創作小説
DOLL
A
ふんわりと身体が浮遊する感覚。皺にならないよう、その端をぐっと握るとじんわりと掌に熱が広がる。
昨日の熱がまだ退かないのだろうか。昨晩ずっと昨日の隆二との別れ際について考えていた。そう、ひとつ思い出したことがある。
『好きだ。』
あたしは土手の草原を抜け、石だらけの河原の淵に立ってみる。
昨日の雨で増水した川の流れは早く、すぐ足元で茶色く濁っていたが、相変わらず静かだ。
『好きだ。』
あれは、聞き間違いだろうか。はっきり覚えていないだけに、本当のことが知りたい。けれど、いざ探ろうと一歩踏み出すと、
胸がえぐられるような苦しさを感じる。彼にどんな顔で会えばいいのか結局わからないまま、ここまで来てしまった。
あたしはつま先で足元の小さな石ころを順に水淵に転がし入れる。ぽちゃんと音を立てて沈む石が川底をさらに濁す。
どうしよう。
彼に会いたい気持ちに勝って、だんだんと戸惑いが大きくなる。その時だった。
「柚亜!」
突然かかった声に、あたしは小さく肩を震わせる。隆二の声だ。
「何してんだよ。今日は水が増えてるから危ないぞ?」
いつもと変わらない声。あたしはきゅっとお腹の前で彼のハンカチを握る。
こんな風に、初めで彼を待っていた時のことを思い出す。
あたしは一度ぎゅっと目を瞑ってから、思い切って振り向いた。
「あの、昨…――――」
「ほい。」
「え?」
振り返った先には、思ったより近い場所に彼が居た。
けれど、驚く間もなく、いきなりすぐ顔の前に差し出された小さな箱を凝視した。
「何、これ。」
「風邪薬。」
あたしはあまりに至近距離にあるそれを手に取る。彼はまだ病み上がりだろ、と笑っている。
風邪、か。
「…ありがと。」
そう言うと、彼はあたしの隣に並んで川の向こうを眺める。向かい岸では小さな子供が犬の散歩をしている。
あたしも彼と同じように向こう岸を眺めた。
「ごめんな。俺のせいで。」
彼は急にこちらに向き直って、困ったような顔をした。あたしは思わず勢いよく首を振る。
「う、ううん。あたしが勝手に待ってただけだから。逆に迷惑かけたみたい…。」
あたしは握っていたハンカチを彼に差し出す。彼はそれを見て、ああ、と呟いた。
「ありがとね。家まで運んでくれたのも、隆二なんでしょ?」
あたしがそう聞くと、彼はまた川の方を眺めて、あぁ、と呟く。それっきり口を閉ざした彼を、あたしはちらりと横目で見る。
いつもの明るい彼より、今日は幾分落ち着いているようだった。何かあったのだろうか。
あたしの怪訝な様子に気付いたのか、彼はパッといつもの表情で
「それにしても驚いたよ。柚亜がびしょ濡れで立ってたことにもだけど、いきなりぶっ倒れるんだから。」
と笑う。あたしはその笑顔に幾分安堵する。先刻の表情は思い違いだろうか。
「最初はお化けかと思った。」
そう意地悪く笑うので、あたしは頬を膨らませて、
「失礼な!悪かったわね、びっくりさせて。」
と同じように笑った。
先刻までの不安は、いつの間にか全て払拭されている。彼にはあたしが考えるような暗い雰囲気を変えてくれる不思議な力がある。
それが彼の長所であり、魅力だった。
何も心配することなんかない。いつも通りでいいんだ。
あたしは彼にもらった風邪薬をスカートのポケットにしまい、くるりと踵を返して土手の草原へと歩く。
「でも、隆二に家まで運んでもらうとは思わなかったなあ。あんまり覚えてないんだけど、重かったでしょ。」
あたしは土手にあがると昨日の雨でも草露で濡れていない部分を探す。彼から返事はなかったが、あたしは構わず続けた。
「あたし、びしょ濡れだったから隆二も濡れちゃったんじゃない?ごめんね。」
足の短い草が生えた適当な場所があった。ここなら座って話が出来る。そう思い、彼の方を振り向く。
「隆二こそ風邪ひいたり……。」
そこまで言って、あたしは口を噤んだ。
―――――真っ直ぐに、射貫くような瞳。
それは、あたしが彼に会った時から、時折感じる眼差しだった。いつも屈託なく笑う彼が、たまに見せる真剣な目。
