛ぶが、構わず走った。
予想通り、家の前には見知った人影が並んでいた。
「…皆。」
離れてもう何年だろう。それでも見忘れたことのない懐かしいクルーの姿に、堪えていた涙が溢れ出す。
「ルフィが…!」
皆それを知っているからここにいるのだろう。それでもナミは言わずにいられなかった。何も言わず、ロビンがナミの肩を抱いた。
「…よく一人で頑張ったわね。」
到着が遅れてすまないと、サンジがくしゃくしゃの顔で言う。
小さな蹄を握ったチョッパーが、子供のように自分の服の裾を引っ張るので、思わずその身を抱きしめて、呟いた。
「助けて…皆…。」
「落ち着いた?」
キッチンに戻って来たサンジに、開口一番ロビンが問う。
「うん、暖かいカモミールティーをチョッパーに預けて来た。少し眠ればよくなるよ。」
「そう。随分取り乱していたし、顔色も悪かったから…。」
「チョッパーは大丈夫だって言うし、きっとすぐ目を覚ますよ。」
何時になく冷静なサンジの言葉を聞いて、ナミの家のリビングに集まっていた皆は一同に安堵の息を吐く。
小さな家に古株のクルーが数名、それでも最も重要な一人を欠いたメンバーからはぽっかりと空虚な雰囲気が消えることはない。
「それにしても皆、久しぶりだな。」
暗い空気を一先ずかき消す様にウソップが調子を上げて話題を変えた。気を使ったブルックがヨホホと笑って続きを引き継ぐ。
「そうですねぇ。サニーちゃんもフランキーさんが管理されてましたし、皆さんそれぞれ故郷に帰省していたここ数年はすっかり
ご無沙汰でしたから。」
懐かしいですねぇと笑うが、その声色はいつもより数段落ち付いている。
ラフテルに辿りついて後、傍の小島にあるここに家を構えたルフィとナミを見守ってから、フランキーの手でウソップは故郷へ、
サンジはついて行くと聞かないゾロと共にオールブルーに構えたレストランへ、チョッパーをドラムへ、最後にブルックを
ラブーンの待つ岬へ届けられた。もちろんロビンはフランキーと共にサニー号でウォーターセブンへと帰省していた。
一度は周り切った海とは言え、全てのクルーを航海士のナミ抜きでそれぞれの故郷へと送り届ける終わるのにはさすがの
フランキーも2年近くを要したが、それでも皆が懐かしいと感じる程には別々の時を長く過ごした。
こんな形で集まったことを除けば、下船して後、皆今日ほど嬉しい日はない。
「皆さんお元気そうで。」
ブルックがやんわりと言うと、皆微笑むように頷いた。
知らず広がった噂を聞いてすぐ、ロビンと共に船を出したフランキーがそれぞれの故郷へ赴けば、皆旅支度を済ませて今かと二人
の迎えを待っていた。二年かかって送り届けた皆を集め、サニー号がラフテルに辿りついたのは出航から僅か半月。その一途な姿
に感動さえ覚えたものだ。
『いつか必ず、もう一度冒険するぞ。』
ルフィとナミを降ろしてこの島を出る時、ルフィが皆にかけた言葉だ。皆当たり前の様に頷いたのを覚えている。
けれど、それさえももう叶わないのかと思わずにはいられない。
「ゾロも、随分傷が増えたな。」
何気なく隣に座るゾロの腕に見慣れない傷があるのを見て、フランキーが何気なく呟いた。鷹の目に勝った後も、仕掛けて来る敵
を律儀に相手にしているのだろう。まるで、初めて鷹の目に見えた時の自身のように。
「あ?まあな。どうってことない。」
身体の傷は癒えるだろ、とゾロは言う。
チョッパーも、似た様なことを言っていたな、とサンジはぼんやり思った。心の傷は、どんな薬でもってしても治らない。
たとえ、どんなに優秀な船医が、この一味に居たとしても。どんな薬も、どんな治療も、失くしたものには代えられない。
「逃げる…とか、無理かな。」
ウソップは、所在なさ気にテーブルの上の花瓶に触れる。その問いには誰もが口を噤んだ。
「だってさ、ほら。インぺルダウンのこととか…考えると…。」
