創作小説
DOLL
1st RD712GZ
Side:Yua
@
――― RD712GZ ―――
製品番号…と、あなた達は呼ぶのだろうか。あたしの名前を。
RD712GZ。
君はDollだ、と。
「君はDollだ。」
ほら、こんな風に。
あたしはたくさんのコードに繋がれたまま、ガラスの箱の中でそれを聞く。
生まれながらに醜く、羞恥で、愚かなあたしを、その人はガラスケースに収められた「人形」と呼ぶ。
「RD712GZ。」
また、あたしを呼ぶ声が聞こえる。あたしは声の主を探すべく、重い瞼を持ち上げる。
随分固く閉じていたはずなのに、案外すっきりと持ち上がったそれを何度も瞬かせる。
実際に居たことはないのだが、まるで水の中に居るかのように、辺りはぼんやりと翳んでいる。
ぼやけた視界が明確になるまで、あたしは自分の目線の高さでゆっくりと視界を廻らせた。どこを見ても、
飛び込んでくるのは白とグレーのコントラスト。
「RD712GZ、君はDollだ。私の言うことが解かるかね?」
ようやく目が慣れて来ると、ふと足元からこちらを見上げている存在に気づく。
と同時に、あたしの入っているガラスケースが、実験台の上で晒し者のように置かれていることにも気付いた。
「RD712GZ、解るかい?」
再度そう問うてくる視線に気づき、
「はい、解かります。」
と、咄嗟にそう答える。ほぼ無意識だったが、これがあたしにインプットされたものでなく、あたし自身の意思だったとしても、
そう答えただろう。
あたしはDoll。
完全に開けてきた視界は、目の前の小さな男に釘付けになる。
茶色いセーターの上に薄汚れた白衣を纏い、彼が口を開く度に揺れる黒い顎鬚と髪はボサボサで、清潔感は微塵も感じられないが、
意志の強い瞳がこちらを見上げている。今、自分の置かれている状況を冷静になって考えてみれば、いくらあたしが『生まれたて』
であるとは言え、あたしを創ったのが彼であることくらい見当がつく。
じっと自分を見つめるあたしの視線に動じることなく、彼もあたしを見返してくる。
あたしの入れられているガラスケース越しであるからだろうか、不思議と視線がぶつかり続けることに不快感はなかった。
≪26度≫
ふと、頭に流れ込んできたデータは、彼の体感温度を示している。直接あたしが感じたものではない。けれど、解るのだ。
相手の体感温度、心拍数、脈拍。人間であるが故の身体的機能のみならば。
Dollであるが故に。
風はなく、温度にムラもない。空調が効いているのだろう。
あたしがとりとめもなくそんなことを考えていると、足元の彼が口を開いた。
「君は既に自分が何者であるか気づいているようだね。」
その科白はやけにわざとらしくあたしの耳に響いた。それもそうだろう。
あたしがあたし自身を理解できるように創ったのは彼なのだから。
あたしは目の前の彼に僅かな嫌悪感を感じつつも、その満足気な表情が欲する言葉を言う方が利口だろうと考えた。
「私はDoll。あなたは二宮博士。私、RD712GZの創始者であり、世界で初めてのDoll開発者です。」
頭に浮かんだ通りに発した言葉だった。
どうやら、あたしの口は彼のプログラムに従う限りは、あたしの意思に反して自由気ままに動くらしい。
まるで、彼の成功を彼の成果であるあたしが読み上げることによって、再度確立させるかのように。
意に反して、という点は厄介と言えば厄介だが、あたしはそう言うモノなのだ。
そして、それを世界で初めて実現させたのが彼、二宮修一郎。いわゆる天才、と彼は自負しているのだろうか。
あたしの言葉を聞けば、『Doll』と言うロボットの存在を知る人間は、彼のことをそう認識しても可笑しくはない。
ただ、あたしがRD712GZということは、RD711GZもいたということであり、RD710GZもいたということ。
つまり、あたしは彼の712体目の試作品と言うことになる。そして、言い換えれば彼は711回の失敗をしたという過去を持つことに
もなるのだ。
一度きりの成功なんて、儚い。
