創作小説
DOLL
5st 言えない言葉
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恋をした時、あたしはあたしのままでいられるのだろうか。この研究所で初めて博士と出会った時、あたしはそう思った。
きっと、恋はあたしを変えるのだと。
それは『へんか』じゃなくて『へんげ』のようなもので、あたしは恋と言う、生き物でないあたしが持つには重過ぎる負荷を抱え
るものなのだと思っていた。否、それは間違っていなかった。ただ、『へんげ』ではなく『へんか』であって、恋という感情は
あたしを確実により良いあたしに変えていった。
あたしも隆二も、あの日から何かが変わった訳じゃない。
ただいつも通りにあの土手で彼に会い、とりとめのない話で笑って、彼の意地悪に怒って、それを繰り返してはまた日が落ちる
前に、あの夕日を背にして別れるだけ。それでも、それはとても幸福な時間で、あたしの日々にそれ以上の時間など決して
なかった。博士は八割は研究が順調に進んでいることを喜んでいるようだったが、あたしが隆二の話を出す度にしっかりと受け
答えをしてくれるのが嬉しくて、あたしは親子ってこんなものかな、などと思いながら、日々の些細な出来事も彼に打ち明ける
ようになっていった。
「行ってきます。」
そう言って、今日も博士の上達しない昼食を食べ、土手へ向かう。博士はほとんど一日中、何も言わずに機械や工具を弄っている
が、あたしが出掛ける時だけ、
「気をつけて、暗くなるまでに帰りなさい。」
とそう言うのだった。
あたしはいつもの場所で腰を降ろす。相変わらず辺りに人はほとんどおらず静かだったが、梅雨の時期を過ぎたばかりだからか、
ほんのり肌に張り付く暑さに幾分湿気が交じっており、あまり心地よいとは言えなかった。
何度か土手道を自転車が走り抜ける、ガリガリと石を掻く音以外は、
川の水音だけが時を刻む。研究室も静かだが、ここはもっと温かい時間が流れる。
それはあたしがここに来る目的にも当然由来した。
あたしは側の草を指で摘んでは抜く、を繰り返し、隆二の帰りを待っていた。
「あ、自然破壊。」
そんな声が聞こえて、あたしは笑いながら振り向いた。
「奉仕作業。」
そう言うと彼は首を振りながら、あたしの座っている場所を指差して、
「柚亜の下敷きになってる奴らが可哀相だなって。」
そう言ってあたしの横に腰を降ろす。
「失礼ね。」
むっとしてそう言うと、彼はまたブスになるぞ、と笑う。
あたしは彼の減らず口に諦めて、その場に寝転がった。また服が汚れる、とか自然破壊だ、とか言われるのかと思ったが、
「何、その鎖。」
ふいに彼があたしの胸元を指差す。あたしも不思議に思って自分の胸元に視線を落とした。
すっかり忘れていたが、博士にもらったネームプレートが寝転がったあたしの首元から覗いていた。
「あ、これ?」
あたしはそれを外し、彼に手渡す。
「ネックレス?」
「みたいなもの。名前と住所が彫ってあるの。」
「へぇ。」
知らなかった、と隆二はもの珍しそうにその銀の表面を指でなぞっていく。
英字で刻まれたそれは、日の光を反射して、彼の指の間で何度も輝く。
「は…お父さんが持ってろってうるさくて。」
博士、と言いそうになったのを飲み込み、笑ってごまかした。
彼はそんなあたしを気にするまでもなくそれをあたしに手渡しながら、
「箱入り娘って奴か。」
と呟く。あたしは聞きなれない言葉に首を傾げた。
「箱入り…?」
隆二がそんなあたしに知らないのか、と同じく首を傾げたので、あたしは慌てて首を振った。知らないと言えばやはり変だろうか。
そう思って必死で頭を働かせる。
箱、箱、箱………あぁ、博士の研究室のこと。
「うん、そうね。」
思いついた考えを信じて頷くと、彼が微かに笑ったので、どうやら当たっていたらしい。
「大事にされてんだな。」
彼は笑ってそう言うと、川原の方に目をやった。あたしは彼の言葉にはたと戸惑う。
「…。」
『大事にされている』。
果たしてそうだろうか。ご飯は相変わらず美味しくないし、研究室の中は散らかったままだ。
それが博士の不可抗力によるものだとしても、博士のあたしを見る目が研究対象を見る目であることには変わりない。
初めて出会った時のような冷酷な棘は彼から感じなくなりつつあるものの、それは時間の経過による慣れがあたしにそう感じさせ
