創作小説

DOLL

6st    博士の秘密 @ 既に夕日さえ山の端に隠れている。日が落ちるまであと少しと言うところだろう。 「早く帰らないと博士に怒られるなあ。」 そう思いながらも、頭の片隅を行き来する言葉。 『あいしてる。』 その言葉の意味は知らなかったけれど、 『絶対好きだって時だけ言うんだ。』 走りながら自然と緩む頬に、自分で照れては顔を引き締める。今はそんな余韻に浸るのは後回しだ。 歩を速めながら頭を過る先刻の記憶を押しやって、あたしはそう遠くない研究所まで小走りで帰る。 時間厳守は博士との絶対の約束だ。門限を少々過ぎたからと言って、いきなりスクラップにされることはないだろうが、 博士に見え隠れする冷酷な部分は侮れない為、あたしの足も気づくと自然と駆け出していた。土手道を抜け、鉄橋に差し掛かると、 研究所はもう目と鼻の先だ。あたしは息を切らしつつも、その姿を目に留めて少々安堵した。何とか間に合いそうだ。 だんだんと暗くなる空に追われながら、あたしは朝の博士の言葉を思い出していた。 『綺麗な場所ばかりで生きるのが人間ではない』 当たり前じゃない。あたしは人間なんかじゃないもの。 最近になって、博士はまた陰を背負うような話し方をするようになった。 『柚亜』に対しての普段の会話はいつもと変わらないが、『RD712GZ』に対しては、また少し厳しくなった。まるで、彼に初めて嫌悪感を抱いたあの日のように。 (やっぱり、あと少し…だからかな。) あたしの猶予期間の終わりはすぐそこまで迫っていた。もう1ヶ月を切るというところだ。彼の中で、まだDollの完成型を見い出せていないのだろう。 今のところ、あたしに重大な欠陥は見つかっていない。このまま彼の中であたしを軸としたDollを完成型と確定する踏ん切りが付けば、彼の研究もすんなり成功となる。 しかし、もし彼のその決断の後で、あたしに欠陥が見つかったとしたら、彼の研究は失敗というだけでは済まない。 まして、学会で発表などした後だったとしたら、彼の研究家としての生命も同じく断たれる。彼の焦る気持ちも分からなくはなかった。あたしだって同じことだ。 このまま何事もなく猶予期間を終えなければ、RD712GZとしてのあたしは用無しだ。 あたしは先刻の隆二の屈託ない笑顔を思い出すと、胸の奥で鉛が落ちるような音を聞いた。RD712GZとして隆二に向き合うこと。 それは、彼を研究上のサンプルとして利用し、どんな手を使ってでも猶予期間の間、彼をあたしの恋人として繋ぎ止め、より多くの経験をすること。 しかし、それは柚亜として隆二と向き合うこととは違っていた。 普通の恋がしたい。 博士や、研究のことなんて忘れて、もし… (もし、あたしが人間だったなら。) 最近になって、そう考えることが多くなった。また同時に、こうも考えるのだ。 (100日を終えたら…。) あたしが二宮博士の試作品でなくなったなら、その先のあたしはどうなるのだろう、と。 気づくと研究所の前の細道を歩いていた。研究所の扉の前に立ち、早く中に入らなければと思う反面、研究のことを考えていた せいか、どんな顔をして彼に会えばいいのか分からなかった。きっと、今のあたしは酷く嫌な顔をしているに決まっている。 勘のいい博士なら、あたしが何を考えていたのかなど、すぐに当ててしまうだろう。 あたしはドアノブに伸ばしかけた手を引っ込め、気持ちが落ち着くまで研究所の周りを歩くことにした。今日は色々あったせいで、 ひどく頭が疲れている。 そう言えば、研究所の裏側はどうなっているのだろう、とふと思い、散歩のつもりで大きな研究所の周りをくるりと一周すること にした。辺りが暗いせいもあって、日の当たらない研究所の裏はますます暗い。今まで気づかなかったが、 研究所の裏手には小さな林が茂っていて、剪定などされたことがないであろう何本もの背の低い木々が鬱蒼としていた。 「酷い所…。これ、庭って言うのかな。」 研究所の屋根に覆いかぶさるようにして生えている木々は、あたしの行く手を邪魔する。到底裏手から一周することなど出来そう にない。まして、しばらく人が踏み入った様子もないようだった。博士の研究所内よりもさらに荒れている。 あたしが諦めて中に帰ろうと引き返しかけた時、林の奥に小さな建物が見えた。 よく見ると、あたしのすぐ足元から、そこだけ足の短くなっている草の生えた場所がある。何度か人が通って道のようになって いるのだ。 あたしはその林の鬱蒼さに一瞬戸惑ったが、まだ研究所内に戻るのも躊躇われた為、その建物に近づいてみることにした。 「こんな所に、小屋なんてあったんだ。」 横から伸びている草をかき分けたどり着いたその場所にはぽっかりと草のない開けた空間があった。先刻の建物もそこにある。 それは、プレハブの古ぼけたような小屋だった。小屋というには少し大きく、造りも古い割にはしっかりと頑丈に造られている。 