創作小説

DOLL

A 結局深く眠れないまま部屋の反対の隅で博士が起きだした音を聞いて、しばらく時間を置いてからわざとらしく起きだした。 安っぽい簡易ベッドのスプリングは、あたしが寝返りを打つたびにギシギシと音を立てたので、きっと同じ箱の中で眠っていた 彼も、あたしが寝付けないでいたことには気づいていただろう。 「おはよう。」 あたしがベッドから降りてリビングに近づいていくと、そう声がかかる。既に薄汚れた白衣を見に付けてキッチンに立っている。 博士は朝食の準備をしているようだ。 「おはよう…。」 ためらいながら口先まで出てきた「ございます」を飲み込んだ。博士は少し笑って、あたしに腰かけるように促した。 あたしは言われるままに昨日と同じ側のソファに腰かける。白いカバーが昨夜より眩しい。 後方から彼がフライパンで何かを焼き、水滴の跳ねる騒がしい音以外は何も聞こえない、静かな朝だ。 カチッとコンロの切れる音がすると、 「今日一日はここから出ないほうがいい。 社会のことや、この研究室の中のことをいろいろ知った上で、外の世界には少しずつ慣れればいいよ。 明日からでも、君が良ければね。」 そう言いながら、博士はカップに淹れたての珈琲とミルクを注いでこちらに持ってきた。 「珈琲と言うんだ。少し苦いが、慣れれば美味しいよ。眠気も覚める。」 それだけ言って、彼はまた朝食の準備に取り掛かる。受け取ったカップの中身をくんと嗅ぐ。 温かい蒸気とともに、香ばしい良い香りがする。 その色に抵抗はあったが、あたしはその真っ黒な液体を思い切って口に注いだ。 「…う…ぇ。」 苦い。 聞こえてきたあたしの声に、博士はパンをトースターに差し込みながら、噴出すように笑った。 あたしは恥ずかしくなって思わず彼を振り返る。 「好きになるさ、きっと。」 博士はガラステーブルに『さとう』とかかれた瓶を置いて、これを入れれば甘くなる、と言うと、また朝食の準備に戻っていった。 あたしは置かれた砂糖を珈琲に足してかき混ぜ、また一口運ぶ。うん、今度はいけるかもしれない。 案外、嫌いって訳でもない。 あたしはそれを時折口に運びながら、さっきの博士の言葉を思い出していた。 『外の世界は明日から』。 要するに、明日からお前の機能を試せ、とそういうことだ。時間がない、とは言わないが、彼の焦る気持ちは感じていた。 772体目の人形。そして、100日と限られた時間しかないのだから。あたしが上手く働けなければ、彼の実験は失敗だ。 そんなことを考えていたせいか、思わずため息に似た息を吐く。 カップから立ち上っていた湯気がゆらりと揺らいで、前方へゆっくりと流れていく。 あたしはその先をなんとなく見つめていた。 恋をするとは、どういう感情なのだろうか。 きっと、あたしは自分の機能のままに、誰かを好きになって、それを恋と呼ぶのだろう。 だけど、それはどういうものなのだろうか。 人間に機能なんてものはついていない。彼らは生きているのだから、恋をすることも本能の働きであるはずだ。 それなのに、その通りにはいかないあたしが恋をしても、あたしは今のあたしのままで居られるのだろうか。 人として振舞うのにほとんど不自由のないプログラムがあたしの中には埋め込まれている。 けれど、人間とDollの違いが理解を許さないこともいくつかある。 それを踏まえれば、今のあたしには博士にインプットされている知識以外、何もかもが分からないことばかりだった。 まだ目覚めたばかりの頭がひどく混乱する。出来れば、今日はあまり考えないでおこう。 きっと、今すぐ分かる答えじゃないはずだ。 そう思い、あたしはすぐ側のテレビに目をやった。 「これ、見てもいい?」 あたしの言葉に、博士はこちらを振り返って驚いたように言った。 「あぁ、もちろん。君を造るときに何もかも知らないんじゃ説明するのも覚えるのも大変だと思って、 ある程度のことはインプットしておいたんだ。 