創作小説

蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―

―――――思えば、この街が汚れ始めたのはこの頃だった。俺は土を盛っただけの粗末な墓の前に立っていた。 死んだばかりの両親が埋まっている。食べる物も、着る物も、歳相応に必要な愛も足りなかった。踵を返し、俺は両親の墓を背に して丘を降りる。もう二度と、ここへ来ることはないだろう。 親は死んだ。もう自分が生きることで精一杯だ。俺は、たった八歳で全てを失った。 「坊主、一人か。」 「うん。」 「親は。」 「死んだ。」 「そうか、そりゃ残念だな。」 情けも助けもない。皆、自分を生かすことで手一杯なのだ。子供だからと言って、誰も慈悲を与える余裕はない。 生きられないなら死ぬだけだ。 口に運ぶものは大抵痛んでいて、臭いも酷い。けれど、そんなことにも構わず口に運んでいた時は、とにかく食わねば明日をも 知れな状況だったのだろうと思う。腐敗臭しかしないゴミ溜めの中から食えるものを捜す野犬のように、極限の自分は辛うじて 口に運べる程度のくず野菜を求めていつも裏街を彷徨っていた。 野犬よりも鋭く、飢えた目で。 例に違わず、ゴミに集る鳥を追い払って手に入れた僅かなパンを片手に蹲っていると、丁度パンを拾い上げた下の古い書物の束の 中に、赤い革のきれがちらりと覗いている。異臭のするパン屑を口に放り込み、その赤に手を伸ばす。拾い上げて見ると、分厚い 冊子のようだった。 「本…か?」 言うまでもなく字なんて読めない。まして食えぬものなど。そう思いながらも、ゴミに塗れたその立派な表紙を興味本位に捲って みる。ぱらっと軽い音がして、鮮やかな挿絵が目の前を踊った。 「…。」 腐っていても腹にいれてしまえばそれ以前よりは好きっ腹も満たされる。 腹が満たされれば人は尖った気も和らぐと言うが、一日一食あるかないかの貴重な食べ物を腹の中に収めても、 俺はいつも街の綺麗な洋館に住む、煌びやかな住人達が憎かった。開け放した窓から聞こえてくる甲高い笑い声に、まるで豪邸が 並ぶ丘までの道がカルマの坂のように思えた。俺は邸宅街の丘の裾にかかるスラム街で寝起きをしていた。周りの堕落した大人の 生き方を見様見真似で模倣した。朝も昼も、目の前はいつも闇だ。 「お腹空いてるの?」 金に近い明るい茶髪の幼子だった。 歳は自分と同じくらいだろうが、そのあどけない表情と、服に着られているかのように豪華な服の作りに、一見、酷く幼く見えた。 「…。」 空腹を昼寝で誤魔化していたところに、薄汚い自分とは正反対の少女がやって来た。 たまたま周りの大人は金目の物を探して裏街には疎らにしか人がいなかったのがよかったものの、こんな裕福そうな、 それも女の子供が一人でこんなところに居ては、殺してくれと言っているようなものだ。 「ねぇ。」 覗きこんできた瞳は碧く、ともすれば黒くも見える程深い色だった。 「…誰だ、お前。」 「エマ。」 「あの屋敷に住んでるのか。」 俺は顎で坂の傍に立つ、一際大きな屋敷を指す。両親の墓のある丘の傍には、随分と大きな資産家の屋敷が立っていた。 「うん。」 少女はあっさりとそう答える。こいつは敵だ。咄嗟にそう思った。金持ちはみんな敵だ。 人を見下して、自分のような人間を切り捨てる。 「俺に寄るな。」 突き放す様に言い、目の前の女を睨みつける。 「どうして?」 無垢な目で見返してくる様子に、俺はさらに苛立ちを感じた。 「いいからあっちへ行け。」 そう言うと、その女は無言で俺の傍を離れて行った。 暫くして、少女は自分の元に戻って来た。片手に大きなバスケットを抱えて。 「はい。」 「は?」 「お腹、空いてるんでしょ?」 少女のバスケットからは香ばしい匂いが微かに香る。腹に力を入れて、声を上げそうになっていた虫を抑え込んだ。 「空いてねぇ。」 「いいから!はい。」 俺は差し出された手から顔を背ける。騙されるな。奴は敵だ。 「いらねぇ。お前なんか嫌いだ。」 子供染みた言葉を吐いて睨みつける俺を見て、その少女は少し驚いた顔をしたが、すぐにはにかむ様に笑った。 「一緒にいれば好きになるよ。」 根拠もなくそう言って、俺の横に腰を下ろす。無理やり目の前に突き出された手から、俺は躊躇いながらパンを一切れ受け取った。 俺がそれを口に運ぶのを見て、少女はもう片方のバスケットから同じパンを取り出す。 「お前も食うのか。」 「うん。給事室から持ってきた。」 「…。」 女はそっと、俺の分の食事が乗せられたクロスに自分の分のパンを差し入れる。本人は隠しているつもりだろうが、不器用なのか、 随分と分かりやすい様で。俺は敢えて何かを言うことはしなかった。実際、空腹は極限だったし、そのエマとか言う少女の持って きた飯が死ぬ程美味かったからだ。俺が食事を終えたのを見計らって、エマはこちらを覗きこむ。とても満足そうに笑いながら。 「お昼だけなら、外で食べても見つからないから、毎日ここに来てもいい?えーっと…。」 「…ロイ。」 「ね?ロイ!」 それが、エマとの初めての出会いだった。 それからエマは毎日のように、同じ時刻に同じ場所へ、毎日違った食べ物を持って来た。 スラム街にあんな場違いな格好の女を毎日通わせる訳にも、まして強引とも言えるエマの申し出を口下手な自分が上手く断ること も出来ず、結局済し崩しにエマのペースに乗せられた。俺達は屋敷の塀からスラム街までの丘の上で会っていた。 「ロイ!」 エマは、いつも随分遠くから俺の姿を見とめて手を振る。俺は何だか照れ臭くて、いつも顔の横で小さく片手だけを挙げる。 「今日はロイの好きなハムが入ってるよ。」 「…食えりゃあ何でもいい。」 「素直じゃないなあ。」 エマは眉を下げて笑う。随分子供っぽく見える癖に、たまにこうやって世話を焼く様な言い方をするのだ。 「お前、毎日屋敷の外に出て平気なのか?」 街は決して安全と言える場所ではなかった。まして、自分と会っているこの場所は裏街への入口、言わば光と闇の境界線だ。 金持ちの子供が誰かにさらわれてしまうなんてことも少なくない。先日、街の外れで娘が一人売られたという話も聞いた。 しかし、エマは俺の心配を余所にあっけらかんとした態度で 「平気だよ。ちゃんと庭で食べるって行ってあるから。あの広い庭じゃ、もし誰かが捜そうとしたって捜せないよ。」 そう言う問題じゃないと俺は子供ながらに思ったが、また下手な仕草で俺のバスケットの中にハムを滑り込ませるエマを見て、 俺はそれ以上何も言えなくなった。 「まだ、時間あるか。」 何故そう言ったのかは覚えていないが、俺のバスケットに上手く滑り込んだ昼食を見て嬉しそうに笑うエマに、気付けばそう声を かけていたように思う。 「うん?」 きっと屋敷から出してもらうことも少ないのだろう。 「昼飯の礼してやるよ。」 そう言って、ぽかんと座り込んだままのエマに手を差し伸べる。すぐにエマが笑ってそれを取る。 母親以外の女の手を初めて握った瞬間だった。


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