創作小説

DOLL

  あの日、空だけがあたしのために泣いてくれた。 <プロローグ> 乱雑に踏み荒らされた草の群れが、悪戯に足を取る。意に反してというより、まるであたしの心の内を読んでいるかのような行為 に、何かがぐっと心を掴んで引き止める。 「柚亜。」 肌に張り付くような重い空気が、彼が呟いたあたしの名を、意図も簡単に運んで来た。 聞こえない。 そう言い聞かせ、先刻守りきったばかりの笑顔を後悔した。彼の問いに答えなかったことなど一度もない。 それなのに、最後の最後で、あたしは彼の言葉に耳を塞いでいる。 どうせ振り向くことができないなら、泣き喚いて、嫌だと叫んで、 言ってはいけない全てを吐き出してしまいたい。 いつもと変わらず緩やかな土手で、あたしは何度も転びそうになる。足に絡む草を踏みつけて、足早に土手の上まで登りきると、 湿った空気に潤んだ夕日が、霞みながらもそこにあった。零れたオレンジの斜光が辺りを照らして、変わらず綺麗なままそこに。 そう、何もかもがいつもと同じ。明日になれば同じような草いきれのするこの場所で、同じように同じ夕日が見られるのだ。 同じようにこの小さな街に彼はいて、同じように屈託なく笑いながら、同じようにここに来る。 いつもと同じ、あたしの約束を信じて。 同じように。 だから、今日の夕日は、こんなに綺麗に見えるのだ。同じように、とそう願いながら、来ない明日を知っているから。 彼は、まだ先刻の場所に佇んでこちらを見ているのだろう。 あたしは振り返らずに、舗装の行き届いていない石ころだらけの土手道を歩き出す。 頬に伝っているのは涙だと自覚しているのに、それをどうしても認めたくなかった。 零れてくる涙を何度も掌で拭っては、全ては嘘だったと悟った時の彼を思い浮かべ、唇を噛んだ。 『同じように』、『何も変わらず』、『いつも通り』。 明日になれば、あたしのついた小さな嘘も掻き消える。 彼に出会ったあの日から途切れることなく続いた毎日が、明日になれば一番大きな嘘になる。 そうすれば、彼はあたしとの口約束なんて忘れて、ちっぽけなあたしはいつか『あんな奴もいたな。』 と思い出してもらえる程度の存在になら、なれるかもしれない。 『また明日』なんて。 「ごめん。」 土手道の終わりに差し掛かったところで、ふと振り返りたい衝動に駆られる。彼は、もう見えなくなったあたしの背中を、 まだ見つめてくれているのだろうか。それとも、いつも通りの別れと思い、もう逆の道へと歩いていってしまっただろうか。 振り向きかけた身体を戻し、落とした目線の先に転がる石ころを眺めながら、気づくとそう呟いていた。 『ごめんは聞き飽きたよ。』 そう笑う彼が何度も頭にちらついて、あたしは大きく頭を振った。 「ごめん。」 もう一度、思い浮かべた彼の笑顔に向かって呟いた。もう見ることの出来ない、彼の笑顔に。 全てが、あたしの下手な嘘だった。 紛い物だらけの日々の中で、彼への想いだけが、唯一守りぬいた真実だった。


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