創作小説

蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―

第一章 Side:Roi 『約束。必ずそこへ連れて行ってね。』 もう一度、約束だ、と小指を伸ばす彼女の笑顔が目の前でぐらりと揺らぎ、目を開ける前にそれがいつもの夢だと気付いた。 身体を起こし、皺だらけのシーツを腰の下まで剥ぎ取る。肌触りの悪いそれは、連れ込み宿独特の生乾きの様な臭いを放っていて、 嗅ぎ慣れているとは言え、朝一番に鼻をついたその臭いに無意識に顔を顰める。 ふと、広いダブルベッドの隣に目を遣って、不自然に広いベッドの上には自分の気配しかないことに気づく。 手を伸ばして空いた隣のシーツに触れると、案の定それは冷たかった。 女は朝早く出て行ったらしい。後腐れがない様にか、それとも情夜の翌朝を共に過ごす様な関係ではないと割り切ったのか。 傍のソファの上には昨夜脱ぎ散らかした服が綺麗に畳んで重ねられている。売女にしてはなかなか出来た女だ。 思い出してみれば、容姿もそう悪くなく、身体を抱きながら長い髪が邪魔だと思いはしたものの、上玉には違いなかった。 その分値も張ったはずだと、俺はスタンド下の財布に手を伸ばし、中身を確認する。抜かれていたのは、きちんと一夜分の札束だ。 色街で買った女にしては珍しく出来た女だったようだ。 俺は気だるい身体を起こし、椅子に引っかけられたタオルを手にシャワー室へ向かった。 時は―――――酷く荒んだ時代の真ん中で、もう随分と長くこの国に居座ったまま、一行に動こうとはしない。 毎日の様に裏街では浮浪者が死に、娘が売られ、汚れた川には薬の小瓶が浮かんでいた。そんな汚れた時代を皆が真っ当に生きて いるなどということはもちろんなく、自分が女を買うのも人を斬るのも必然的に降って湧いた現状だと、今では割り切るようにし ている。深く眠っていたにも関わらず、シーツの外に出ていた腕は思いの他、昨夜の汗が渇いて冷えている。 熱い湯を浴び、身体を温め、シャワー室を出たところで鏡に映った自分の首元に赤い痕を見つけた。大方、昨日の女だろう。 自分よりも先に出て行ったのは、どうやら湧きかけた情を振り切る為だったらしい。俺は鏡に映る自分に大きく舌打ちをし、 戻った寝室のベッドに腰かけた。 やはり、売女は売女だ。最後に馬鹿を残すところがそうなのだ。消えない痕にため息を吐き、もう一度乱れたシーツの上に寝転がった。 見上げた天井は薄汚れていて、所々、水が漏ったような染みが出来ている。安上がりなのは宿泊賃のみでなく、建物の造り自体そうらしい。 ごろりと横に向きを変え、覚醒したばかりの頭を静めて目を閉じる。 何故か、妙に心が苛立っている。あの夢を見た朝はいつもそうだ。 以前など、目覚めたと同時に湧き上がった苛立ちを抑えられず、横で眠っていた女を叩き起こして、気付けば裸のまま部屋から 追い出していた。別に、女など好きで抱いている訳じゃない。女の身体が欲しいと思ったことなどないが、自分が男である限り、 効率よく溜まった熱を吐き出す術が必要になる。 女に欲するのはその処理のみであり、自分でもそう割り切っているのは自覚している。 しかし、あの夢を見た後は違うのだ。 俺は身体を起こした勢いのまま、ソファの上の服を着込んだ。血生臭さの漂うシャツに包んでしまう洗いたての身体が惜しい。 罪悪感、と言うのだろうか。 そんなもの、と唾を吐きたくなるような言葉だと思う。しかし、あの夢を見た後の自分は必ず、その感情に似た既視感を繰り返し ている。