創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
「ロイ、そこにいる?」
不器用な手で傷の治療を終え、宿に連れて帰ったアランは、意識を取り戻して直ぐにそう言った。
目を覚まさないアランを見つめながら、確証もなく考えていた。もしものその時を。
ぼんやりと横たわったままのアランの手にそっと自分の手を添える。
「よかった。」
俺の手を握って安心したように呟く。傷は塞がったが、中和の遅れた傷口から徐々に毒が回っているようだ。
弱くゆっくりとした口調だの掠れた声がその喉から絞られる。
二回目の蒼い月が窓辺から覗く。案の定、ジゼルの医者の忠告通りに喉の潰れた俺に、かけられる言葉はない。
適当に傷を手当しながら、いつの間にか力尽きて自分も眠りにつき、目を覚ました時には、既にこの声は出なくなっていた。
「どうしたの?ロイ。」
何も言わない俺に、アランが不安げな声を出す。まだ寝惚けているのか、その焦点は定まらずに宙で揺れている。
平生を装っているように見えるアランの呼吸は浅く、衰えていく体に心配をかけまいと気丈に振る舞っているのが分かる。
俺は何も言えないまま、なんとか伝える術はないかとアランの喉にそっと自分の指を添えた。
ほんのり湿った指が力なく喉元を這う。
「喉?喉がどうし…。」
そこまで言って、アランははっと目を見開いた。
思い当たってくれてよかったと、束の間ほっとする俺に、アランは慌てたように言う。
「声…声、出なくなった…の…?」
そうだ、と言うように繋いだ手に力を籠めると、一瞬、アランの体は強張って、一息置いて、徐々にゆっくりと脱力した。
「そ…う…。」
アランが口を噤んでしまうと、部屋には沈黙だけが訪れる。俺にはどうすることも出来なかった。
「ロイ…。」
アランは天井を見つめていた。俺が返事の代わりに手を握ると、薄っすらと笑った後、思いもしなかった言葉を口にした。
「ロイ、俺…目が目えないんだ。」
何を言われたのか、分からなかった。
「傷のせい…かな?起きたらさ、目の前が真っ暗になってた。」
アランの声は自棄に落ち着いている。むしろ俺の方が動揺しているくらいだ。アランらしからぬ声色が室内にぽつりぽつりと響く。
「何でかな、俺…すごく冷静なんだ。目、見えないのにさ。」
アランは傷だらけの手で顔を覆いながら、さも可笑しいと言った様にくすくすと笑みを零す。
その目は、まだ一度も俺を映してはいない。
「ロイ、傍に居るんだよね?」
俺は握っている手の力を強めた。アランが安堵のため息を吐いて、微笑む。笑みを浮かべた口元から、
聞きたくない言葉ばかりが零れる。
「俺…死ぬのかも。」
吐かれた息は浅い。それを感じて、無意識に噛みしめた歯が軋む。
「ねぇ、ロイ。最後かもしれないんだからさ。」
アランは焦点の合わない目をこちらに向けて言う。蒼い目は以前よりほんの少し濁っているが、相変わらず深い蒼だ。
「言ってよ。好きだって。」
ゆっくりと瞬きを繰り返すアランの瞳を見つめる。蒼く深みを帯びた瞳は、暗くくすんでしまっていた。
「愛してるって、言って。」
俺はアランの言葉に答えようと口を開く。しかし、喉を通り抜けるのは細い息の音だけで、開いた口は、決して言葉を紡がない。
「ねぇ、ロイ。言って。」
アランが縋るようにもう片方の腕を俺の手に絡める。
「言って…。」
好きだと、愛していると、空を足掻く口が呟く。その声も、そう足掻いている己の姿も、アランには届かない。
「ロイ。」
―アラン。
「ロイ。」
―アラン。
「愛してるって、言って。」
―俺を見ろ。
「言ってよ…。」
アランの声が涙声に変わり、それっきり口を噤んだ。今程思ったことはない。
どうして上手く愛することさえ許されない、と。
