創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
貪るように食事を済ませ、満たされた腹にゆっくりと酒を流し込んでいると、ふいに洗い物に投じていた男から声がかかる。
「それで?」
「あ?」
「昨日の女はどうだったよ。」
「…ああ。」
この店の前で引っ掛けたのを見ていたのだろう。正確には、あちらから近づいて来たのだが。俺は男に向かって自分の左の首元を
差し出す。男はカウンター越しにそれを覗き込み、俺の言いたいことを悟って苦笑した。
「それで機嫌が悪い訳か。」
「まあ、それだけでもないがな。」
昨夜の夢が頭を過ったので咄嗟に言葉を濁すと、男は怪訝そうに眉を顰める。
いつもと素振りを変えた覚えはないが、この男には少しの変化でさえ見抜かれてしまうので、俺が口籠った言葉の先を何となく悟
られている様な気がした。職業柄、この男が敏感であることよりも、古い付き合いだからなのだろうが。
男は俺に出した酒を自分のグラスに一杯注ぐ。客に出した酒だろうが、と言っても知ったこっちゃないと言わん顔だ。
「女なんか買うの止めちまえよ。明日食うのもやっとの奴がよ。」
「それはコイツに言ってくれ。」
そう言って自分のカウンター下を指すと、男は下衆が、と呆れた様に肩を竦めて見せた。
「お前、女好きって訳でもないんだろ?」
酒瓶の最後の一口を流し込みながら、暫し考える。はたと男の意図することを理解して軽く首を横に振った。
「悪いが、てめぇを儲けさせるつもりはねぇな。」
言うと、男が小さく舌打ちする。案の定だ。
「んなこと言うなよ。同じ浮浪児育ちの好だろうが。」
「そんな仲間意識はごめんだ。」
街で自分に喧嘩を吹っ掛けて来た子供は誰だったか。
あの頃のように拗ねると口を尖らす男を見ながら、一瞬出会った頃を思い出す。
「いいじゃねぇか。どうしても相手が必要なら一度買ってみろよ。それなりの金出しゃ、そこらの売春婦よりいい仕事するぜ?」
「下世話だな。俺は男に手を出すつもりはねぇ。」
切り捨てるようにそう言うと、男はつまらなさそうに?れて見せる。
「何だよ、兄貴分の頼みも聞けねぇのかよ。」
「お前を兄貴だと認めた覚えはねぇ。」
三つも上の癖して垣間見せる顔はがき臭い。兄貴分だか弟分だか、もうそんな歳でもないだろうに。
「そういやあ…お前、まだあの小屋に住んでんのか?」
グラスを傾けながら男が言う。すぐに自分が寝起きしている小さなバラック小屋のことだと分かった。
小屋と言うにも過大評価が否めないような空き小屋に住みだしたのは、そう言えばこの男がこの店を開いたばかりの頃だったか。
「寝る場所さえあればいいからな。」
「ったく、もう少し人間らしい生き方してみろよ。」
「余計な世話は焼くな。」
兄貴面と言う名のお節介をかわして、空になった酒瓶をどんと机に置く。男は苦笑して、
「へい、へい。ほら!食ったらさっさと行け。仕事だろうが一文なしが。」
言いながら取り上げられた空の酒瓶を目で追って、何処となくそれが惜しく感じる。すぐに諦めて後ろポケットに手を伸ばし、
薄い財布を手元で開く。
「ごっそさん。」
財布から適当に金を取り出し、カウンターに置くと同時に席を立った。
「何だ、珍しいな。金を置いていくなんて。」
踵を返した俺の背中に、男は驚いたように声をかける。
「この店、潰してやらなきゃなんねぇからな。」
そう言って奴がするようなにやりとした笑みを残して店を出ると、後から追いかけるように小さな笑い声が届いた。
「そりゃあ、やべぇな、俺も。お前もせいぜい死に戦にならねぇようにな、ロイ。」
かけられた声には答えず、俺はそのまま裏街をさらに奥へと進んだ。
エリガルの店で長居をしたせいか、店を出てしばらく歩くと、すっかり日が傾いて、ただでさえ光の少ないスラム街はあっという
間に夜のようだ。しかし、仕事の上では随分と都合のいい頃合いだった。裏街と言えど、自分の生業は昼間の日の高いうちから動