もう、ぼんやりとしか蘇らない彼女の顔を思い出す度に、だ。 俺は軽くなった財布をズボンの後ろポケットに突っ込み、薄手の上着を肩に引っ掛けた。 どちらにしても、もう戻れないのだ。 部屋の入口に立てかけたままの刀を腰に挿し、きな臭い部屋を後にした。 宿を出ると、朝早いと思っていた割には日が高く、朝と言うよりは既に昼に近いと分かった。 裏街の路地を抜けて大通りに出ると、昼間だと言うこともあって、終わりかけの市に群がる人だかりが、疎らにだが、 まだあちこちに出来ていた。 さすがにこの平和な市民の只中を、刀を携えた自分が歩いては目立ち過ぎるだろう。羽織ったシャツには昨日手にかけた輩の返り 血も拭われずにそのままだ。先刻から騒ぎ出している腹の虫を抑えつつ、面倒を避けて裏街へと引き返すしかなかった。 昨夜、女を買ったことで金がないのは事実だったが、上手い飯屋が大通りにしかないと言うこともまた事実だった。 もっと早く宿を出て、目立たないうちに腹拵えを済ませておけばよかった、と些か後悔しながら、裏路地を曲がって直ぐの店先に 掛かっている小さな看板を見上げる。赤い木造りのそれは埃を被って煤けており、決して手入れの行き届いたそれではない。 「…仕方ねぇな。」 呟いて、店の軒下を潜る。手で軽く押すと、キィッと盾突けの悪い音を立てて扉が開く。 店の中は稼ぎ時の昼だと言うのに薄暗く、自分以外の客の気配もなかったが、それもこの店にはいつものことで気にも留めない。 暗い店内にこつこつとブーツの靴音が響く。暗くて視界ははっきりとしないが、一番奥のカウンターの向こうに、ずらりと並んだ 酒瓶と、一つの人影を見つけた。それもいつものことだ。 「よお。」 人影は気の抜けた声を上げ、また来たのかと揶揄うように揺れた。ああ、と短く答え、カウンターにつく。 「何か食わせてくれ。」 カウンター越しの男は慣れた手つきで棚から酒瓶を降ろし、俺の目の前に差し出す。昨日の昼にここで飲んだ残りだ。 「少し待て。」 そう言って、男は適当にカウンター下の食材庫から取り出した肉を切り分け、いくつか香りのきつい香辛料の葉と共に鍋の中へ放 り込んだ。 「相変わらず雑な仕事だな。」 そりゃ客が来ねぇ訳だ、と思ったが、追い出されても困るので、そこまでは言わずにおいた。 「お前の刀捌きよりはマシだろうよ。」 男は俺の言葉を気にする風でもなく、火にかけた鍋を時折見遣りながら、適度な厚みに切った白パンを数枚俺に差し出した。 「まあ、お前の仕事に丁寧も雑もないだろうがな。」 そう言ってニヤリと笑う顔は、俺も人のことは言えないが、大層な悪人面だ。 「ずばっと一太刀であの世逝きだろ?」 ふざけて刀を振る真似をする男を見ながら、俺は出されたパンを頬張り、消毒液のようなアルコールの味しかしない酒で流し込む、 を繰り返す。思えば昨日の昼から何も食べていなかった。今更減りすぎていると気付いた腹が、鍋の中の肉を必要以上に欲して いて落ち着かない。 「お前こそまだ阿漕な仕事に手ぇ出してんだろ?いっそこの店を売って、そっちを本業にしたらどうなんだよ。」 「したらテメェは明日から飢え死にだな。」 厭味のつもりで言った台詞はあっさりと核心をついて交わされる。渋面のまま酒を含むとさっきよりも不味く感じた。 「テメェのツケが返ってくるまではここも辞めらんねぇなあ。」 そんな苦い言葉と共に差し出された肉の煮込みを、腹の虫で誤魔化して無言で喉の奥に掻き込んだ。





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