目の前で満足げに自身の豊かな顎鬚に手を添えるその姿を見て、彼の自尊心の大きさに辟易したが、
出会って間もなく彼のそれを壊してしまうのも躊躇われたので、何も言わずに黙っておいた。
所詮、人間。
「そうだ。君は賢いね。私の経歴の中でも、もっとも優秀な作品だ。」
彼はまだ満足そうに何度も頷きながら、ガラスケースの置かれた実験台に足を掛け、あたしの腰の位置に見下ろせる鉄鍵を物々し
く外す。どうやらあたしの入っていたガラスケースは人型の培養ケースのようなものらしい。
すぐ裏にはDollの製造機器だろうか、さすがにここまではあたしの知識の及ばない複雑な機械が所狭しと並んでいて、
そこから伸びている何本もの黒いコードは、ガラスケースの隙間を縫ってあたしの体に埋め込まれている。自分自身のことでは
あるが、あまり気持ちのいい光景ではない。彼は慣れた手つきであたしの体中に繋がれた何十本ものコードを外していく。
皮膚の奥から引き抜かれているように見えるのに、不思議と痛みも痒みも感じなかった。
「さあ、出ておいで。君は自由だ。」
そう言って、大きく開いたガラスケースの扉の向こうで、彼は微笑する。先刻まであたしに繋がっていたコードは無造作にガラス
ケースの底に転がっている。それらをしばし眺めた後、あたしは初めて自分の姿を見下ろした。
あぁ、『人』だ。
何も身につけていない淫らな格好ではあったが、豊かな胸も、白く滑るような肌も、人間らしすぎて逆に人間ではないくらいに
よく出来ている。自分で自分の掌を握る。体温もある。
不自然に綺麗な自分の肌を撫でながら、あたしは再度目の前の博士に視線を移す。
やはり、彼は微笑したままだ。あたしは小さく息を吐いた後、そっとガラスケースから一歩その外へと踏み出した。
ひんやりとした実験台の段差を下り、初めて踏んだのは、研究室の冷たいコンクリートの床。
「君は温度も人間とまったく同じように感じる。そのままじゃ寒いだろうから、これを。」
ようやく自分と同じ位置に立ったあたしを見て、彼はすぐ傍にあったデスクの引き出しから、
淡いピンクのモヘアセーターと、真っ白なフレアスカート、そして下着をあたしに差し出した。
先刻まではあたしが高い位置に居たせいで気づかなかったが、こうやって同じ高さに立ってみると、彼の目線はあたしよりも幾ら
か上にあった。
「ありがとうございます。」
手渡された衣類の一式を抱えてそう言いながら、あたしはもう一度自分の体を見下見下ろした。
こんなに完璧に出来ていて、こんなに綺麗な肌なのに、彼はあたしに性的欲求は抱かないらしい。
彼はあたしが衣類を受け取ったのを確認して、何事もないかのようにこちらに背を向け、いくつも置かれている機械類の傍らで
何やら忙しなく手元を動かし始める。やはり、あたしの格好については微動だにしていない。
卑怯な手だとは思ったが、備え付けられた機能を使わないのももったいないと思い、あたしは自身に備え付けられた探索機能に
よって彼の心拍数をサーチしてみた。サーチすると言っても、あたしが知りたいと思う情報が、知りたいと考えた瞬間にふと頭に
浮かぶだけなので、それが本当にあたしの機能なのかどうかは疑わしい。が、頭に浮かんだのは至極正常の文字。
つまらない、と言えばそれだけの話だ。
女の体に興味がないのか、それとも造られた体なんて、気味が悪いということなのだろうか。
所詮、人形。
あたしはその場で素早く服を着た。触れたこともないはずなのに、その身に付け方を知っている。
それが妙に気味悪かったが、そんなものなのだろうと割り切る他になかった。
博士はあたしが着替えている間、あたしの完成に必要だったのであろう、床にばら撒かれた様に散乱している書類を束にまとめ、
先刻まであたしの入っていたガラスケースに鍵をかけ直し、部屋の中央に置かれたソファーにゆっくりと腰かけた。
彼自身の見た目や部屋の様子は雑然としているが、そこまでの無駄のない所作は彼の性格を表しているようだった。
この部屋の様子が実験の為の一時的な乱雑さだとしたら、彼のその無駄のない動きは、この無機質な部屋の中でやけに冷たく、