ているだけで、彼の目に映るあたしは何ら変わっていないようにも思える。打ち解けたと言えばそうだが、それが大事にされてい
ると言うことなのだろうか。
「柚亜?」
黙り込んでしまったあたしに、隆二は顔を覗き込むようにして問う。あたしは咄嗟に頭を振って笑った。
「あ、ううん。何でもない。」
そう言うと、彼は然程気にも止めず、草原に後ろ手をついて話し始めた。
「実はさ、俺の兄貴が今度婚約するんだけど、その彼女も箱入り娘でさ。結婚のこととか、すごく反対されたって。」
そう言って、彼は空を仰ぐようにして背筋を伸ばした。あたしは空に向かって目を瞑った彼の睫毛の流れをじっと見つめた。
「婚約?」
「あぁ。まだ大学生なんだけどさ。大学出たら結婚するんだって。」
彼はまだ目を瞑ったままだ。今日は時折吹いてくる風が心地いいので、それを肌で感じているようだった。
あたしは彼の話を聞きながら、また呟く。
「結婚…。」
それくらいは理解できる。テレビや雑誌に目を通すまでもなく、きっと素敵なものなのだと。彼はあたしの呟きに構わず続ける。
「でもその人綺麗な人だからさ、重大さに事欠いて、兄貴の奴、ウェディングドレスとか似合いそうだ、
なんて今から浮かれちゃって。」
そう言って、彼は目を瞑ったまま可笑しそうに笑った。何処となく幸せそうに。彼越しに射す西日は、彼の睫毛の先でくるくると
色を変えて光っている。あたしは川原へ目をやって、
「結婚か。」
と再度呟いた。彼は柚亜も女の子だもんな、と笑う。その言葉の意味はよく解らなかった。
結婚は、人間の女の子には特別なものなのだろうか。
あたしは一人で納得して笑う彼をもう一度見やる。彼は草原に寝転んでいたが、まだ、目を瞑ったまま。それが妙に寂しかった。
「そっか。」
あたしはそのまま眠ってしまいそうな彼の横顔を眺めながら、意味もなくそう呟いた。
「博士。ウェディングドレスって知ってる?」
研究室に帰ってすぐ、夕飯の準備をしている博士の背中に、何気なく聞いてみる。
あたしは博士がDollの外形を創る参考として買ってきた山ほどの女性雑誌を並べながら、その1つ、1つに目を通していた。
以前一通り目を通したものだったが、何故か今は最も興味深い資料に思える。
「そりゃあ、知っているさ。結婚式に着るものだ。」
それは知ってるよ、と反論したかったが、博士が苦手な玉ねぎを片手に至極真面目な顔でそう言うので黙っておいた。今日はカレーかシチューだろうか。
「そんなことは知ってるの。結婚するって、どういう気持ち?嬉しい?」
あたしは昼間見た、隆二の横顔を思い出していた。
あたしは床に敷き詰めた雑誌の中から、一冊のドレスカタログを見つけた。表紙にはウェディングドレスを着た綺麗なモデルが
ブーケを抱えて微笑んでいる。モデルなのに、他のどんな服よりもその純白を纏うだけで幸せそうに見える彼女達。
下には大きくブライダル特集と書いてあった。あたしはパラパラと適当にページをめくってみる。
博士はにんじんに取り掛かろうと伸ばした手を止めて、少し唸って悩んでいたが、
「どんな気持ちって…私はまだ独身だからなぁ。」
すぐにそう言って、意識を料理に戻してしまった。
何枚かページをめくると、後半のページに素人結婚式レポートと大きく書かれた見出しをみつけた。
洋館のようなチャペルの前で、新郎新婦が笑っている写真、教会の前でのブーケトス、指輪の交換、誓いのキス。
何も知らなくたって、この写真を見ただけでわかる。
「結婚っていいものなんだね。」
結婚は、好きな人とずっと一緒に居られること。こんなに幸せな絵は、見たことがない。
モデルの笑顔よりも、ずっと綺麗で、温かい。
「………。」
「博士?」
返事が返ってこないことを不思議に思い、博士の方をふり返る。
「あ、いや。野菜を切るのに集中していてね…。」
他人の幸せに浸るあたしとは正反対に、博士はゴロゴロと切っては転がるにんじんの欠片を集めながら、そう苦笑する。
少し不機嫌そうでもあったが、あたしはそんな彼を気にも止めず、もう一度念を押した。
「ね、博士。そう思うでしょ?」
と。すると、暫くして彼はすぐにいつもの呆れた声で、
「それは私への当てつけかい?」
と目を細めて笑った。
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