アランの瞳から涙が流れ、横になった枕を濡らす。傷が痛むのか、時折苦しそうに顔を歪め、浅い息を吐く。
どれくらいそうしていただろうか。だんだんと短い息を吐くようになったアランを見つめながら、俺はどうすることも出来ずに
アランの手を握り続けていた。
暫くして、アランは閉じていた目を開けて、こちらを見た。俺の視線と真っ直ぐに交わることはない。
「ロイ…。」
俺はアランの髪に手を伸ばす。梳く様に撫でると、アランは嬉しそうに目を細める。何度も、シーツの上で見た眼差しだった。
アランが言う。
「ロイの…顔が見たい。目も、口も、全部。」
アランの指から伝わるのは、アランの想いであり、エマの想いであり、
見たい。愛した人を全て。
その想い、ただ一つだった。
「今更だけど…さ、もう二度と、ロイを見ることは出来ないんだね。」
自分に言い聞かせるように呟く。知らずに、唇をアランの手に寄せていた。
「ロイ…。」
アランが呟く。熱に浮かされるように、ただ天井の一点をぼんやりと見つめる。
「逢いたい。」
こんなに傍に居るのに、どんなに愛していても、決して交わることは許されない。
「ロイ…。」
死なせたくなかった。
十三のあの日から、手に入れるまでどれだけ待ったか分からない。もう逢えない未来すら考えた。
それなのに、どうして、また引き離す。
「ごめん…ロイ。」
何故、謝るのか。
「連れてってくれるって…約束してくれたのに…俺、それまで待てそうにないから。」
アランも、あの汚い裏街で出会い、過ごしたあの日々を思い出しているのだと思った。
「行ってみたかったな…あの場所。」
アランは穏やかな顔でそう言う。今考えているのは、幼い時に見た絵本だろうか、ベッドの上で話した島の話だろうか。
「ロイ、愛してる?」
唐突な問いに一瞬戸惑ったが、その答えに迷うことはもうなかった。返事の代わりに握ったアランの手の甲をするりと撫でる。
「本当に?」
今度は指を絡めて、力を籠めた。
「また『あぁ。』とか『分かった。』とかじゃ…ないよね?」
浅い呼吸をしながら、途切れ、途切れに紡がれる言葉は子供のそれのようだった。左手をアランの頬に添える。
愛してる、と言葉にならない声で何度も叫びながら。アランは自分の右手をゆっくりと頬を撫でる俺の手に重ねた。
小さく微笑みながら、弱い力で俺の手を握る。
「…ロイ。」
呟いた言葉は戯言のように宙に浮かび、返事にならない俺の言葉を待てずに消えていく。
「ロイ…最後に、聞いていい?」
俺は返事の代わりにアランの頬を大きく顎まで一撫でした。
「もし、エマと…アランが別人だったら…。」
「今のロイは、どっちを選ぶのかな…。」
漏れる言葉が不安げに揺れるので、俺は迷わず長い口付けをアランに贈った。微かに触れるだけの、子供のような口付けを。
「俺…愛されてる。」
そう言って浮かべた笑顔は酷く無邪気で、無垢なあの頃のエマと、情事の後の口付けと共に交わした視線の先で笑うアランの
笑顔そのものだった。
「ロ、イ………愛し…て、…あり、が…。」
愛してくれて、ありがとう。
ゆっくりと、蒼い瞳が閉じられる。力の抜けた腕は俺の手を握り返すことを諦め、ただ白いシーツの上で重ねられるだけ。
白い腕は、残酷な雨の日のエマのもので、俺の腰に回ったアランのもので、俺の愛した人の腕だった。
礼を言うのは俺の方だ、と届かない声をその耳元に囁く。涙は出なかった。
欲しかった身体は、肌は、まだこんなにも温かいのだから、と心の中で言い訳をしていた。
俺は、その肌に何度も口付け、冷えていく身体を抱いてその夜を越えた。
失くしたものは、手に入れた全てだった。
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