創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
「ロイ?何処行くの?」
俺が歩を速めると、後ろでエマのバスケットが大きく揺れる。ずんずんと先へ進む俺の後を、エマは小走りでついて来た。
相変わらずちょこまかと歩いては、何度か一人で転びそうになっているので、俺は時々立ち止まって後ろをふり返らなければ
ならなかった。煩わしい程鈍臭い仕草が、その時はは何故か楽しくて仕方なかった。
「もうすぐだ。」
街の外れの荒れ地を抜け、街の汚濁にも負けず生き残っている比較的綺麗な小川を超えると、どこかの屋敷の庭程度の小さな森が
ある。エマの屋敷よりは狭いだろうが。そこは街から外れているため、滅多に人が踏み入ることもなく、御伽話の世界のように、
そこだけが切り取られたようにある空間だった。
「ここだ。」
森を進み、ちょうど草の足が短くなっているところで、俺は歩みを止めた。後ろを着いてきていたエマも、同じように歩みを止め、
俺の後ろから前方を覗きこむ。目の前の光景に小さく感嘆の声が漏れる。
「う…わあ…。」
「すげぇだろ。」
「…うん!」
誇らしげに言う俺に、エマは素直に頷く。
そこには、絵本の中から飛び出したような、蘭の花畑が広がっていた。
「楽園みたいだろ?」
柄にもないことを言ったと思ったが、隣で目を輝かせているエマは不思議そうにこちらを見て、
「楽園?」
と素直に問うてくる。
「この話に出てくるんだ。」
俺は腰に下げていた襤褸切れの様な鞄の中から、四角い冊子を取り出す。
「…絵本?」
「あぁ。この間、街で拾ったんだ。」
それは、赤く分厚いカバーで覆われ、金の装飾の宛がわれた立派な絵本だった。酷く外面が汚れているから、大方何処かの金持ち
が安易に捨てたのだろうと思い、数日前にたまたま拾ったそれだ。腹の足しにもならないと知りながら、何処となく気になって
大事に持っていた。
「どんな本?」
覗きこんでくるエマをちらりと見て、俺は本に目を落としたまま言う。
「…字は読めねぇ。」
恥ずかしいなどとは思わなかったが、当たり前のように聞いてきたエマとの間に感じた微かな隔たりが胸にちくりと刺さる。
けれど、エマは俺が字が読めないことなどさして気にする風もなく、俺の手の中から分厚い冊子を取り上げた。
「じゃあ、代わりに読むよ。」
そう言って、エマは1ページ目を捲った。
物語は、二人の少年が旅に出る場面から始まる。まるで今の自分達がいる時代のように荒んだ街を飛び出して、二人の少年は二人
だけの幸せの場所を探す度に出る。
幾多の困難や命の危険を乗り越え、通り過ぎてきた土地の人の愛に触れ、二人は宛てのない旅を続ける。
「『少年は、名もない街で、名もない島の噂を聞いた。』」
俺はエマの話に耳を傾けながら、随所に描かれている鮮やかな挿絵に目を奪われていた。
少年たちの越える青い海も、鮮やかな暖色の花の咲く都も、常に雲で覆われたこの街では見られない景色も、俺には全て初めての
ものばかりだった。
――――――気づけば、少年達は青年になり、年月だけが十分に過ぎたある日、大きな嵐が二人を襲う。その嵐は青年の一人の命
を意図も簡単に浚ってしまう。身体の一部と引き換えならば、助けてやろうと嵐の最中、風に乗って届いた誰かの囁きに、
共を失った男は自分の手を差し出す。
「『友の死の引き換えにと、見知らぬ声の先に青年は自分の身体と友の身体を一つずつ差し出した。
息を吹き返した友を抱いて、辿りついた小さな島を望む海に向かって共に有ればそれでいい、と男は言った。』」
そう言いながら、エマはじわりと涙の滲んだ瞳に力を入れて、零れ出しそうな滴を堪えていた。
「俺、いつかここへ行きたい。」
気づけば、ぽつりとそう漏らしていた。どんな場所かなんて知らない。たどり着いた人間がどうなろうが、そんなことは構わない。
ただ、この場所が本当にあるのなら、自分は生きてここへ辿りつく。そう性懲りもない想いを抱いていた。
少なくとも、この街よりは自分を愛してくれる場所があるだろう。
そう思って。
「一人で…?」
絵本の挿絵を眺めていると、エマの視線を横顔に感じて顔を上げる。エマは何か言いたそうにこちらを覗きこんでいた。
「お前もか?」
俺はエマの考えていることを察して、恐る恐るそう聞く。俺の問いに、エマは小さく笑って頷く。
そして、俺の前に細く白い小指をそっと差し出した。
「約束。いつか、必ずそこへ連れて行ってね。」
俺が茫然とその指を眺めていると、エマが急かす様に左右にその指を小さく振る。
「ロイのこと、信じるよ。」
そう言うエマに、俺もおずおずと差し出した自分の指を絡めた。
「…あぁ、約束だ。」
そう言うと、エマはもう一度笑って、絡めた指にきゅっと力を込める。
俺はもう一度絵本の挿絵に視線を落とした。俺はいつか、ここに辿り着く。そして、その時に俺の隣にいるのはエマだ。
それだけは何があっても変わらない。
『約束』だからだ―――――
「けど、そんなのは子供の戯言だ。」
そう言った俺を、アランはじっと見つめ返した。
「物語は作り話で、時代が時代。それに、俺は孤児で、人斬りだ。幸せなどとは程遠い。」
アランは黙っている。
「何がいけなかったのかなんて分からない。けれど、俺たちは一緒には居られなかった。」
―――――「もうここには来れない。」
エマがそう言ったのは、いつもと変わらぬ昼過ぎのことだった。俺はエマの言った言葉の意味が分からず、ぼんやりと
「え?」
と聞き返した。エマは、俺と視線を交わそうとはしなかった。
「もう、来れないんだ。」
「…ばれたのか?屋敷を抜け出してることが。」
咄嗟にそう思いついて聞いてみるが、エマは小さく首を横に振る。じゃあ、と言いかけて、エマが俺の言葉を遮った。
「もう、ロイには逢えない。」
ごめん、とそれだけ言って、エマは俺と視線も合わさぬままに踵を返そうとする。何故だ。昨日もいつもと同じように別れ、
エマは俺に「また明日」と言った。
なのに、何故。
「おいっ!」
俺は慌ててエマの肩を掴み、ぐっとこちらを向かせようとした。けれど、握ったその肩が震えていたのと、
流れた髪の隙間から見えた滴に、俺は掴んだその手を離してしまった。
「ごめん。」
エマはもう一度そう呟いて、咄嗟に掴み直そうとした俺の腕をすり抜けて行った。
「エマ!」
何故か、足が動かなくて、俺は追いかけることもせずに、その場に突っ立ったままエマの名だけを呼び続けた。
いつもなら、直ぐに嬉しそうにふり返るはずの笑顔は、決してこちらを向こうとはしなかった。
「何でだよ…。」
どうして。
そう問うことも出来ずに、丘の向こうの屋敷の門に、エマの後ろ姿が吸い込まれるように消えて行く。
「どうして。」
俺は屋敷の中へ消えて行ったエマの残像を、いつまでもぼんやりと眺めていた。
―――――もう逢えない
本当にそんな気がしてならなかった。
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