無機的に感じられた。人間味がないのだ。
それほど彼は静かに、計画的に動く。あたしの着替えが済むまでの数秒の間に交わされる言葉が何もなかったのもそうだが、
それだけではなく、引き結ばれた口元と彼から感じる雰囲気の重たさにひどく居心地が悪かった。
着替え終わったあたしが彼の傍まで歩み寄ると、彼はあたしを向かい側に座るようにとソファへ促し、
顎の下で組んだ指先を神経質に動かしながら、こう言った。
「既に君の脳にはインプット済みのことではあるが、私が君を創った意味は解かるかい?」
博士はあたしにマニュアル通りの言葉を望んでいた。要するに、質問の答えではなく、あたしに組み込んだプログラムが正常に
機能するかを確かめたいのだ。あたしの頭には彼の求める科白が、台本でも読むかのように浮かんでいた。
が、一字一句間違えないようにではなく、頭に浮かんだその言葉を飲み込んで、出来る限り自身の言葉に置き換えて発する。
わざと、彼の自尊心の外壁を逆撫でするように。
「私は、試作品なんですね。完璧なDollか、それとも欠陥があるか…はわからない。
少なくとも欠陥がないとは言い切れない今の時点では、社会に危害を加える危険性がない、と言うことも言い切れない…。
ただ、Dollの必要性については理解しています。人間社会の未婚化、晩婚化、少子化、悪態化した遺伝子操作に歯止めをかけたい。
そのために、遺伝子操作が可能でありつつも、人間として振る舞うことが出来、人間と恋をして、世代を紡ぐことのできるDollが
必要だった。所謂、社会の悪循環へのリセット。…その為ですよね。」
あたしは思いついたままの言葉を義務的に並べた。難しい言葉は彼があたしに組み込んだそのままの言葉だ。
もちろん、未婚化だの、晩婚化だの、事の重大性までは上手く理解できない。まして、人間社会をDollの導入によって変革出来る
という保証もないのではないかと思っている。それでも、必要とされているという事実だけが、今のあたしの糧だった。
数秒の沈黙。そして、彼は静かに深く頷く。微かに覗き見たその表情は、とても苦々しいものだった。
あたしが自分の置かれた状況を理解しすぎていたことに嫌悪感を覚えた。まるで、そういう顔だった。
自分でプログラムした内容を意識的に説明されたのが気に入らなかったのだろうか。
人のことは言えないが、益々、扱いにくい男だと思う。
「そこまで解かっているなら話は早い。」
急にトーンの下がった声は、不機嫌そのものだった。まるで嫌なものを吐き出すかのように、彼はその後の重要事項を全て説明書
でも読むかのようにつらつらと話しだした。
「君は今までで最も優秀なDollだ。しかし、それは今までのDollに比べて…の話だ。君に欠陥があるかどうかは、正直、私も君の
ことをよく調べてみないとわからない。しかし、唯一確実にわかっていることは、君がいわゆる恋愛ロボットという類のもので
あることだ。試行期間は今日からきっかり100日。これが、試作品のDollに許された猶予期間だ。君が人間として社会に出て振舞う
ことには、少なくとも他人の目から見ただけでは何の支障もないだろう。君の99%は人間だと学会でも証明済みだからね。
君は社会に出て、その目で限られた100日の間に恋をする相手を選ぶんだ。そう神経質になることはない。実験の一貫だからね。」
あたしに話しかけるようで、あたしの意見は求めていない。そうすることが、あたしの義務。そう言われているかのように、
有無を言わさぬ言い方だった。なるほど、99%が人間であれば、自分以外の相手に嫌悪感を抱いても当然だろう。
まさに今、あたしはその類の感情を、目の前で淡々と言葉を並べる彼に対して抱きかけていた。
彼は一度もあたしと目を合わそうとはしない。ずっと、あたし達を挟んでどっしりと構えているガラステーブルの一点に目を落と
している。何故かって、そんなことは分かりきっている。あたしが1%のロボットだから。
あたしは目を合わせない彼の態度よりも、あたしの限られた100日を実験の一貫だと言った彼の言葉にひどく憤りを感じた。