彼はあたしに似ている。そう感じたのも、彼がこの瞳を持っていたから。何もかも見透かすようなそれは、Dollとしてのあたしが
使命としてこの世界を眺める時とよく似ている。そして、その瞳には今あたしが映っている。
「隆……。」
開きかけた口は隆二の言葉によって遮られる。
「俺が昨日言ったことも覚えてない?」
隆二の目が一瞬不安げに揺れる。あたしは返事をすることも忘れて、目の前で揺れる瞳を見つめ返した。嘘はつけない。
そう思った。
「…覚えてるよ。」
あたしが小さな声でそう言うと、彼は
「そっか。」
と呟いてその場に立ち止まったまま黙ってしまう。
「…うん。」
あたしは少し遅れてそう言ったが、彼は口をつぐんだままだ。何か、言わなければ。
そう思ったが、あたしが言うべきことは決まっていた。
彼の昨日の言葉をもう一度聞きたい。
「でも、」
あたしは彼に一歩近づく。それを見て、彼は立ち止まっていた歩を進め、あたしの傍でまた止まった。いつもの距離だ。
「もう一回言って?」
ひどく痛む胸を堪えながら、やっとそれだけ呟く。いつもの距離。なのに、今日はぐっと近く感じる距離。
「好きだよ。」
彼がそう言ってすぐ、いつもの屈託ない笑みを浮かべるので、あたしは何の迷いもなく返事をした。
「あたしも。」
「恋は盲目、と言う言葉を知っているかい?」
博士はキッチンで大きなレタスを手にそう言う。
リビングのあたしから見えるその姿はひどく間抜けなのだが、彼はそんなことに構わず、とても恍惚とした表情をしている。
「……博士。」
あたしがちらりと彼に目をやると、彼はいつになく怪しい笑顔を浮かべる。
笑い慣れていないくせに笑顔なんて作るものだからひどく不気味だ。
博士はあたしの呆れ混じりの目線に、
「はは。すまん、すまん。」
とまたサラダ作りに集中する。失敗しようにもその方が難しいサラダは、最近の彼のお気に入りのメニューだ。
あたしは彼の背中に一つため息をついてから、また広げていた雑誌に意識を移した。
それにしても、何も言わないうちから何故分かってしまったのだろう。
あたしがいつもの土手で隆二と別れ、帰ってきてから数時間もしないうちに、博士はずっとこの調子だ。顔に出ていたのだろうか。
それはそれで恰好が悪すぎるが。
あたしはソファから立ち上がり、彼に近づいていく。
「博士。」
彼はちょうどサラダにのせるトマトを切っていたところらしく、あたしの声と同時にまな板の上のトマトがぐしゃりと潰れた。
「あ。」
そう声を上げた彼は、慌ててそのトマトを後ろ手で隠し、こちらを振り返る。
「…もう見ちゃったよ。」
あたしが博士の後ろを指差すと、彼はそれを後ろ手でざっと流しに落とした。
「そ、そうか。それで?私が何だい?」
そう言う彼に、あたしは少し小さな声で尋ねる。
「何で…わかったの?」
「君と隆二君のことかい?」
すぐ様返ってきた彼の名前に、あたしは思わず目線を逸らした。
「そ、そう…。」
「それだよ。」
「へ?」
あたしがぱっと彼に目線を戻すと、彼の指先があたしに向いている。首を傾げるあたしに、彼は少し笑って言った。
「帰ってきてから、君は私と目を合わせないだろう?君が隆二君の話をする時は、今までも何度かそうされたからね。」
彼は少し誇らしげに胸を反る。知らなかった…あたしにそんな癖があるなんて。
「そ、そうなんだ。」
「そうさ。」
「そう。」
「あぁ。」
あたし達がそんな会話を交わしたあと、あたしは黙ったままリビングへと戻った。
しばらくして、キッチンからジュッと水気の飛ぶ音がする。
あたしは先刻読んでいた雑誌をなんとなく開くが、すぐにまたパタリと閉じてしまった。
「それで?」
ふいに背にかけられた言葉に、あたしは振り返る。博士は炒めものを作る手は止めずにこう言った。
「詳しく教えてくれないのかい?」
「博士!!」
あたしが慌ててそう叫ぶと、しばらくして彼の笑い声が珍しく研究室に木霊した。
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