創作小説

蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―

  次の朝、俺はあの船場から船を出し、あの小島に降り立った。 人の踏み入らないその土地は、白い砂浜も、生い茂った草も神聖な程穢れを知らない。 静かな時間だけがそこに流れ、船をつけた浜から真っ直ぐと山へと伸びる丘に、小さな小屋が建っている。 冷たくなったアランを抱えて上る丘は、まるでカルマの坂のようだった。彼を救うために登るのではなく、彼を失った今、 登りきらなければならない業だった。 いつもよりも軽い腰脇がほんの少し涼寂しい。一歩ずつ、ゆっくりと登った丘の上には、先刻麓で見上げた小屋が見えてくる。 もう長く使われていない、隙間風の吹き込む物置小屋のようなものだった。 俺は細い草の生い茂った地を踏み分け、その小屋の横に立つ。 渡って来た海の向こうには、ミネルバの街が見渡せた。 鍵の壊れた小屋の戸はキィっと言う高い音と共に、俺が少し押しただけでゆっくりと開く。 一歩踏み込んでみると、案の定中は薄暗く、埃っぽい空気が漂っていた。 まるで、かつて居た、どこかのベッドくらいしかない小屋のようだ。 変に懐かしい気持ちに駆られる。 奥へ進むと、小屋の最奥に、一筋だけ光の差し込んでいる小窓がある。細く、空気に舞う埃が照らされたその部分だけが、 暗闇の中で明るく輝いている。 小さな天使の梯子だった。 俺はアランを抱いたまま、その光の下へと誘われるように近づく。光のすぐ真下で小窓を見上げると、 ちょうど太陽の欠片をその窓から見ることが出来る。 俺はその壁に凭れるようにして腰を下ろす。膝の上にアランを抱えると、すっぽりと二人の体が光の輪の中に収まった。 静かだった。何もなく、居るのは自分とアラン。 刀も、目も、声も、命をも失っても、ここにいるのは自分とアランだけだという事実。俺はアランの自由の為に、 アランは俺との未来の為に、声を目を命を失った。 きっとそれを捧げる覚悟を、アランはとっくに自分の内に抱いていた。あの涙の流れた夜からずっと。 ふと、頭を傾げた小屋の壁に、薄く彫られた傷を見つける。浴目を凝らすと、どうやら人為的に作られたもののようだった。 俺はぐっと目を凝らす。 『L…からAへ…?』 LからAへ。 どう言う偶然だ、と思わず漏れた音のない笑みが宙に浮かぶ。 そんなはずはないと分かっているが、思わずその傷に見入ってしまう。 昔、ここに辿りついた者がいたのだろうか。LとAの名を持つ人間が。 『もしかすると、あの絵本にあった男達かもな。』 そう考えて、思わずまた頬が緩んだ。無意識にアランの身体を抱え直す。 顔の知らないその人間達も、ここに愛を求めただろうか。青白いアランの頬を撫でる。シーツに包まって身じろぐ姿が容易に瞼の 裏に浮かんでくる。動かない身体に顔を埋めて思うのは、愛を求めすぎたことの後悔。 もしかしたら、愛に喰われたのではないかと、彼が何度も囁いた「愛している」の一言が、 教会の天辺に掲げられた十字架のように胸に迫る。 それでも、もう一度、愛してる、と呟く声が聞きたい。 自分を覗き込む、蒼い瞳が見たい。男だとか女だとか、そんなものは関係なく、ただ一人の人間として、アランの傍に、 アランが自分の傍に居ることを願っていた。 そして今、願い通り俺の傍にはアランがいる。 ゆっくりと目を閉じる。瞼を開き、この小屋の壁を取り外せば広がるはずの蒼い世界は、 今思えば、ずっと前から知っているそれだった。 この地に生える草も花も、あの分厚い表紙の続きに見たものだった。 約束だから、連れてきた。今なら言える。着いたのだ、と。 『約束。絶対そこへ連れて行ってね。』 ―やっと着いた 此処だ、アラン。この島に辿り着く時、俺の隣にいるのはお前だと、それだけはあの日から決めていた。 あの森で、お前と約束を交わしたあの日から、ずっと。小さな名もない島の上に立つ、小さな小屋のこの光の中で、 今、お前は俺の傍にいる。 ―ここが、俺達のカノンだ 俺は動かずとも、安らかな顔で眠るアランを抱きしめ、その唇に口付けた。 永久に共にと誓って。 カノン―――――物語に描かれるその島は、何処にあり、どの様な島であるかさえ、その詳細は定かではない。 楽園と言われ、とある物語の一節として語り継がれるその島に、遥か昔、辿り着いた者がいた。 美しい青年を抱えた男は、この土地に辿り着き、その後どうなったのかは誰にも知られていない。 唯、この島に入った男は友の、愛した人の亡骸を抱き、 二度とその島を出ることはなかった。彼は、かつて愛しい者の亡骸に口付けて言った。たった一人で生きることは望まない、と。 それは、共にあってこその楽園。 共にあってこその愛だった。 その島が、本当に本で語り継がれていた島なのかどうかは分からない。唯、辿り着いた男はその島をこう呼んだ。 ―カノン― それは愛を知る者だけが辿り着く、至極の楽園。 END


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