創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
「大丈夫か。」
傷に触らぬよう、ゆっくりと部屋のベッドにアランを下ろす。
「ん…。」
アランは弱々しく頷く。全身に出来た擦り傷にシーツが擦れて痛むのだろう。
何度か身を捩っては顔を顰め、剥ぎ取られた衣服の代わりに羽織らせた俺の上着を握って、小さく身を震わせた。
「痛くねぇか。」
生憎、怪我の治療に効くものなどこの部屋に常備しているはずもなく、
仕方なく俺はクローゼットから引き出してきた真新しいタオルでアランの身体から滲んだ血を拭き取った。
「ん。」
アランは大人しく身を委ねながら、また小さく頷く。
「暫く部屋から出るな。少なくとも、怪我が治るまではな。」
俺が千切った布で特に目に余る傷を覆いながら言うと、それまで口を閉じていたアランが零すように切り出した。
「いつもは…。」
「あ?」
「いつもは、こんなことにはならないんだ。いくら金になったって、ちゃんと客は選んでる。薬をやってようが悪い奴だろうが、
金持ってれば誰でもって訳じゃないんだ。」
それは悪さをした子供の言い訳のように後ろめたさが伴う。自業自得だとは言え、笑えない悪ふざけに巻き込まれたのは、
アラン自身だと言うのに。
「あぁ。」
俺は布を巻きながら短くそう言った。
「今日は…たまたま…。」
アランは俺の手元を見ながら、他のことは上の空のようにそればかり繰り返す。簡単な治療を終えて、包帯入れの蓋を閉めると、
アランが寂しげに眉を下げる。まるで眠る前の子供が閉じられた絵本を見た時のように。その様子が、酷く幼くて、
傍を離れる気を削がれてしまう。
「アラン。」
「何?」
「来るか?」
俺は向かいあっていたアランに手を伸ばす。アランはふいに困惑した顔で目を彷徨わせた後、俯いて申し訳なさそうに謝った。
「ロイ…ごめん。今日は俺…。」
大方、俺がいつもの処理に自分を求めていると思ったのだろう。馬鹿なのだ、この男は。純粋すぎる故に。性に奔放な癖に、
自身を性に酷使する。
「今日だけだ。」
「え?」
傷だらけのアランの腕を引く。軽い身体は思ったよりもあっさりと自分の腕に飛び込んできた。
「今日だけ、俺がお前を抱いてやる。」
それは、同情でも気まぐれでも何でもなく、ただ今はそうするべきだと言う直感に近い感情だった。
「ロイ…?」
アランが縋るような目で俺を見あげる。
「来い。」
そう言って抱きしめた腕に力を篭めると、抱いたことのない細い肩がきしりと鳴った。
「…っ…!」
アランの息を呑む音が聞こえる。
俺はアランの傷に触らないよう、そっと寝かせたシーツの上でその身体を抱きしめ直す。
「痛く、ねぇか。」
「うん…。」
そう呟いて背に回された腕を確認して、俺はアランの首に顔を埋めた。
生産性のない行為だと言うことは分かっていた。
けれど、男だとか女だとか、そんなものを全部取り去って、子供が宝物を守る様に、
この繊細な生き物を守ってやらなくてはいけないと頭の隅で考えていた。
初めてかき抱いたその身体は、まるでそうあるべきだったかのように、俺の肌に寄り添って離れなかった。
「ロイ。」
果てる寸前、アランが呟く。
「愛してる。」
まるで、戯言のように。
『愛してる』
俺は聞こえなかった振りをして、さらに強くアランを抱きしめた。
―愛してる―
その言葉に飢えていたのは俺であり、恐らくアランもそうだ。施された憶えのない感情を、誰かに施すことは出来ない。
だからこそ、俺はその言葉を容易に口にすることが出来ないのだ。
愛などを感じた日々は、もう記憶には残っていない。目が覚めれば食べ物を捜して街をさ迷い、刀を降って人を斬り、
血を浴びた身体で夜を越える日々が常だった。
『ロイ。』
父が、母が、俺を呼ぶ。
『ロイ。』
彼女が、俺を呼ぶ。
『愛してる。』
アランは、その一言を俺に告げるが、俺はアランを愛してはいない。守ってやろうと言う保護の感情以外に、
こちらを見つめ返してくる瞳に答える術が分からなかった。
眠ったアランを部屋に残し、熱い湯を浴びる。考え事をしながらでは、ちっともさっぱりとした気分にはならなかった。
「ロイ…。」
目覚めたアランは、シャワー室から出て来た俺をぼんやりとした顔で見る。
「情事のあとにすぐにベッドを離れるなんて最低だ。」
そう言いながらも、その表情はどうでもいいと言うようにぼんやりしていたので、俺もさして気にせず、
「くだらねぇ。」
と返しておいた。
恐らくもう昼近いのだろう。窓の外の日は高く、シーツから覗くアランの肌に惜しみなく注がれている。
「さっさと服を着ろ。」
そう言って、昨夜駄目になったシャツの代わりに自分のシャツをベッドに投げる。同時にグラスに注いだ水を喉に流し込むと、
ほんのり上気した肌が自然と収まっていった。
「ねぇ、ロイ。」
シャツを腕に通しながら、アランが口を開く。その声色の甘さに、俺は咄嗟に
「アラン。」
と言葉の続きを遮った。続く言葉を聞いてはいけないと思った。
「昨日の言葉は、聞かなかったことにしてやる。」
「え?」
俺はグラスに口をつけたままアランを振り返る。明らかに困惑し、眉根を下げた情けない顔がそこにあった。
「それが無理なら…。」
目の前に、自分のシャツを羽織ったアランがいる。思わずぎりっと歯噛みする。
「もう俺に触るな。」
「え?」
自分でも身勝手だと思う。アランの言葉が情事の戯言ではなく、本意なのだとしたら、それは今の関係が面倒になったのだと
取られても仕方のない台詞だったかもしれない。
「ロ、イ…どうし―――」
ベッドから起き上がろうとし、痛む身体にアランが顔を顰める。
思わず足が出そうになったのを堪えて、踵を返して刀を脇に挿した。
「仕事だ。薬は買って来てやるから、お前は今日、一日大人しくしてろ。」
そう言って出ていく俺を、アランが寂しげに眺めている視線を背に感じる。
「…行ってくる。」
部屋の扉が閉まる瞬間、いってらっしゃい、と小さな声が背中に届いた。
愛し方は、あの女を想った日に初めて知り、あの女を失った日に何処かに置いて来てしまったもの。
受け取るよりも、拒絶する方が自分を傷つけない術だと心得ていた。
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