言い訳のようにそこまで言って、ウソップも自分の言葉を切った。クルーは知っていた。
全てを手に入れ、この海を自由に行き交う術を得た自分達の船長は、みっともなく足掻くことなどしないだろうと。
ローグタウンの処刑場で、バギーに捉えられた彼がそうしたように、最後の瞬間、彼は必ず言葉少なにただ笑うのだろうと。
ゾロが悟ったように口を開く。
「たとえ俺達が迎えに行ったとしても、あいつは残ると言うだろうな。…笑って帰れと、言うだろ。」
サンジが短くなった煙草を揉み消す。ゾロだけではない。本当は皆が分かっていた。
ルフィが自分の意志なく捕まることなどないと。
だからこそ、ルフィが捕まったと言う噂を聞いてすぐはその言葉を疑った。そんなはずはない、あいつはそんなヘマはしない。
だから、もしその話が本当だとすれば、
あいつは自分から捕まりに行ったのだ、と。
「自分の潮時は自分で見極める。」
「え?」
ゾロの言葉に皆が顔を上げる。
「あいつが言ったんだ、船を降りる前の晩に…俺に。」
『抜かるなよ、ルフィ。ナミがついてるからまぁ大丈夫だと思うが…船を降りてもお前は麦わら海賊団の船長であり、海賊王だ。』
『分かってるって、ゾロ。心配すんな。』
『心配もするだろ。しっかりしてると思えば今みたいに鱈腹の腹抱えてその体だからな。』
『はは、まぁな。』
『笑いごとじゃねぇっつーの。』
『大丈夫だ、ゾロ。』
『あ?』
『自分の潮時は、自分で見極めるさ。』
「あいつも、一端の船長なんだなと思ったな。」
ゾロの言葉に、ウソップがきゅっと唇を噛んだ。
どんなにふざけていても、頼りない時があっても、
「ルフィが船長じゃなきゃ、俺達はここには辿りつかなかった。」
サンジが新しい煙草に火をつける。
ロビンが冷たくなった紅茶を啜って、静かに目を閉じた。
「海を周って、海賊王になって、俺達皆が夢を叶えて、あいつにはナミがいて、ガキも出来た。」
「これ以上、先に、あいつの望むものなんてない。」
夢を追うのが海賊だと、この海で一番自由なのが海賊王だと彼は言った。
「自由過ぎるだろ、俺たちに一言もないなんてよ…。」
ぼやくようにサンジが呟いて、ゾロが静かに笑った。
「それが俺達の船長だろ。」
ナミは夢の中で、いつかの記憶をふり返っていた。
全ての海を周りきったあの日のことは、今でも鮮明に思い出せる。柄にもなく歓喜に震えるクルーに交じって笑ったのを、泣いた
のを覚えている。忘れるはずもなかった。
停泊した小島で今までにないほど派手に楽しい宴会を開いて、サンジは始終幸せそうにフライパンを振り、
ゾロも今日ばかりは筋トレそっちのけでお子様トリオに交じって酒を煽った。ロビンでさえ、時折声を上げて笑うような、楽しい
一時を、全てを見終えたその日に過ごした。誰もが時を惜しんで眠らなかった。
「ナミ。」
宴も酣になり、落ち着きを取り戻した夜更けのデッキで、ナミが振り返った先にルフィがいた。
つい先刻まで無体な身体で甲板を転げまわっていた癖に、気付けば気配を消す様にして自分の後ろに立っている。
「どうしたのよ?」
この船に乗ったばかりの頃は細かった腕も、今ではその力に相応しいだけの逞しさが垣間見える。
ぼんやり、男になったな、などと考えながらいつのになく潮らしいルフィを見る。いつもなら、声をかける前に伸びて来た腕に絡
め取られて、どんな要望も実力行使で叶えようとする彼が、ちょっといいか、なんて断りを入れて来た。
「いいけど…。」
言うなりやはり伸びて来た腕に引かれてデッキを登り、船首に向かう。ナミは少し酒の入った緩い頭でどうしたのだろうと考えた
が、そう言えば今日はきちんと二人で話してないなと思い大人しく見慣れた背中について行く。
クルーとしては今日と言う日を喜んだ。けれど船長として、航海士として、そして特別な彼自身と今日と言う日を祝っていない。
