創作小説
DOLL
4st 変化
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「柚亜。」
次の日、出掛け様に背中にかかった声に振り向くと、博士は大量に積まれた機材の山の中に手を突っ込んで何やら探していた。
「今日は雨が降るから、傘を持って行きなさい。」
そう言いながら、目的の傘が見つからないようだ。この研究室で過ごして、傘など今まで一度も見たことがない。
ずっと晴れ間続きだったからというより、そんな物がすぐに見当たる程眺めのいい物の置かれ方にはなっていなかったから。
あたしは暫く博士が傘を探し当てるのを待っていたが、すぐに諦めてこう言った。
「大丈夫だよ。降ってくるまでに帰って来るから。」
「しかし…万が一濡れたりしたら…。」
彼は今度は高く積まれたファイルケースを一箱ずつ退けてはその下を探している。これではいつまで経っても出かけられない。
あたしはもしもの為にと出入り口に掛けてあった赤いコートを羽織る。これだけで十分だろう。
「大丈夫だって!行ってきます。」
あたしがそう言って振り切る様に部屋を出るのを見て、博士は一度あ、と声を上げたが、すぐに諦めたように
「…気をつけて…暗くなるまでに帰りなさい。」
と見送ってくれた。
外に出るとすぐ、博士の言っていたことがわかった。湿気で鬱蒼とした草原の感じは、上を見上げた雲掛かりの空と相対している。
そう言えば、そろそろ梅雨の時期だと朝のニュース番組で聞いた気がする。あたしが彼に出会ったあの日から、
一か月が過ぎていた。
「降らないといいけど…。」
そう思いながら、湿ってしなりと首を折った草の上に腰を降ろす。
そうした途端、あたしの意に反してそれはぴしゃりと肌を打った。
「雨…!?」
肌に触れる冷たさは微かだが、その感覚に身じろいだ。出掛けの博士の言葉を思い出し、ひどく慌てる。
「どうしよう…。」
まさか、こんなに早く降ってくるとは思わなかった。
辺りを見回して見るが、博士の言葉通り朝から雨の予報があったせいか、ただでさえ人通りの少ないこの場所に訪れている人影は
見当たらない。もちろん、彼の姿も。
雨に当たれば、たとえ性能がよくても鉛の身体には堪える。多少のことなら問題ないが、隆二がいつここを訪れるかなんて
分からない。あたしの近くは見晴らしのよい草原が広がっているだけで、雨を凌げる場所はない。
彼が来るまで。
雨足は次第に強くなるが、まだ大丈夫と自分に言い聞かせて、その場に留まった。
もしかしたらにわか雨で済むかもしれない。彼がもうそこまで来ているかも。
そんな都合のいい想像を膨らませながら、雨で張り付く髪も構わずに彼を待った。
そう遠くない研究室に傘を取りに行ってもよかったが、その間に彼がここを通るかもしれない。
それに、今日の朝、彼に会うことを自分にプログラミングしてきたばかりだ。
もちろん自分の意思でここにいるのだが、どちらにしても彼に会わずしてここを去ることは出来なかった。
真っ黒な雲が空を覆い、今が何時なのか、昼なのか、もう日が落ち始めているのかさえ分からない。
雨は土砂降りに近い豪雨で、気付けばいつもよりぐっと冷たくなった指先が微かに悴んでいる。
まだ大丈夫。
そう自身に言い聞かせるが、さすがにこれ以上濡れるのは危険だと思い始めた。地面から跳ねあがる飛沫のせいか、目が霞む。
辺りは相変わらず人一人見当たらず、ただ叩き付ける雨音だけが木霊している。
「隆二、遅いなあ…。」
ぐっしょりと濡れた靴の中が気持ち悪かったが、彼を待っているのだと思えば、その点はそれほど気にならなかった。
「柚亜?」
ふいに掛けられた声に、勢いよく振り向いた。ちょうど真後ろの土手道に制服姿の隆二が立っていた。
「隆二。」
彼はひどく驚いた顔をしていたが、あたしは彼の顔を見れたことに安堵し、彼に構わず笑みを零した。
彼は暫くそこで呆然としていたが、思い出したように慌てて土手を駆け降り、あたしに傘を差し出した。
「何やってんだ!!」
強引に突き付けられた傘を受け取り、彼と自分をその中に納める。
彼は慌てながら自分の学生かばんを探り、紺色のハンカチを取り出すとそれで乱暴にあたしの頭を拭いた。
髪が乱れるのも、彼の怒った顔も何故か気にならなかった。
それよりも、彼を見た安堵感からか、急に頭が重くなって往き、立っているのが辛い。
あたしの目の前で世話しなく動く彼の手首を握り、
「おかえり。」
と呟く。身体が寒さに悴んで、上手く言葉を紡げない。そう言って笑ったあたしを見て、彼が一瞬動きを止めたので、
伝わらなかったのではないかと不安になる。