そういえば、テレビもその1つだったかな。」 上手く機能してよかったよ、と博士は満足そうだ。 『上手く機能して』 やはり、どうしても人間になりきれない1%とはこういうことなのだろう。 「使い方もわかるはずだよ。リモコンはそこだ。」 そう言って、博士は持っていた調理箸でテレビの乗っているローボードの端っこを示した。なるほど、これがリモコン。 見た覚えはないが、手にとってみると、その使い方が自然と湧き出るように解かる。端の赤いボタンで電源を入れると、 ブンっという鈍い音と共に、その画面に色が入った。若い女の人が『車』の紹介をしている。これが『CM』。 こんな風に、あたしが何だろうこれは、と思うが早いかどうかの速さで頭の中にそれが何かを指し示す信号が流れる。 我ながら、良く出来ている。 あたしはまたソファに腰掛けてその画面をしばらく眺めていた。『ニュース』だ。『政治』、『経済』、『芸能情報』。 あたしの頭の中を難しい言葉が駆け巡る。人間と、その言葉に対するイメージは多少違うかもしれない。それでも、それが何かと 問われれば答えることが出来る。それがDollだ。 「なんだか、可笑しな気分ね。」 「ん?」 博士はこちらに朝食を運びながら言った。あたしはこちらに歩いてくる彼を振り返って少し笑った。 「見たこともないものが何だかわかるのって。」 博士はガラステーブルの上に料理を並べる。昨日と同じ真っ白なプレートが2枚。 「そのうち慣れるよ。知っていることも多くなるしね。」 そう言って、彼は昨日と同じようにあたしに向かい合わせで腰を下ろした。それと同時にあたしは並べられた料理を改めて見る。 何故なのだろう。博士の作った料理は知っている覚えがない。料理機能がついていないからだろうか。 だけど、もちろんそんなことは言わなかった。 なのに、『いただきます』と呟いて、自分の料理を真っ先に口に運んだ彼は少し険しい顔をして呟いた。 「…甘い目玉焼きは初めてだろう?」 と。 朝食を食べ終えると、あたしはとりあえず研究室の中を改めて散策した。 薄暗い照明のせいか、昨晩見た様子よりも、窓から差し込む日の光で照らされた室内の方が、同じ乱雑さであってもまだ明るく 映る。博士が研究書類の山積みになった本棚からたくさんの雑誌を持ってきて、あたしに見せてくれた。 「こっちが家具。これが植物、動物。こっちが料理の本だ。そうそう、これは私がいつもDollを創るときに 参考にしている女性雑誌。何、趣味ではないがね。」 そう付け加え、ついでに、と言って、料理については作り方も覚えてくれると嬉しいが、と呟きながら、彼は山ほどある様々は 雑誌を一冊ずつ床に並べた。あたしも彼の動きに合わせてそれを順に目で追っていく。 あっと言う間に、数少ない床スペースが雑誌で埋まってしまった。容易にその場から動くことも出来ない。 「こんなに読み切れるかな…。」 初めはそう苦笑したが、読み始めると家具や動物についてはある程度インプットされていたようで、 熟読せずとも自ずと理解できた。女性雑誌は煌びやかな服を着たモデルが、長い脚を投げ出して最新ファッションを紹介している。 これは、然程あたしには必要なさそうだ。 ここにはそんな煌びやかな洋服やアクセサリーなど見当たらない。ファッション雑誌は2,3冊捲っただけだったが、 やはり博士がDollの参考にしているだけあって、あたしの体型は彼女達ほどではないが、それなりに無駄のない肉付きになって いるのが分かる。容貌もそっくりなのだろうかと、彼女たちの顔をすぐ側の洗面台の鏡に映る自分の顔と1つ、1つ見比べたが、 そう言う訳ではないようだった。あたしは洗面台の鏡をその場に座ったまま首を伸ばして再度眺める。 なるほど、モデルに似てはいなくとも、彼女たちを世間一般に美人だと言うのなら、あたしも案外美人に出来ているのかも しれない。まだ、自分のものだと言う実感はそれほどないので、素直に喜べないのが未だ正直なところだったが。