何処へ行くのかと思えば本当に船頭の船頭、サニー号の船首の真ん前まで来て立ち止まる。
ルフィがただサニー号のヘッドを眺めているので、自分もそれに従うように見上げた。見上げた先に、蒼い月が大きく広がる。
「ナミ。」
言いながら、伸びて来た腕がナミの腰を捉える。驚いた声を上げる間もなく引き揚げられた身体は、ルフィと共にサニーのヘッド
の上に降ろされる。
「ここ…あんたの特等席でしょ。」
「まあな。でもナミは特別。」
何でもなく言って除ける麦わら帽子から思わず目を逸らす。気の効いたことはなにも言わない癖に、そんなことばかり相変らず
平気で口にするのだ。
「おめでと。」
目の前の月を見ながら、ナミがぽつりと呟くと、ルフィの視線が自分の横顔に注がれているのが分かる。
「ついにルフィも海賊王ね。」
「そうだな。でも、ナミも世界を周った航海士だぞ。」
「…そうね。あとはここを地図にして、私の夢も叶うわ。」
あと一つ、ラフテルの地図を書き終えれば、幼い頃からの夢が現実になる。
「それに、礼を言うのは俺の方だぞ。」
「え?」
「ナミがいなきゃ、ここには来られなかったからな。」
ありがとうとぎこちなく言うルフィに、ナミは思わず笑った。
「夢が叶ってよかったわね。」
私の夢も後少し。そう言うと、ルフィは笑うこそもせずに静かにナミの目を見返す。
何よ、と言いかけて、ルフィが先に言葉を紡いだ。
「まだ叶ってねぇ。」
「は?」
「まだ、全部叶ってねぇんだ。」
何となく、次にルフィの口が紡ぐ言葉が頭を過る。それでも、その口から紡がれることで意味があると知っているから、ナミは
何も言わずに続きを待った。
「ずっと一緒にいるって約束してくれ。」
「え…。」
「約束、くれ。」
真っ直ぐなルフィの目を見ながら、ナミはぼんやり考えていた。前にも一度、この特等席に座ったことがある。
あの日は、ここで彼が初めて自分に好きだと言った。自分も初めて好きだと言った。
「そう言えば、ここだったわね。」
そう言えば、なんて忘れたことなどない癖に、照れて恍けた振りをする。
「同じ場所なんて、芸がないわね。」
可愛くないことを口にしながら、雰囲気だとかシチュエーションだとか、叶えてほしいことは山ほどあるけど、
相手がルフィならそんな下らないものはいらないのだと、もうとっくに分かり切っている。
「悪かったな。」
撫すくれたように頬を膨らませるルフィに、久しぶりに出会った頃の彼を思い出す。思わず噴き出したナミに、ルフィもにししと
照れ笑う。
「で、返事は?」
分かってる癖にと言いながら、それでも聞きたいと言う彼に、あの時自分はこう言った。雰囲気もシチュエーションも、
100歩譲ってプレゼントもいらないけれど、
「この島なら、ベルメールさんの蜜柑もよく育つかも。」
後方で夜風に揺れる蜜柑の木を見遣る。
「海の見える窓がある…家がいいな。」
いつだって、また彼が海に出たいと思えるように、今日のこの日を忘れないように。
ルフィがナミの手を握る。ナミも無言でその手を握り返した。
「海賊王だからな。そのくらい叶えてやるぞ、航海士。」
そう言ってルフィが屈託なく笑った。
「お願いするわ、海賊王。」
同じように、ナミも笑った。
長い夢の後で瞼を上げる。飛び込んできたのはいつもの天井で、思わず隣に伸ばした指先に、触れるはずの温もりがないことに、
顔を顰める。
「起きたか、ナミ?」
枕もとの声に視線を遣る。白衣姿のチョッパーが自分の顔を覗きこんで不安気だ。
「ついててくれたの?」
寝起きで呂律の回らない口がそう言うと、チョッパーはこくんと頷いた。
「身体は平気だぞ。何処も悪くない。…少しは落ち着いたか?」
「えぇ。ありがと。」
身体を起こす。少し頭がくらくらするが、眠ったら随分身体が軽くなった。
