創作小説
DOLL
A
薄っすらと開けた瞼の向こうがまだ暗がりであることから、随分と早く目が覚めたことに気づく。
あたしはそっと布団を抜け出し、枕元に置かれたままのそれに触れる。綺麗に皺を伸ばし、胸に抱えた。
(人間。)
抱いた感情は出会った彼に、と言うより、『人間』と言う種に対する興味に近かった。
いくら存在の為に必要な知識がプログラミングされているからと言って、あたし自身には多くを知っている実感はない。
もっと多くを知りたい。
あたしの今後を左右するのがまた、人間であるのなら。
暫くして、博士がのっそりと布団を剥いだ。
「おはよう。」
起き様あたしを見つけてうっすらと微笑んだ彼に、あたしも同じ様な笑みを返した。
人間は、人形とは違う。異なる顔に、異なる中身を持つと言うのは本当らしい。人間を嫌いになるには、まだ早いかもしれない。
朝食を食べ終えてすぐ、あたしは研究室を飛び出した。
やはり、何度か後ろを振り返りながらだが、昨日よりもすんなりとこの場所へ来ることが出来た。
彼に出会ったのは今くらいの、丁度日が南に向かって上がりかけた時刻だったが、だからと言って彼がまたこの時刻にここを通る
かどうか何てわからない。
どちらにしても、研究室に居たってすることなどないのだ。彼か来るまで、文字通りここで眠っていた方がマシだろう。
そんな余裕を含んだ考えを持ちつつも、内心は情けない程怯んでいた。何せ、顔も知らない相手だ。どういう人間なのか、
ましてちゃんとその人だとわかる確証もない。
「無謀。」
頭に浮かんだ言葉を口にしてみる。その言葉の意味に、抱えていたタオルを危うく手放しかけた。
と、その時遠くからこちらに歩いてくる足音に気付く。些か迷って、サーチ機能から聞き覚えのある足音だと割り出した。
(あの人…?)
視界に入ると、その姿はよく捉えることができる。
短髪、黒髪。けれど目も鼻もくっきりとしていて、どこか恰好も昨日の人影を思わせる。
この人なのだろうか。
声をかけるか否か。何度か迷ったが、その人はどんどん自分の横を通り過ぎようと歩を進める。迷っていても仕方ない。
すれ違う寸前でそう心を決めた。
「あの…!」
そのまま通り過ぎようとする横顔に慌てて声をかける。思わず一歩踏み出すと、足元でかさりと草が足を擦る。
ぴたりと立ち止まって、こちらに向けられた顔は、暫く訝し気にこちらを見つめてから、思い出したように緩められた。
「あぁ、昨日の。」
やはり、この人だった。
あたしが坂のすぐ下まで駆けて行くと、その人は豪快に土手を滑り降りて、すぐ目の前に立った。
今度はあたしが驚いて、半歩下がる。
「これ…、ありがとう。」
握りしめていたタオルを勢いよく彼に突き出す。
「あぁ、いいよ。よく眠れた?」
彼はそれを受け取りながら、にっと悪戯気な笑顔を浮かべる。あたしは何と答えるべきか戸惑ったまま、
「あ、えっと。ううん。」
と素直に否定した。昨日は考えなければならないことが多すぎて、ただ横になって寝るつもりなど、初めからなかったのだし。
あたしがそう言ったのを聞いて、その人は声を上げて笑う。
「はは、面白いね。冗談なんだけど。」
そう破顔した彼を、あたしは茫然と眺めた。昨日と同じく『学生服』と言うものだろうか、黒く統一されたそれを纏い、
背丈も思った通り、あたしより少し高いくらい。
けれど、昨日見られなかったその笑顔は、目鼻立ちのはっきりしたその顔によく似合う、屈託ないものだ。
「俺もここに座って、何をするでもなく…ってやつ、案外好きなんだ。」
そう言って川の方へと投げられた彼の視線を追って、あたしもそちらを見る。滔々と流れる川は静かに時を刻んでいる。
「気、合うな。」