ページを捲って はそんなことを繰り返しながら、あたしは順に雑誌を読み進めた。家具、動物、植物、ファッション、そして料理。 どれほどそうしていたのだろう。 その順序を5回ほど繰り返した時、いつの間にか傍で昼食の準備をし始めていた博士が出来上がりを知らせにやってきた。 あたしは驚いて窓の外に目をやると、もう太陽の光が南向きの窓から差し込んでいる。随分長くそうしていたようだった。 あたしは促されるまま、朝と同じ席で昼食をとった。 あたしは博士のあまり美味しくない昼食を食べた後、ふとあることに気付いた。 「ここには、誰も来ないのね。」 研究室というのは、たくさんの郵便物が届いたり、ファックスが山のように雪崩れ込んできたりするものではないのだろうか。 現に、博士が学会がどうだの、研究報告書がどうだの、と顔を顰めてぶつぶつと呟いていたのを昼間耳にしている。 彼の慌ただしさに比べ、この空間は静けさを頑なに守っている。 「お客さんとか…来ないのね。」 あたしが午前中の続きのページに目を配りながらぎこちなくそう言うと、博士は自分のベッドの横にある大きめのワークデスク に向かって書類の山を片しながら、 「そんなもの来るわけないさ。新聞も郵便物もここには届かないようになっているし、近所というほど近くに他の民家も建って いないしね。どちらにしても、こんなおかしな研究所に寄り付こうなんて人間はそうそういないよ。」 と、自嘲気味に笑った。その言葉で、なんとなくこの研究室が暗いのは、コンクリート固めの殺風景な景色のためだけではない のだということに気付いた。博士自身が閉鎖的なのだ。 「ずっと、一人だったの?」 いや、とだけ彼は言った。博士は書類の山をデスクの端に積み直し、今度は工具箱の中から山ほどの鉄や銅、金細工を取り出して、 何やら錆び取りに徹している。 コンクリート固めの室内には、そのカチャカチャという小さな音が自棄に大きく響き、沈黙を破ってくれた。 「君の前の、さらに前のDoll達がいたからね。寂しくはなかったよ。」 博士は大きめの金の欠片を一つ選んで、その表面を何度も鑢で擦りながら、そのままソファへと移動して腰掛けた。 何でもないかのように手元を休みなく動かしているが、心なしか何処か寂しそうに見えた。 「ふぅん。」 咄嗟に、あたしの前の、さらにその前のDollはどうしたの、なんて聞きそうになったけれど、止めておいた。 彼は白衣のポケットから出した布巾で自分の手を拭い、ソファの背もたれ越しにテーブルに手を伸ばす。テレビのリモコンを探す ような仕草をしながら、 「まあ、一人は嫌いじゃないから。」 そう言って、やっと掴んだリモコンでテレビのスイッチを入れる。画面の向こうではバラエティー番組からの絶え間ない笑い声が 聞こえていた。 「ふぅん。」 あたしは、またそれだけ呟いた。 その夜は厳禁にもあっさり眠ることができた。この日一日、博士は明日からのことや、Dollの具体的な機能面々のことについては 一言も触れなかった。ただ、雑誌を読んで人の社会を知り、博士の料理に閉口するあたしに申し訳なさそうにしたり、 予め文字がかけるようにインプットされていたことに驚くあたしに何故かあたしより誇らしそうにしたり、普通の父親がやるよう に努めたようで、何事もなく今日を終えた。けれど、あたしは知っていた。 明日から、いや、あたしが次に目覚めたときから、そんな関係は終わり。 あたしはDollで、彼はあたしを創った二宮博士だ。あたしに、彼の研究の成果がかかっている。簡単ではないことを知っていた。 彼の成功に加担するつもりはなかったが、出来ることを試してみたいという気持ちは序々に強くなっていった。 とにかく、明日を待てばいい。そんな風に考えていた。 だからこの夜だけは、ぐっすり眠れたのかもしれない。  


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