創作小説

蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―

  「溜まってない?」 背中越しに飛んで来た声は自分に向けられたものだ。 「悪いが今はそんな気分じゃ…」 振り返り様、思わず開いた口を閉じる。かち合った視線の先にあったのは、ぼんやりと見覚えのある女の顔だ。 「あんた…。」 女も同じように目を見開いて、俺を見る。暫く考えた後、漸く以前抱いた女の一人だと気づいた。 「また会ったね。」 女は少しばつが悪そうに、それでも妖艶にたっぷりと紅の乗った口元を緩める。 「また会ったのも縁だ。どうだい?」 「あぁ。」 珍しくその誘いに乗ったのは、暇を持て余していたからか、それともこの女がちらりと目配せしたシャツが、この女の畳んだもの と同じだったからなのか。俺は女の言う言い店を知っている、と言う言葉のままに花街を抜けた小さな酒場について行った。 「邪魔だな。」 アランを抱くようになってから、被坂田ぶりに触れる人肌はやはり女のそれで、柔らかく弾力のある表面に、ほんの少し香の香り。 「何が。」 最後の一枚を剥ぎ取って露わになった胸を隠しながら、女は俺の言葉に首を傾げる。 「髪。」 ぶっきら棒にそう言うと、女は金色のそれを肩の向こうに払いながら苦笑する。 「失礼な男だね。女の髪を侮辱するなんて。」 そう言いながらもその髪をまとめることはしない。 「春婦ってのは皆、髪を伸ばすんだな。」 誰もがそうかなんて知らないが、少なくとも自分が抱いた女は美奈そうだった。 色こそ黒から金まで様々だったが、美奈長く緩やかな髪の先を腰元でちらつかせて男を誘っていた。 「髪は女の命だからね。」 情事の前戯も忘れて裸のまま淡々と言葉を交わす。一度慣れ合ったせいか、どちらもそれに違和感などなかった。 「売りをやってる女ってのは、皆幸せってもんに飢えてるからね。」 「何だ、そりゃ。」 女はそう言って、横たえていた身体を起こす。俺もシーツの上に胡坐をかいた。 お互い素っ裸だが、女の顔は真剣で、俺もただ女の紡ぐ言葉の続きを待っていた。 「髪は女の象徴。これすら失くしちまったら、女ですらいられなくなる。ただの玩具さ。」 女は自分の髪を肩から前へ垂らし、そっと指を通す。金の糸がさらさらと指の隙間を流れ落ちる。 「皆願ってるんだよ。この髪がいらなくなるのを。」 「お前もか。」  思わずそう聞くと、女はゆっくりと顔を上げて、真摯な目で見つめ返してくる。 「あぁ。」 もちろん、と呟く女は、前戯代わりの会話に厭きた様に目を瞑った。長い髪は、肩の向こうで広がっている。 「止めた。」 「え?」 「気分じゃねぇ。」 安いベッドの下に脱ぎ散らかされていたボトムを拾って足を通す。ベルトのバックルを止めて立ちあがると、女は笑って 「さっきもそう言ってたね。」 と言う。何か言いたげに見透かす様な瞳をしたかと思うと、その色を一瞬でかき消して 「その方がいいさ。」 と目を伏せた。 「あ?」 「いや、分からないならいい。」 女も一糸纏わぬ身に先刻脱いだないとドレスを通す。 俺の横を通り過ぎて部屋に備え付けてあった食糧庫からボトルの酒を一本取り出す。 「まぁ、一晩くらいいいだろ?一人身の女の酒に付き合うくらい、男の甲斐性だ。」 そう言って手の中で揺らす瓶の中で、血の様に濃い赤が揺れる。女の唇に乗った紅のように鮮やかで甘美な色だ。 女と視線を合わせると、余裕ぶった顔で笑っていた。俺もまた、口の端を上げる。 「金はねぇぞ。」 「あたしの奢りだよ、馬鹿。」 大した収入は得られなかったが、早めに仕事を切り上げる。女と別れた後も部屋に帰りづらくて暫く宛てもなく街を彷徨っていた。 アランのことだけをずっと考えていた。 気付けばいつも部屋に帰る時間よりも随分と遅くなってしまった。月がすっかり天辺を通り過ぎてしまっている。 部屋に入ると、テーブルに顔を伏せているアランが目に入る。アランも俺が部屋に入った気配でぱっと顔を上げてこちらを見る。 俺を映した瞳は今にも泣きだしそうだった。 「どこ…行ってたの?」 それほど遅くなった訳でもない。