創作小説
DOLL
3st プログラミング
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それからのあたしは、博士の『その気になったら街へ』の渋々の了解の元で、あの土手へと向かう日々を過ごしていた。
朝から日が落ちるまで、ずっと。時にはあの鉄橋の上で街の様子を眺めたり、街から帰ってくる人の群れとすれ違うこともある。
初めは隣を掠める他の人間の気配にひどく警戒していたものだったが、それもすぐに慣れた。
今日も、いつものように真っ直ぐあの土手へと向かう。あの人は、言葉通り毎日そこを通った。
彼と会うようになってから、彼がここを通るのは朝学校へ通う時と、夕方帰宅する時の二回だとわかった。
ほとんどが夕方にここで落ち合うことが多かったが、時には登校する彼を見送ることも少なくなかった。
「また来たの?」
あたしよりも先に草原に腰かけていたその人は、ひどく疲れた顔をしていた。
何かあったのかと不安になったが、ふと彼の大きく開いた鞄の中を覗くと、随分汚れたタオルと泥だらけのシューズ入れが見えた。
「駄目…?」
迷惑だっただろうか。
そう思って控え目に聞き返したあたしに気付き、彼はすぐに笑って
「いや、駄目じゃないけど。」
と言う。彼は、体育でちょっと疲れが溜まっていて、とバットを素振りする真似をする。気を使ってくれたようで、
あたしは野球か、と呟いて笑い返した。
「お前、学校とかないの?」
彼は自分の隣に腰を降ろしたあたしを見遣って言う。あたしは屈みかけた腰を宙に浮かせたまま、ふと動きを留める。
「お前じゃないよ、柚亜。二宮柚亜。」
「は?」
そのままの体制で強くそう言ってから、今度こそ腰を降ろした。
もう一週間はここで彼を眺めていたり、一言、二言を交わし合ったりしていたのに、まだ名前も知らなかった。
彼が『お前』と言った瞬間、気付いた。あたしにはちゃんと名前がある。『人間』としての。
「あたしの名前。」
不思議そうにこちらを見る彼にそう言うと、彼は思い当たったように
「あぁ、俺は上尾隆二。」
と言う。彼は、そう言えば自己紹介もまだだったか、と呟く。
何故か彼とは名前を知らずとも同じ時間を違和感なく共有出来ていた。
恐らく彼もそう感じてくれていたから、今まで互いのことがおざなりになっていたのだろう。
上尾隆二。
あたしはその名を忘れないように、改めてよろしく、と笑う彼の笑顔と共に何度も胸の中で反芻した。
あたしが黙りこんでそうしている内に、隣の彼はあたしを覗き込むようにして
「で、俺の質問は?」
と言う。あたしは急に至近距離で視界に映った彼に驚いたが、すぐに
「行ってないの。」
と答えた。そう答えてから、少しまずかっただろうかと考える。
あたしの歳なら、普通は学校と言うところに通って、勉強や運動をするものなのだと言うことは博士に教えられていた。
試作品であるからそうしていないだけだと言うことも。けれど、あたしは咄嗟のことに正直に答えてしまったのだ。
「行ってないのか?」
そう言われ、ただ小さく頷くしか出来なかった。
彼はそっか、と言ったきりそのことには触れなかったのであたしは少し安心したが、変に思われていないか些か心配だった。
「それじゃ、俺そろそろ行くわ。」
あたしの心配をよそに、彼は重い腰を上げた。
「あ、うん。それじゃ…――――」
そこまで言って躊躇したあたしの言葉を遮って、彼は笑いながら背を向けた。
「じゃあな、柚亜。」
と。
「やっぱり、まずかったかなあ。」
研究室に帰って早々、今日のことを博士に話してみた。あたしが思っている事態より深刻だったなら、と考えて。
「んー。まあ、いいだろう。」
博士は暫く考え込んだ後、世間には諸事情で学校に通っていない人間もいるがね、とそう言った。
「本当に?」
「ああ。君の話じゃ、その彼…。」
何って言ったかな、と聞かれ、
「その人、隆二って言うの。」
と答える。あたしも今日知ったばかりの名だ。
「そうか。その隆二君に私が考えているような心配は必要ないだろう。」
私の人を見る目は確かだよ、などと自信たっぷりにそう言う博士を見て、あたしは隠れてため息をつく。
どちらにしても、彼がそう言うなら信じてみるしかない。
「そっか。」
あたしはそう言いながら、またテレビの前に落ち着いた。いつもより研究室が騒がしいのは、あたしが野球の試合にチャンネル
を切り替えたままだったからだ。
ブラウン管の向こうが一際騒がしくなる。打たれたボールが大きく弧を描いて、勢いよく観衆の中に飛び込んだ。
「彼ね、本当にあたしに似ているの。なんだか、初対面じゃないみたいに。」
あたしはホームランを叫ぶテレビの声を聞きながら、昼間の彼を思い出していた。
彼は、あたしによく似ている。
あたしは彼のように心から綺麗に笑うことは出来ない。まして、生身の人間でもない。
それでも、彼のあの瞳の奥にちらつく強い意思は、自分の中にも同じように自覚していた。
博士はあたしの方を見つめたまま、ワークデスクの席を立った。デスクの上の珈琲を片手に、数歩こちらに近づく。
あたしも彼の気配を感じて振り返った。
博士がこくりと喉を鳴らして珈琲を飲む。
「君は、彼が好きなのかい?」
「え…?」
急に、喧しく耳に届いていた野球番組の音が小さく聞こえた。
――――好き?
博士はただ黙ってあたしの答えを待っていた。その真っ直ぐ見透かすような視線に、あたしはふと、博士が今見ているのは、
柚亜ではなく、RD712GZであることを悟った。
「…あたし、好きって気持ちがわからないの。」
嘘をついても仕方がない。そう思って、あたしは感じたままを言葉にした。
確かに、あたしは人を好きになることを目的として、そうなるようにプログラミングされているかもしれない。
けれど、そうなることと、そう感じることは違う。いつか、あたしの認識に関わらず、そう感じ始めることがあるかもしれない。
でも、
「今は…わからない。」
そう、まだ。
「すみません。」
あたしがそう言うと、博士は
「いや、いいんだ。焦らなくたって。」
そうはにかんで、珈琲を啜りながらまたワークデスクに戻って適当に書類に目を通す仕種をした。きっと、真似だけだろうが。
会話が途切れると、また煩くテレビの音が耳に響く。静かな室内に、食品CMの軽快な音楽が単調に流れた。
「すみません、か。」
あたしは博士に気付かれないよう、そう呟く。ごめん、と笑って言えるのは、あたしが『柚亜』である時だけだと実感した。
まだ、あたしは何も成せていない。
『上尾隆二』の名を聞いただけで素直に喜ぶことが出来るのも、あたしが柚亜として彼に接しているからだ。
まだ、何も得てはいない。
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