まるで『物』だ。確かに違いないのだが、99%が人間だと言いながらも、それは彼の自身の才能への自負を表現するものであり、
あたし自身に抱く感情は1%のロボットだと言う点にある。いつからそこにあるのだろうか、あたしがこの場に腰を下ろす前から
あった、もう湯気の1つも立たないカップを彼はふいに持ち上げ、ぐいっと中身を一口で飲み込む。
静かな部屋に、ごくっと言う生々しい喉音が響いた。
「しかし、大切なことが1つ。君が社会に出ることは、極秘任務であり、社会に知られてはいけない。
それだけは、覚えておいてくれ。」
彼は静かにカップをテーブルに置くとそう言った。射抜くような、意志の強い瞳。
しかし、その冷たさは奥まで見透かされることを拒んでいる。無駄なことは、何も言わないほうがいい。
「わかりました。」
あたしはただそれだけを静かに呟いた。
本当は、博士が聞かれたくないような奥深い事情もあるのだろうと彼を見ていて思ったが、そんなことは人間のすることじゃない
んだろう、きっと。人間らしく振舞えばいい。人間ではないのだから。
あたしはただ一言、当たり障りのない返事をしたっきり、口を閉じた。何か言葉を発することがひどく億劫だった。
ふいに彼が席を立ったので、あたしは思わず伏せていた顔をあげた。
「いいかい。この研究室から外は、人間の世界だ。君には人間として振舞ってもらう必要がある。
だから、RD712GZという名前は人間社会には適当じゃない。」
そう言って、彼はすっかり中身の空になったカップを、研究室の端に簡易的に取り付けられたキッチンの流しに運んだ。
「それじゃ…。」
彼を目で追いながらあたしが言いかけると、博士はあたしの言葉を遮る様に言った。
「柚亜。」
「『柚亜』?」
あたしは流し台の前に立つ彼の背中に問いかけた。
「そうだ。私の苗字をとって、『二宮柚亜』。世間には、私の娘ということにしておこう。」
彼が蛇口を捻ると、勢いよく飛び出た水音が、静かな部屋に自棄に大きく響いた。
ステンレスの流しに、勢いよく冷たい水が叩きつけられる。
「柚亜…。」
娘、だなんて言うのだろうか。親子というものがどういうものかは知らないが、そう言うには程遠い距離感を感じる、この関係を。
「二宮…柚亜…。」
あたしは自分に与えられた名を再度、そっと口にした。
博士はそんなあたしには構わず冷蔵庫を開けて、『さぁ、夕飯は何にしようか。』などと言っている。
多少だが、物理的に空いた二人の距離のおかげで、切迫していた空気は幾らか軽くなり、そんな日常的な会話もふいに飛び出した
のだろう。あたしはくるくると変わる彼の態度にため息をついた。
「二宮柚亜。」
視線を彼から外し、もう一度呟く。
自分の名だというのに、ふわふわと口の中で浮遊して、なんだか取ってつけたような気がしてならなかった。
この名前も、博士との関係も。
あたし自身も。
さて、これからどうしようか。
あたしの頭を巡る考えも、二宮博士の頭を巡る考えも、大方そのような1つの結論を、などと言っていられない状況だった。
この創られた家族を、関係を、どうするのか。
二宮博士はとりあえず、と言って、
「お腹はすいていないかい?」
とキッチンからこちらをふり返って笑った。努めて好印象を保とうとしているようだ。
あたしは博士の言葉に躊躇したが、よく考えれば、そうなのだ。これが空腹ということなのだ、と考える。
さっきから、お腹の辺りを風が吹き抜けるような空虚感を感じていた。Dollであっても、空腹は感じるのか。
そんなことを思いながら、
「はい、空きました。」
その返事に、博士はそれじゃあ何を作ろうかな、と冷蔵庫のドアを忙しなく開け閉めしている。
「ちゃんとお腹が空くだろう?Dollは何食か食べなくても平気なのだがね。欲求を感じる方が人間らしい。」
と独り言のように彼は続ける。あたしはそんな彼の様子を暫く眺めてから、少しこの研究室の中を探ってみようと席を立った。
博士は急に席を立ったあたしにちらりと目をやったが、すぐに冷蔵庫の中身へと意識を戻した。
ぺたぺたと床を歩く感触も、あたしにはまだ真新しい。