研究室より一回り小さい程度だ。見ると、白い戸のところには大きな鉄の錠がかかっていて、何だかこの場に似合わず厳重だった。 「何が入ってるんだろ。」 重そうな扉だったが、またどうせ、博士の集めたくだらないガラクタが入っているのだろう、とあたしはくすりと笑ってから、 その鉄の錠に手をかけた。 「―――――っ!!」 ―――――ほんの一瞬だった。 真っ黒としか言いようのない気の塊。肉塊のように生々しく、朽ちた物の寄せ集めのような陰の気配。 あたしは鉄の錠から流れ込んできた不穏な空気に、思わず後退った。 「……何?」 少し距離を取ったにも関わらず、大きな黒い空気の塊が、あたしの体を押しつぶすように包み込んでいる。 誰かの手が伸びるように、それはあたしの背筋をすっと撫でて遠ざかった。 「…怖い。」 あたしは気味が悪くなって、急いでその場から立ち去った。元来た道を、肌に触れる草木を振り払いながら走り抜ける。 ふと、走り逃げる途中、あたしの頬に覚えのない涙が伝っているのに気付いたが、あたしはそれに構わず、ただ走り続けた。 勢いよく飛び込んだ研究所の扉の前で、博士は少し困ったような顔をして言った。 「やっとご帰宅かね。君は優秀だが、案外問題児でもあるみたいだね。」 そう苦笑して、息を切らすあたしを席へと促した。 既に夕食のプレートがテーブルに並んでいて、彼があたしを待っていたことが窺えた。 「ご、ごめんなさい。」 呼吸を整えながらそう言うと、彼は 「遅れたと思って走ってきたのかい?まあ、その努力に免じて今日は許すがね。」 と意地悪く笑う。あたしが研究所の裏手に周っていたことは気づいていないようだった。 あたしは怒られると思っていたことが覆され、あっさりと迎え入れられたことに拍子抜けし、先刻の出来事を忘れかけていた。 とにかく促されるまま席について、混乱した頭を抱えたままその日の食事を済ませた。 夕食を済ませ、身体は一段落ついていたが、頭の中はいろいろな考えが巡って今にもパンクしそうだった。 今、頭から離れないのはただ一つ、先刻の光景だった。確かにあの時、あたしの背を撫でた空気は酷く嫌なものだった。 人間の世界で感じたことのない、負の空気。それに、あたしの身体が激しく反応していたことも気にかかる。 「ねえ、博士。」 あたしが思い切って問いかけると、遠くの方で博士から返事が返ってきた。 「ん?なんだね。」 博士は埃が煙のように沸き立つ道具箱の中に顔ごと突っ込んで、何やら探し物をしている。 あたしはそんな彼の様子を眺め、飽きれたため息を1つ吐く。ボルトが1つ足りない、などとぼやきながら、 博士は狭い研究室の中を何往復もしている。 あたしはソファに腰かけながら、忙しない博士の背中を一時眺めた。 頭のどこかで触れないほうが良いと警告のような勘が働いていたが、あたしはどうしても先刻見たあのプレハブの中身が 気になって仕方なかった。 唯の倉庫でないことは、あの場所の雰囲気から明らかだった。もし博士を問い詰めてその答えが聞けたならそれで良し。 もしその逆だったなら――――― あたしは努めて何気なく、動揺を悟られないようにしてそれを聞いた。 「あのね。」 微かに声が震えている。そんなあたしの声に、彼はこちらに背を向けたままだったが、手の動きはぴたりと止んだ。 「研究室の裏の小屋には、何が入ってるの?」 ほんの一言、極力自然に発した。きっとあの時感じたあの大きな感情の塊は、気のせいに違いない。 そんな考えが自分に言い聞かせるように働いていたから、博士のその後の態度に、 あたしは心の底で何か自分の核心に触れたのだと悟った。 「あれには近づくなっ!!」 勢いよく振り返った博士は真っ青な顔をして、こちらを睨んでいた。驚いて、声が出なかった。 「…は、かせ…?」 彼の気迫に、ぐっと喉が鳴る。あたしが恐る恐るそう呟くと、彼は血相を変えたその一瞬を誤魔化すように、 すぐにはっと我に返り、 「私のガラクタがね、詰まってるんだよ。大事なガラクタがね。」 そうにっこり笑って、また道具箱の中をごそごそとかき回し始めたが、 あたしはそう言った博士の笑顔が引きつるように歪んでいたのを見逃さなかった。 「うん…分かった。」 それだけ言って、あたしは博士との間の気まずい空気をかき消すように徐にテレビのスイッチを入れた。 小さな箱の中では、人気のあるコメディアンが何か面白いことを言ったらしい。 研究室の中には大きな笑い声が流れたが、あたしはとてもそれに同調するような気分ではなかった。 今まで見せたことのない、彼の動揺した姿。 咄嗟にサーチした彼の心拍数や脈拍も、酷く荒れている。あたしはぐっと掌を握った。 1つ、分かったことがある。 あたしは、あそこを開けてはいけない。何かが隠されているから。


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