くには些か人目が憚られる。上着の内ポケットから一枚の紙切れを取り出す。今回は殊の外探し出すのに手古摺ったせいか、
その写真は酷く擦り切れて汚れていた。
『上手く始末出来れば、いつもの倍は出そう。』
数週間前、この写真の人物の始末を依頼してきた男の言葉を思い出す。
頻繁に依頼を受ける男だったが、決してむやみやたらに羽振りのいい男ではないので、払い値を引き上げるということは、
この写真の男がそれなりに逃げ隠れの上手い輩なのだろうという察しはついていた。が、まさかこの俺が手元の金が尽きるまで捜
し回らなければならないとは思わなかった。この男を探しているうちに、すっかり財布は薄くなった。それでも男について分かっ
ていたのはこの写真に映った顔と、ジェフという名だけ。暗い裏街の最奥まで行き着くと、もうそこは街と言うよりゴミ溜めに近
く。まるで華やかな街から隠されるようにひっそりとそこに在った。俺は一際影を落とした一軒の宿屋の前に立つ。
外観は古いなんてものではなく、まだ自分が昨夜泊まった宿の方がいくらかマシと言えるだろう。
どちらにしろ、連れ込み宿には変わりない。
俺は腰元の刀に手をかけ、鞘から覗く波紋を眺める。長く手応えのない血ばかり浴びた刀は萎えた様に鈍く光っている。
今度こそは、と目下の男にささやかな期待を抱いて、それを鞘に戻すと共に、ゆっくりと建物の中へ歩みを進めた。
建物の中は仄暗いと感じる程度にしか明かりが灯っておらず、外観通りに古びた造りをしているので、不気味と言う言葉が相応し
い。その上、カウンターには人影さえなく、好き勝手動くには都合がよいと言えばそうだが、何にしても部屋数が多い。
建物自体は対したことのない大きさだったが、一つ一つの部屋が小狭いのか、ざっと見ただけでも一つの階に二十は部屋があるよ
うだ。俺はため息混じりに思わず呟いた。
「今回はちと面倒だな。」
自分に来る依頼と言えば、暗殺か裏組織の後始末。
大体は雑魚の始末に終わるが、たまに請け負う組織の復讐に遣わされる今回のような依頼は、時間はかかるが報酬も桁違いだ。
金との縁が切れた今、多少の面倒で投げ出す訳にはいかない。この宿に目当ての人物が泊まっていることは数日の調べでやっと
検討がついたところだ。後はその男の部屋を割り出して斬ってしまえば、明日からまた美味い酒が飲める。
端の階段を足音を忍ばせながら上がる。気を遣っていても軋む古びた板の音に苛立ちながら、順に階を上り、二階の端の部屋の前
に立った。壁は薄く、しかも連れ込み宿だ。部屋の扉に一つずつ耳を澄ませ、中の様子を伺う。
物音一つしない空室、女の嬌声の響く部屋、僅かに話し声だけが聞こえる部屋もあり、人の有無は簡単に見分けがつく。
「ここじゃねぇな。」
何の根拠もないただの勘だったが、依頼主には相手もそれなりの稼業の人間だと聞いている。人の気配のある部屋は四つ。
どれもピンとくる気配はしなかった。俺はまた静かに階段を上り、三階へと進む。
こんな風にこそこそ動き回るより、出会ったもの皆ばっさりと一太刀浴びせる方が楽なのに、などと思いながら進むと、
今度は先程よりも人の気配がある。
刀の柄に手を添え、ゆっくりと階の様子を伺う。先刻と同様に人の居る部屋を割り出そうと一番端の扉に近づきかけた時、
かちゃりと言う音と共に数室奥の部屋の扉が少し開いた。俺は慌てて柱の影に身を隠し、側の窓ガラスに映りこんだその人物を
間接的に確認する。白いガウンを羽織った大柄な男が、皺くちゃに丸められたシーツの山を廊下に無造作に放り出している。
空の酒瓶が数本同じく転がって、男は欠伸を一つそこに漏らした。
俺はその男の顔を眺め、無意識にくいっと口角を上げる。
「…見つけた。」
腰元の刀の柄をそっと握ると、身体が久々の興奮で小さく震える。刀が血を吸いたいと叫んでいた。
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