創作小説
DOLL
2st 人間の世界
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初めて浴びる光は、目が眩む程眩しい。
まるで殻を破ったばかりの雛鳥の気分だったが、あたしには生まれたばかりの体を外敵から守ってくれる親鳥は居ない。
研究室を出たのはいいものの、どちらに言って、どのように歩けばいいかもわからない。
まして、いくらインプットされているからとは言え、研究室への帰り道を確認せずには歩けない。
すぐ傍を通っているのだろう、大通りを走る何台もの車の音、遠くを歩く博士以外の人間、外の世界の喧騒。
「どうしよう。」
その一言に尽きた。人間の多く居る場所はここから少し離れた場所にあるらしい。『街』…と博士は言っていただろうか。
いきなりあの場所へ赴くことはひどく躊躇われる。
「はあ。」
小さく吐いた息はあたしを残してすぐに消えた。
とにかく、進まなくては始まらないと思い、あたしは研究室のすぐ前を伸びる道の先に見えた大きな橋を視界に捉えた。
赤い鉄骨が目立っており、あの橋の上からなら、この真四角の箱のような研究室は一目で見つけることが出来るだろう。
街からは離れているが、人がいない訳ではないだろう。あたしはあの橋を目指して歩いてみることにした。
橋の下を流れる水は遠目で見るよりもずっと澄んでいて、橋を渡りながらあたしは下ばかりを眺めていた。
橋を渡りきると、それほど広くはないが、足の切り揃えられた草が芝生のように小綺麗に植わっていて、その土手がずっと先の
夕日の下まで続いていた。あたしは橋の終わりに続くようにして伸びる土手道をしばらく歩く。
先刻の流れの緩やかな水が、この道に沿って流れていた。
その流れに沿って少し歩いてから、緩やかな坂を下って、土手に降りる。
平坦なそこは少し川に向かって歩けば、すぐに芝生から足場は悪いが白い河原石の光る川岸へと変わる。
「綺麗な場所。」
思わずそう呟く。居心地がいいのは場所柄だけでないようだ。ここが人気が少なく、穏やかな時間が流れている場所だと言うこと
にもある。すぐ側に大きな道が走っているにも関わらず、ここは別世界のように静かだ。
よく耳を済ませば、すぐ目の前を流れている水音も聞き分けられるほどだ。
あたしは立っていたその場所に腰を降ろした。草露がうっすらと地面を濡らしていたが、気にならなかった。
微かに髪を掠める風も心地よい。
初めて触れる自然か。
そんなことを、ふと頭の片隅で思った。ここには、何一つ不純な物はない。紛い物のあたしさえ、同化するようにこの場所に
居座ることが出来ている。いい場所を見つけたかもしれない。
あんな息の詰まる空間に何時間もいるなんて考えられない。何もないあの無機質な空間に、あのどこか冷たい博士と二人。まるで、光と影。
あの人も、この景色を綺麗だと愛でる心を持っているのだろうか。
考えても仕方のないことだった。どちらにしても、あたしはあの人と暮らして往き、あの人の研究の為にやらなければいけない
ことを山ほど抱えている。その内の、まだ一つも成し得ていないうちから、あたしが文句を言えた立場でもない。
明らかに、問題だけは山積みだ。頭だけはひどく傷んだままだ。あたしは頭を掠める不安を振り払うようにしてぐっと背筋を
伸ばし、そのままその場に倒れようと体を傾けた。
「止めとけよ。」
ふいにかかった声に、あたしは思わず倒しかけていた上体を起こす。
ぱっと声のした方を振り返ると、すぐ後ろの土手道の上に、人影がある。
「服、汚れる。」
そう言われてあたしの背が倒れるはずの地面に目をやると、茂った草の奥に、小さな泥水の溜まりができている。
「あ…。」
そう声を漏らすと、その人影はゆっくりとこちらに近づいてくる。その人の後ろから射す日の光のせいで顔はよく見えなかったが、
声から男の人であることはわかる。
博士以外の人間。
そう思うと、身体が強張って声が出なかった。
(どうしよう…。)
あたしがそう考えているうちに、その人は肩からかけていたかばんに無造作に手を入れ、
「これ。」
と言って取り出したものを投げて寄越した。
「わっ。」
思わず声をあげてそれを掴む。大きなスポーツタオルだった。
「寝たいのならそれ使いな。そのままだとその服汚れるだろ。」
そう言って、顔もよく見えないままその人影は踵を返して去っていく。あたしは目を細めながら、必死でその人を呼び止めた。
「え、あの…!」
あたしの声にその人は一度こちらをふり返って、
「返す気あるなら、またここに居ればいいよ。毎日通るから。」
そう言って、下って来た土手を足早に登り切ってしまう。あたしは急いで腰を上げたが、再度ふり返った時には自転車に跨った
その人が遠ざかっていく間際だった。
あたしは困惑したままそのタオルと、遠ざかっていく背を何度も見比べた。誰だったのだろう。お礼も言えなかった。
まして、この手に握らされたものをどうしたらいいのだろう。
『またここに居ればいい。』
確かにそう言っていたが、顔もわからないその人をどうやって待てばいいのだろう。
あたしは何も出来ないまま、結局渡されてしまった飾り気のないそのタオルを握り直す。
もちろんそれを使って悠長に眠ることも出来ず、あたしはその場に佇むしかなかった。
「おかえり。早かったね。」
仕方なくそのままの足で研究室まで戻ったあたしを、扉の随分近くで待っていた博士と視線がかち合う。
「た…だいま。」
咄嗟に身を引いてしまい、不自然に曖昧な返事を残すと、そのまま真っ直ぐにソファに向かう。
「随分疲れているようだが…。」
そう言って、博士は昨日あたしに珈琲を淹れてくれたカップに手を伸ばしたので、あたしはすぐに彼を止めた。
「いい、博士。ごめん、今日はもう寝てもいい?」
そう言いながら、あたしは彼の返事も待たずに自分のベッドへと歩き始める。
「あ、あぁ。」
驚いたようにそれだけ言う彼には申し訳ないが、酷く身体が疲れていた。
初めて外の世界へ出ることがこんなにも疲れるとは思わなかった。緊張と言うものだろうか。
「それは?」
博士はあたしの手元を指差す。
「あ…えっと。借りた。」
「借りた?」
「う…ん。」
とにかく今日の感想を聞きたそうにしている博士に
「また…話すから。」
と断って、あたしはそそくさと布団の中に潜りこんだ。
「柚亜、大丈夫かい?」
「うん、平気。」
彼に背を向けたままだったが、すぐにそう返事をした。
ただ、話をしただけなのに。
先刻出会った彼を思い出す。
顔も名前も知らないが、きっと優しい人なんだろう。あたしは渡されたタオルを握ったまま横になっている自分に、そこで初めて気づく。
博士とは対照的な人。
(明日、返そう。)
そう心の内でひっそりと考えながら、同時にあたしはそのまま深く眠った。
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