もう一度と口を開きかけた時、彼の傘がふわりとバランスを崩して地面に転がる。あたしはぽかんと口を開けたまま、
それをゆっくり目で追った。
あ、と声を上げる間もなく、気付くとあたしは彼の伸びてきた腕に囲まれている。頭がひどく痛んでいた。
「り…―――――」
言いかけた言葉を飲み込んで、あたしは彼が発した言葉に目を見開いた。
「好きだ。」
身体が熱かった。内側から染み出てくる熱と、彼の声に足元が揺らぐ。
彼の言葉を確かめようと返事をしかけた瞬間、あたしは放り投げるように意識を手放した。
意識を失う瞬間、一枚壁を隔てたように遠くで隆二の不安げな瞳が揺れているのを見た。
次に目を開けた時、飛び込んで来たのは見慣れた天井の景色だった。
「あれ…。」
先刻まで感じていた寒さもなく、指先の感覚もはっきりしていた。ただ、頭だけはまだどんよりと重い。体感温度は26度。
「目が覚めたかい?」
横になったまま足元に目をやると、マグカップを持った博士がこちらに歩いてくるのが見える。研究室だ。
「あの、あたし…。」
あたしはまだよく状況がつかめないまま身体を起こす。博士は傍まで来て、ベッドの淵に腰掛けた。
「飲みなさい。カフェインは疲れた身体に良くないからね。ホットミルクだ。」
あたしは小さく礼を言って、手渡されたそれを口元に運ぶ。温かいそれが喉を通ると、至極落ち着いた気分になる。
ほんのり蜂蜜の味がした。
「あたし、どうやって戻ってきたんだろ…。」
確か、いつもの土手で彼を待っていた。雨が降ってきて、驚いた顔をした彼に傘を差し延べてもらったところまでは覚えている。
どんよりとした頭のせいか、そこまでしか思い出せない。もう雨は降っていないのだろうか。聞こえてくる外の音は静かだった。
そんなあたしを見て、博士は、
「それにしても驚いたよ。夕飯の買い物から帰ってきたら、まだ早いうちから君がベッドに寝ていたからね。」
何も覚えていないのかい、と困ったように笑う。
どうやって帰ってきたのだろう。帰り道を歩いた記憶も、まして隆二と別れたことも覚えていない。
それに、すぐ横の上着掛けに、よく濡れたコートと靴下が干してある。あたしは時折ホットミルクを口に運びながら、ごっそりと
抜けている記憶に頭を巡らせた。すると突然、博士の手がこちらに伸びてきて、あたしの額に当てられる。彼があたしにこんなに
も直接的に触れることは初めてだったので、あたしは一瞬動揺した。
「うん、もう大丈夫なようだ。」
そう言って、彼は少しほっとした顔をする。
「あの…?」
あたしが聞くと、
「熱がね、あったんだよ。人間で言う風邪の症状だが、君にこの症状が出るのは身体に余程の負荷がかかった時だけだ。」
彼はそこまで言うと、少し怒ったような顔で、
「心辺りは?」
と言う。あたしは思い当たる節にぎくりとした。
「……少し、雨に濡れただけ。」
「少しかい?」
直ぐさまそう言われ、思わず言葉に詰まる。
「……結構……かな…?」
「だろうね。」
そう言って、彼はひとつ大きなため息をついた。
「私の忠告が聞こえなかったのかね?」
そう言いながら、中身を飲み干したあたしのカップを取ってキッチンへと向かう。
それを流しに片しながら、おかわりは、と問われたので、あたしは静かに首を振った。
「いいかい、柚亜。君の身体はこの世で1番性能に出来ている。基軸は金属だが、水に対する耐性は防水なんてものじゃない。
水でなら大抵のことがなければ錆びることもなければ、機能が停止するなんてこともない。」
部屋の端で博士がカップをじゃぶじゃぶと洗う。その水音が今日はやけに耳触りだ。
「だがね、それと同時に君の身体は繊細でもある。
雨のように大気の塵や埃を多く含んだ液体を頭から長時間被るということは、水に触れるだけじゃなく、君の皮膚の隙間から
その異質物が入りこむことになる。
君の身体はそれらを拒否してシステム異常をおこすんだ。それだけじゃなく、水に当たってこの症状が出るってことは、
余程長く冷たい水に触れていた証拠だ。」
博士はキュッと蛇口を捻り、濡れた手をタオルで拭う。あたしはその手をぼんやりと眺めていた。
「それから。」
と博士があたしの目の前に一枚のそれを広げる。よく目を凝らしてそれを見る。まだほんのりと湿った紺色のハンカチだ。
「あ…。」
見覚えがある。
「私が帰ってきたら、君の額に濡らされたこれがのっていたよ。これは君のかい?」
あたしはそのハンカチを見つめながら、小さく首を振る。
「その様子だと、誰のものか知っているようだね。」
あたしは目線を博士に移し、小さく頷くと、彼は少し嬉しそうに笑った。
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