「サンジがお茶持ってきてくれたぞ。飲むか?」
「…カモミールね。」
サイドテーブルの上のポットを見ながらくんと鼻を鳴らすとチョッパーが笑った。
「ナミが好きだからって。」
サンジが、と言う。
「うん、もらうわ。」
「…おいしい。」
「俺ももらおうっと。」
「やっぱりサンジ君のお茶が一番ね。私じゃこんな風に美味しく淹れられないもの。」
言いながら、この家でルフィに自分の料理を振る舞うようになった時、初めはサンジの料理で舌の肥えたルフィに気兼ねしたりも
した。サンジが船に乗る前はそんなことなど時たまあったと言うのに、まさか自分がそんなことを気にするようになるなんて、
とそのことに驚いたりもした。
「そう言えば…あの子は?」
傍にない小さな手に気づいて慌てる。
「大丈夫、ロビンが寝かせてくれたから。」
言われて傍の時計を見れば、時刻はもうすっかり真夜中だ。波はベッドに腰掛け、そのままゆっくりと立ち上がる。
「ナミ、まだ寝てた方がいいぞ。」
慌てるチョッパーの頭を撫でて、
「大丈夫よ、チョッパー。皆も心配してるだろうし…リビングまで行くわ。」
言うとチョッパーは平気か、と何度も問いながらナミの後をついて行く。
リビングへの扉を開けて真っ先に飛んできたのはやはりサンジの声だった。
「ナミさん!!」
弾丸の様にこちらに飛んでくる身体が、ぶつかる寸前で急停止する。いたわる様に肩に触れて、またもや弾丸のように飛んでくる
質問に丹が笑った。
「もういいの?身体は?平気?お腹好いてない?お茶飲んだ?もう落ち着いたの?」
「えぇ、私はね。サンジ君も少し落ち着いて。」
あぁ、と言ってサンジが照れ笑う。ゾロに窘められて拗ねるようにソファに腰を降ろした。ロビンがそっと椅子を引いてくれたの
で、隣に腰を降ろす。
「ごめんね、心配かけて。もう大丈夫よ。」
大丈夫。
そう言うと、一様に皆が眉を下げるので、言った自分の方が居た堪れなくなって思わず苦笑った。
「本当に。」
そう念を押す。チョッパーも空いた席に腰を降ろしたのを見て、ナミは長い一息を吐いた。
「心配かけて、本当にごめん。でも…来てくれてよかった。」
素直にそう言えたのは、もし今日彼らに会わなかったら、これ以上自分を支える術を見つけられなかったからだ。
「…あいつね、半月前に『冒険してくる』って出て行ったの。初めてのことじゃなかったし、ふらふら居なくなる奴だから、
出て行ったその日は対して心配もしてなかった。」
どうせちょっとのことで捕まるような奴じゃないし。
「だけど、考えても見なかったわ。」
それが、唯一の後悔だ。
「あいつが、自分から捕まることなんて。」
「…知ってたのか?」
ゾロが少し驚いたように口を開く。ナミはほんの少し憎まれ口を利かせて
「当たり前でしょ?私を誰だと思ってんのよ。あんたに分かることが私に分からない訳ないでしょ?」
「…相変らず口の減らねぇ女だな。」
ゾロの舌打ちに、サンジがこつんと肘を小突いた。
「だから尚更、あの日あいつについて行かなかった自分に後悔したわ。」
テーブルの上で組んだ手に、きゅっと力を籠める。皆が口を噤んだので、自然隣にいたロビンが囁くように言葉を紡ぐ形になった。
「行かないの?公開処刑。」
今朝の新聞の一面に載っていた。海賊王の公開処刑が彼の故郷、フーシャ村で行われると。恐らくそれを望んだのはルフィ自身だ。
ゴール・D・ロジャーの一件で公開処刑が大海賊時代の幕開けになったことを考慮して、海軍は今回の海賊王の公開処刑を
少なからず危惧するはず。
それでも処刑場所がルフィの故郷である辺り、彼の最後の望みが聞き入れられたと考えて間違いないだろう。
皆が一様に見つめる先で、ナミが答える。
「行かないわ。」
答えは決まっていた。行かない、絶対に。
「いいの?」
ロビンは、多くを語らない。昔からそうだったけれど、今はそれが何より心に軽い。
