創作小説
DOLL
A
次の日、いつものように夕方近くになって研究室を出ようとしたところで、ふいに博士に引きとめられる。
「柚亜。」
「何?」
あたしは靴を履きながら彼をふり返った。その先にあった博士の目を見て、彼が『柚亜』に話しかけているのではないことを悟る。
「まだ、他の世界を見ることはしないのかい?」
「…。」
あたしは言葉に詰まった。彼は『隆二以外の世界へ』と言っているのだ。
「君のおかげで、Dollの基軸となる恋をすると言う機能や、人間と深く関係を持つことに関するデータは着実に現実味を帯びて
きている。しかし――――」
「たった一人の人間を相手にしたデータじゃ不十分?」
あたしが彼の言葉の続きを先に述べる。彼はあたしの言葉を聞いて一つため息をついた。その仕草に、胸の奥が少し痛む。
「人間の世界と言うのはね、彼…隆二君のように君が信用できる人間ばかりじゃないんだ。」
「それは、あたしに危険な目に合えって言ってるの…?」
「そんなことは言っていないさ。唯、私の造ったDollがきちんと社会の善し悪しに対応出来るのかどうかを知りたいんだ。」
「同じことじゃない。」
「違う。綺麗な場所ばかりで生きるのが人間ではないってことだ。」
互いの言葉に覆い被さるようにして会話が続く。あたしは向き直った彼を見つめたまま、後ろ手でそっと扉を開けた。
「あたしは、汚い世界は知りたくない。」
それだけ言うと、あたしは研究室を飛び出した。
汚い世界は知りたくない。今のままで、あたしは十分汚い。そんな紛い物のあたしを唯一浄化してくれるのは隆二だけだ。
もしあたしがこれ以上汚れるようなことがあったなら、
彼にどんな顔をして会えばいいのだろう。
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