この部屋自体は小さいように見えるが、よくよく目を凝らしてみれば、研究に必要な複雑な機械や部品が山のように詰まれていた
り、工具がそこらに乱雑としている為そう見えるのであって、部屋自体は結構な広さだ。ただ、どういう訳か、コンクリートが
打ち放してあるだけの正方形の空間に、キッチンもリビングも寝室も、ひっくるめてコンクリートの仕切り1つでこの中に納まって
いる。部屋と言うより、広い牢獄のような空間に、
彼の生活の場が、使い勝手が言いように設けられていると言った方が正しい。再度言うが、広さだけは十分だ。
(酷い部屋。)
感想と言えば、そんなものだった。あたしは片づけきれていない工具を踏んでしまわないよう気をつけながら、
キッチンでバタバタと食事の用意をする博士の背中を、ちらっと見た。やはり何度見ても、部屋同様に彼自身も何日も風呂に
入っていない囚人のような格好だ。
汚れた白衣が食材の傍で何度も翻っている。それだけ、あたしを創り出すのに躍起になっていたということなのだろうか。
しかし、伸び放題に伸びた髪や髭は黒々としている為、まだそれ程老いていないということはわかる。
人間で言うと、歳はいくつくらいなのだろうか。まだ40代前半と言う気もするが、彼以外の人間を知らないあたしには分かるはず
もなかった。自分が相手の目に、いくつの女の子に見えているのかさえ分からないのだから。
あたしは彼の周囲から、ゆっくりと視界を部屋中に廻らせた。
(本当に必要なものしか置いていないのね。)
研究室の中には、複雑な機械は積もるように置いてあるが、生活用具と言ったものがほとんどなかった。
あるのはキッチンとソファ、テーブル、テレビ…わざわざ取り上げるに値するのはその程度。
しかも、コンクリート固めのこの四角い箱のど真ん中に。
後はベッドを除いて全てが研究機器だ。
(…いいセンスね。)
とりあえず、堂々とその存在を主張するソファに先刻と同じように腰かけ、博士の作る夕食が出来上がるのを待った。
暫くして、派手な音をたてて支度を済ませ、
「いやぁ、お待たせ、お待たせ。普段は出来合いのものを買ってくるものだから、こんなに苦戦したのは初めてだよ。」
と言って、彼は何やらキッチンで大奮闘したらしいソースや野菜くずのたっぷりとついたエプロン姿のままあたしの元へ料理を
運んできた。その姿はひどく滑稽で、先程感じた彼の洗練された動きはそこから微塵も感じられない。
「君に食べさせる初めての料理だから張り切ろうと思ったんだが…少し失敗してしまった。」
そう言いながら、彼は残念そうにあたしの前のガラステーブルに料理を置いた。
白いプレートが2枚並べられたが、見るからに失敗だった。
妙に黒っぽいが、元は茶色かったと思われる物体が二つ。Dollが食事を抜いても平気なら、あまり食べたくない感じの代物だ。
「ハンバーグと言うんだが…。」
目の前に出された料理に黙り込んでしまったあたしを見て、博士は様子を伺うようにして言った。
あたしは向かい側に座った彼と一度目線を合わせてから、またその料理に目を移した。
「ハンバーグ…。」
あたしは渡されたフォークでもって、その物体を一欠片口に運んでみる。
彼はそんなあたしの様子をじっと見つめていたので、何か言った方がいいのだろうかと考えたが、何とも言いようがなかった。
何故かじゃりっと口に残るそれは、何だかとても辛い。
あたしはそれなりに言葉を選んだつもりだったが、恐る恐る思ったままの感想を口にした。
「あの、ハンバーグというのはこういう味のものなんですか?」
その言葉に、博士は一瞬きょとんとする。あたしは流れた不穏な沈黙にどきりとしたが、彼は暫し黙り込んだ後、すぐに
「君に料理の機能をつけておくんだったよ。」
と、苦笑した。どうやら、あたしよりも先に彼の欠陥を見つけてしまったようだった。
初めての食事を終え、あたしは博士が食器の片付けを済ましてくれるのを待った。
座っていろと言われ、言われたままにソファに腰かけていたが、その間も流れるのは沈黙と流しの水音だけだった。