「いいの、もう決めたから。」
クルー達は、それ以上何も言わなかった。
「ナミが行かないなら、せめて俺達だけでもあいつの最期を見届けてやろう。」
普段は口数少ないゾロが、まるでルフィが決断を下すその時のように静かに言って、皆がその言葉に頷いた。
かつての海賊王の右腕、シルバーズ・レイリーがその船長の最期を見届けなかったその思いよりも、
今ここで自分は見届けると言い切ったゾロはきっとルフィを何よりも讃えてくれているのだと、今のナミには分かる。
「あいつに伝えて。」
囁くようにナミが口を開くと、ゾロがゆっくりとナミを見た。じわりと歪んだ目頭を堪え、ナミはいつもの勝気な顔でにかりと
笑った。
「ダイスキよ、船長って。」
最期は、妻ではなく、恋人ではなく、
「クルーとして。」
「…あぁ、分かった。」
船の甲板で、女部屋で、この家で、知らない島で、何度愛していると言ったか知れない。どんなに同じ言葉を繰り返しても、
それに籠める想いは変わらないから、それを言うのは自分の口からだけでいい。
『愛してるぞ、ナミ。』
まるで子供が大人の口調を真似するように、彼は不器用な言葉で顔に似合わず器用に自分を翻弄する想いを伝えてくれた。
思い出は、唯の記憶よりも強く心に残っている。
「しっかりしてね、お母さん。」
ロビンがやわらかく笑う。リビングから見える隣の寝室を覗いて、ナミも笑った。
小さな手が、広いベッドの上で誰かを探す様に握ったり開いたりを繰り返している。
「一人じゃないわ。」
そう言う声に顔を上げると、懐かしい面々が当たり前のように頷くので、ナミは思わず堪えていた涙を流して言った。
「分かってるわよ、当然でしょ。」
一人だって生きていける時もあった。一人になった今、幸せの記憶に甘んじて生きることを手放す程、自分は馬鹿じゃない。
離れていても、傍にある想いがあることも知っている。
「ありがと。」
今のナミにはそう伝えるだけで精一杯だった。
数日後、船長のいない麦わら帽子の海賊旗が、ゆっくりと桟橋を離れて行く。
部屋の窓からその様を、船の白が見えなくなるまで眺めていた。
最期を看取らないことを、あいつは咎めたりしないだろう。むしろ、「いいぞ。」と笑って快諾してくれそうで、
それを思うと、ナミも苦笑せずにはいられなかった。
静かになった部屋で、小さな手が自分の服を握っている。
「母ちゃん?皆帰っちゃったの?」
その身体を抱きあげて、いつかの時より重くなっていることにはっとする。
「ううん。また、すぐに来るって。」
海を渡ることは簡単じゃない。それを一番よく知っているのは自分だが、もしまた自分が会いたいと言えば、
彼らは出て行ったばかりのここに引き返してでも会いに来てくれるのだろう。
窓の向こうに水平線が広がる。彼の愛した海が、変わらず今もそこにある。自分には、船も仲間、大切な家族もいる。
例え誰にも代えられない存在が急にいなくなったとしても、生きていける糧がある。
「会いにいこうか。」
泣き笑ってそう言うと、無垢な目がよく知ったそれと同じように細められる。
「うん!」
小さな手を引いて、家を出る。
あいつも広がる海の向こうに、帰っただけ。
古い桟橋を渡ると、まるで海の真ん中に立っているような気分になって、ずっと昔の楽しかった冒険の日々を思い出した。
目を瞑って、波の音を聞く。
「おーい!!」
甲高い声が空に抜け、潮風に吹かれて瞼を上げると、深い蒼に目が眩んだ。
まるであいつが笑ったみたいに。
――――――いつか来るその日が、これ以上悲しくないように、
彼は傍に居た全ての日々で、
精一杯愛してくれた。
もう十分。
今度は自分が、
傍に居ない彼を全ての日々で、
愛していく。
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