場合によっては一晩帰らないことも稀ではないのだが、心配、疑い、孤独、寂しさ。 押し殺せていない感情が、アランの瞳に宿っていた。 それに気付かなかった振りをして、上着をベッドの脇に脱ぎ捨てる。 「宿だ。」 「や、ど…?」 「ああ。」 確かめるように返ってきた言葉に、俺は真っ直ぐとさ迷う瞳を追い掛けながら答えた。 「それは…。」 言い淀むアランを一瞥し、すれ違い様に呟く。 「女を買った。」 「っ。」 アランが息を呑む。俺は平然とした風をして、背後にいるアランをふり返った。 「いい女がいたんだ。抱かない手はないだろう。」 真っ赤な嘘は自分で言って随分不自然に耳に届いたが、俺の言葉に、アランの表情は一瞬で面白いように歪む。 あからさまに傷ついた顔してんじゃねぇよ。 そう思いながら、俺は痛々しいその表情からすぐに視線を逸らした。留めとばかりに、俺の口が言葉を紡ぐ。 「もうお前に用はねぇ。」 それは、決定打にも聞こえる一言。 「それって…。」 意味を察したアランが恐る恐る口を開く。耳に響くその声は、十分にその先を口にしようとする俺の心を苛ませた。 「飽きた。」 「…!」 振り返らなかった。いや、振り返れなかった。見なくとも、今アランがどんな顔をしているのかは容易に想像出来たからだ。 「風呂入る。」 そう言ってアランの顔を見ないままシャワー室へと向かう。アランは返事をしなかった。 シャワー室の扉を閉めると、扉の向こうでカタンと椅子を引く音だけが耳に届いた。 「どうした。浮かねぇ顔だな。」 カモ捜しの途中で立ち寄ったエリガルの店には、珍しく見知らぬ客が入っていた。 アランが俺を避けるように仕事に出始めたので、俺も久しぶりにここを訪れたと言う訳だ。今日は見慣れない客が来ていた。 店の隅でこちらに背を向けて座っている黒ずくめの背中は男のものだ。 「別に、何でもねぇよ。」 その客に目配せしながら、俺もいつものカウンターにつく。 「払う金がなくて依頼出来ねぇとでも言われたか?」 その客にでも出したのだろう。自分には出してもらったことのない高そうな酒のボトルが空いていた。 しかし、そんなことはどうでも良くて、俺はエリガルの言葉に思わず顔をあげる。 「…何で知ってる。」 あれ、言ってなかったっけ、とわざとらしくエリガルが恍ける。それがわざとなのか、本当にそう言っているのかは分からない。 「俺の仕事は、裏であの人が動いてんだよ。」 「何?」 俺は出された酒に手をつけるのも忘れ、ただカウンターの向こうでもう一人の客の食事を準備するエリガルを凝視する。 「ランネルだよ。お前に仕事を与えてる男。俺の売り屋の頭だ。」 ばっと火柱が上り、料理酒を注いだフライパンからハムの焼ける香りが立ち込める。 「この間言っただろ?一人商売道具が逃げたって。」 「あ、ああ。」 「裏切りはランネルの中では重罪だ。いい男だったが…まあ、仕方ねぇな。」 眉を顰めて思い留まる。逃げた男とはアランのことだろう。エリガルが男色を売っていることは知っていた。 ランネルの下でエリガルが動いていたことには驚いたが、それも受け入れる。しかし、何故あの男がアランと関わりがあるのか。 「どういう意味だ。」 俺は自分を落ち着けるようにして、そこで初めて出された安い酒に手を出した。 「始末するのさ。まあ、逃がして惜しい存在だが、逃げちまったもんは仕方ねぇって思うべきなんだろうな。 ランネルの手にかかっちゃあ、生きてはいられねぇ。」 それは、まるで自分への死刑宣告のようだった。 「そろそろお前に依頼がいくだろうよ。」 その言葉に、思わず息を呑んだ。そんな俺にお前も食うか、と出されたそれは、先客の為に出した料理の残りだ。 「たんまり払ってやってくれって言っておいたから、しばらくは食いっぱぐれねぇぞ。」 笑うエリガルの顔を見られなかった。ああ、とだけ返すと、 「しっかり頼むぜ。」 と返され、カウンター越しに俺の後ろを指指している。何かと思い振り返ると、知らぬうちに、先刻まで店の隅にいた黒ずくめの 男が俺の後ろに立っていた。 ランネルの使いの一人だった。


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