夕食の片付けを粗方終えた博士に、研究室の隅に取り付けられた裏口がシャワー室の入口になっていることを教えられ、
あたしは教えられるままに簡単に湯を浴び、今度は与えられた大きめの白いスラックスに袖を通した。
(入浴するロボットなんて聞いたことない。)
博士の話では、冷たい水に当たることはよくないが、お湯であり、短時間であればDollの身体に支障はないらしい。
皮膚も人口皮膚なので汚れれば洗う必要があると教えられた。考えると、自分の存在が益々不思議に思える。
博士に『先にシャワー室を使っておいで』と言われた時は驚いたが、なるほど99%が人間とは、
案外すごいことなのかもしれないと思ってしまった。
しかし、そんな余韻に浸る暇もなく、何より驚いたのがあたしの後で入浴を済ませた博士に対して、だった。
「あの…二宮博士?」
「何だね。」
シャワー室から出てきた彼に、あたしは思わず問いかけてしまった。それ以上何も言い続ける言葉がなかったので口を噤んだが、
そんなあたしを見て、彼は首を傾げていた。
何より驚いた理由は、シャワー室から出てきた彼が驚く程若かったことにある。てっきり40代前半だと思っていたが、
どうやら30代の前半であっても可笑しくないようなのだ。
なんだか随分幼い顔をしている。シャワー1つで10歳も若返るなど、年齢詐称も甚だしい次第だが。
あたしは未だ首を傾げる彼に、言葉を濁しながら慌てて尋ねる。
「あの、あたしはどこで寝るんですか?」
そう言うと、彼はあぁ、と呟いて、部屋の一角を指差した。
「あれだよ。」
博士はその場所まで歩いていって、先刻指し示した先にあった簡易ベッドを広げ始める。随分埃を被っているようだったが、
彼がその上に被せてあったビニールシートを勢いよく捲ると、案外その下の本体は綺麗なままだった。
あたしは彼に言われるままに、
同じく隣に積んであった布団ケースの中から、真新しい布団を一式引っ張り出した。
「君はここで寝てくれ。」
そう言って、彼は布団を整えると、そのベッドの前に傍に重ね置きしてあった仕切りの一枚を立てた。
「博士はどこで…?」
あたしがそう問うと、私はあそこだ、と彼が指差した先には、何だか万年床のようになった薄汚い簡易ベッドがもう1つ。
あの布団は何年越し…いや、どれくらい洗っていないのだろう。
そう考えるあたしを他所に、彼はもうこんな時間か、などと呟きながら、
テレビの横に置かれた小さな置き時計に目をやった。あたしも同じくその文字盤を眺める。既に日を跨いでいた。
彼が自分のベッドに腰掛けたのを確認して、あたしは仕切りの奥でそそくさと布団に潜り込む。ひょっこりと隙間から顔を出すと、
それを合図に、彼は消すよ、と一言残して明かりを消した。
ふいに暗くなった室内は、元々無機質なせいか、逆に暗くなったほうがその質素な空間を感じさせず、妙に温かみを感じさせる。
目が暗闇に慣れ始めてきた頃、ふいに彼が口を開いた。
「それから、敬語は堅苦しいだろう。そんなに気を使わなくて大丈夫だ。」
それだけ言うと、彼はあたしの返事も待たずにおやすみ、と言ってそれっきり口を噤んだ。
博士のベッドとあたしのベッドは、ちょうど四角い研究室の斜めに向かい合った端と端。限られたスペースの中での一番遠い距離
だ。あたしは遠くで眠る博士の背中を暗闇の中でぼんやりと眺めた。あたしの目には、多少の暗闇でも大抵の物を視界に捉える
ことが出来る。
あたしは先刻の博士の言葉を考えた。言葉遣いを変えたところで、自分達の距離の説明がつかなくなるだけなのに、と。
この距離はあたしへの配慮か、自分の作った身も震えるほどの完璧な人形と寝ることへの嫌悪感からか、
彼の理性を利かせるためか…いや、それはないにしても、この部屋で迎える最初の一夜は、とても奇妙で、時間が経つに連れて
次第に増す心細さを一晩中抱いていた。
月が天窓の向こうを廻って空が明るくなり始めても、あたしはなかなか寝付くことが出来なかった。
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