創作小説

DOLL

B あたしは仕事をこなす博士の後ろで、帰ってから今までずっと一つの機会と睨めっこを続けていた。 「何してるんだい?」 気付くとすぐ後ろに博士が立っていた。あたしはひらりと彼を一瞥し、すぐに自分の 腹部に視線を戻す。セーターをめくりあげた下に見える脇腹に、小さく彫られた文字。『RD712GZ』。 「…これか。」 あたしはその文字にそっと指の腹を這わせ、順に英字だけを押していく。 「柚亜。」 博士があたしの行為に声を上げると同時に、あたしの脇腹の表面が製品番号を四角く囲うようにしてパカンと開く。 体の蓋を開けたようなものだ。 「プログラミング」 あたしは自分の開いた腹部を見ながら言う。 「プログラミング?」 博士は驚いたように聞き返す。あたしはその様子に触れることなく自分の開いたお腹の奥にある細いコードをガラスケースの横の パソコンに繋いだ。起動されたパソコンはすぐに画面が切り替わり、複雑な英数字の羅列した画面の次に、打ち込み式の小さな ボックス画面が開いた。 「出来るんでしょ?あたし。」 それを見てから漸くあたしは後ろに立つ博士をふり返る。 「出来るが…どうしてそれを?」 「これ。」 そう言ってあたしが顔の横に掲げたのは、先刻博士のワークデスクの下に落ちていたRD712GZの操作方法とその説明書。 自分の説明書など、もちろん気分のいいものではなかったが、使わない手はないとこっそり中を確認したばかりだった。 「落ちてたの見ちゃった。」 そう悪戯っぽく笑うと、博士は呆れたと言うようにため息をついた。 「…まったく。それで、何を記憶させるつもりだい?」 「んー…約束。」 あたしはまたパソコンの画面に向き直る。実際に触れるのは初めてだが、どうやらパソコンの操作方法もプログラミングされて いるらしい。あたしは単調なペースでその白いボックスの中に文字を打ち込む。 「約束?」 博士は不思議そうにあたしの打ち込む文字を目で追っていた。 「そう。忘れちゃいけない大事な約束。」 ≪毎日必ず隆二に会う。≫ 打ち込んだ言葉はたったそれだけ。 それだけを打ち込み、右下の登録ボタンをクリックするだけだ、と手元の説明書には書いてある。 どうやら、初めて経験することについては複雑な記号羅列と内容のインプットが必要らしいが、Dollが一度経験済みの行動や感情 については、本人の脳内で理解出来る程度の説明でいいらしい。こんな子供騙しのような行為で本当に大丈夫なのだろうかと 考えたが、あたしの肩越しに画面を見つめている博士が何も言わないのを見ると、どうやら間違ってはいないらしい。 全ての画面を閉じ、パソコンの電源を落とす。抜き取ったコードを元通り自分の脇腹の中に納めると、自動的に開いていた部分が 閉じ、切れ目もすっかりわからなくなった。 「…上手に出来てるのね。」 そう言うと、博士はあたしの言葉には答えず、口の端を上げて笑った。 「彼は幸せ者だね。」 そんな冷かしを口にしながら。 好きと言う気持ちを明確に感じれば感じる程、彼を待つ一人の時間は長くなる。 このままずっと一人なのではと思い始めた頃、時を図ったように彼があの屈託ない笑顔を浮かべて現れる。 枯れた地に与えられた水のように、言葉通りの温かさが、それだけで心に染みるのだ。 それからあたしは、毎日同じ時刻に、あの土手の同じ場所へ通った。 彼は言った通り必ず同じ場所を通り、必ず一度土手に下りて、あたしの横に腰を下ろす。 話すことは他愛ないことばかりなのに、話す内容は尽きず、彼はあたしの知らない世界をたくさん教えてくれた。 「猫だ。」 いつものように、並んで座る。ぐっと腕を伸ばした彼は、至極気持ちよさそうに目を細める。 そんな彼を見て一言こう言うと、背筋の伸び切った彼はぽかんと口を開けたままこちらを見た。 「俺?」 「ん。」 彼はすぐに頷くあたしを見て眉を寄せる。まあ、と呟き、 「お前程じゃないけどな。」 と笑いながら、その場に寝転んだ。 「あたし、猫じゃないよ。」 彼の言葉に笑ってそう言うと、彼はいつものように呆れた顔で 「わかってるよ。ってか、俺だって猫じゃねーよ。」 と息を吐く。あたしは小さく膝を折って、川原の向こう岸を眺めた。 「猫みたいだよ。よく寝てるじゃん。」 「そうか?」 「疲れてるの?また野球?」 「いや。ここに来るとのんびりするからさ。」 そんな会話をしながら、いつの間にか目を瞑っている彼を横目で確認し、あたしも正面を向いたまま静かに目を閉じた。 川の音に混じり、ほんの僅かに道を走る車の音が聞こえない訳ではないが、のんびりする、と言った彼の言葉通りだ。 「静かだよね。」 小さくそう呟く。まるで、ここに居るのがあたしと隆二だけのようで。 と、暫くして彼が口を開く。 「柚亜がいるとうるさいけどな。」 その言葉にぱっと彼を振り返ると、やはりいつの間にか目を開けて笑っていた。 「何よー。」 あたしが彼の伸びきっていた足元を叩くと、彼はひょいとその手を避けて立ち上がる。本当に猫のようだ。 「もう行くの?」 「あぁ。そろそろ帰らないと。」 そう言って、脇に降ろしていた鞄を肩にかけ直す。あたしも地についていたスカートの土を払って立ち上がる。 「明日も来る?」 「あぁ、言っただろ、」 「毎日通る、でしょ?」 そう悪戯に笑うと、彼は一度驚いた顔をし、すぐに口の端を上げて苦笑した。あたしは彼に先立って土手を登る。 ふと顔を上げると、いつの間にか大きな夕日が沈みかけている。夜が近い。 後に続いていた彼は同じように土手を登りきると、あ、と思い出したように声を上げた。 「でも、天気予報だと明日は雨らしいから――――」 「あ、ごめん。あたしもう帰らないと。」 あたしは彼の声を遮るようにして慌てて手を振り、そう言った。 「あ?…あぁ、それじゃ。」 彼も反射的に顔の横で手を挙げる。あたしはそれを確認してから踵を返した。 急がないと。 そればかりで彼の言葉を聞き逃していたけれど。


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