そう言って笑うと、彼は肩に下げていた鞄をもち直す。
「それじゃ。」
くしゃりと崩した笑顔をそのままに、それだけ言うと、彼はくるりと踵を返してしまう。
遠ざかろうとする彼の背中を眺めていたが、極自然に、離れていく後ろ姿に慌てて声をかけていた。
「あ、あの!」
「何?」
すぐに振り向いた彼に、一瞬言葉を詰まらせる。
もう用は済んだのに、何故か引き留めてしまった背中にかける言葉を、必死で探した。
「明日…。」
「え?」
「明日も、会える…?」
後で考えると酷く上擦った声だったかもしれない。
あたしの言葉に、彼は一瞬目を見開いたが、すぐにやんわりと頬を緩めて、こう言った。
「言っただろ。毎日通るって。」
あたしはそう言って、元来た道を進んで行く背中を暫く眺めていた。
笑顔の綺麗な人。
Dollである自分が美しく笑うことは当然だが、命の刻みのあるあの人は、遥かに綺麗に、人間らしく笑うことが出来る。
彼からならば、あたしの知らない人間の世界を知ることが出来るかもしれない。
「どうだった?」
研究室に戻って早速そう聞かれる。腰を降ろすまでもなくこちらに歩いてくる博士に、反射的に半歩下がった。それもそうだろう。
重要な初日の感想を蔑ろにしたばかりなのだ。
「うん、まあ…。」
そう曖昧に返事をし、すぐ側の川原にいたと告げると、博士は少し考え、あそこか、と一人言ちる。
「あそこは人通りが少ないだろう?街に出掛けてみたらどうだい?まあ、多少の危険は否めないが、でも――――」
「博士。」
部屋の中をゆっくり徘徊しながら一人の世界に入って行く彼の言葉を遮る。
「一つ、我が儘を聞いて欲しいの。」
あたしの言葉に一瞬躊躇していたが、彼は静かにあたしをソフアに促し、自分も向かい側に座った。
「何だい?」
そう先を促され、あたしは一度彼から視線を外して吐息した。
「あたし、街には行かないわ。」
なるべく静かにそう言い切った。
「Dollとしての機能も使わない。体温だとか、脈拍のサーチ機能も使わない。」
「柚亜…?」
博士の動きが止まった。
「ごめんなさい。ちゃんと自分の役目はわかってるの。でも…。」
こんなことを言えた立場じゃないことはわかっていた。けれど、この場所に立った時から感じていた蟠りを払拭したい。
「あたしはRD712GZじゃなく、柚亜として恋がしたい。」
あたしの声だけが静かに響く。
「博士の研究に必要なデータは残せるように努力します。だけど――――」
ふと、昼間のあの人を思い出す。真っ直ぐとした、曇りのない瞳。あんな人がこの世界に居るのなら、
「これ以上、嘘をつきたくない。」
あたしには、人間だと偽ることで精一杯だった。
そう言い切ったあたしに、博士は険しい顔のまま何も言わなかった。ただ、こちらを見つめたまま、視線を逸らさない。
だからあたしも同じようにするしかなかった。
「不思議だ…。」
沈黙を破ったのは彼の一言だった。
「え?」
「君程意思を持ったDollは初めてだ。」
あたしは何と答えていいのかわからない。
「さすが、と言うところか、それとも…。」
彼が言葉を切って、長く合わせたままだった視線をふいと外した。
「ただ、愚かなのか…?」
やはり、分かってもらえなかった。ただ、やむを得ず承諾しよう、と言うところだろうか。
あたしは彼の心ない言葉を受け、ほんの少しの憎悪を込めて答えた。
「あなたにも言えることですね。」
はっ、と笑った息は静かに冷え切った室内にたゆたう。あたしは彼から視線を決して外さなかった。
「…そうだな。」
そう彼が自嘲気味に呟いた。
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