創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
―――――その日は朝から酷い雨が降って、街はいつも以上に燻っていた。
エマと会わなくなって、会えなくなって、気付けば五年が過ぎていた。
俺はその頃には既に生きながら身を守る術を捜しており、生きる為の金を人を殺して得られると知ったのは、
同じく人斬りに殺された男の刀を拾った日だった。
「お前、その刀どうするつもりだ。」
死んだ男の腰元から引き抜いた刀は、漆黒の鞘に収まった名刀だった。
「この刀、俺にくれ。」
たまたま通りかかった裏路地で、とある人斬りが、端金程度にしかならない賞金のかかった男の首を斬り落とすのを見た。
傍にいた自分もその死んだ男の血に染まる地面の上に立っているのだと気付いていたが、不思議と恐ろしくはなかった。
「刀なんて持ってどうする。お前の身の丈じゃあ、使いこなせねぇ。」
突然殺しを終えたばかりの自分に近づいてきた見知らぬ子供に、 男は淡々と諭す。しかし、俺にはその刀を得たい理由があった。
「俺の親父の刀だ。」
掴んだ刀の鞘は、見紛うはずのない、拙い人斬りの父が死ぬ寸前まで持っていたものだ。
今でも俺は死んだばかりのこの男が両親を斬り捨てた日を鮮明に思い出せる。
「人斬りになるっていうのか。」
その人斬りは暫しの沈黙のあと、静かに言う。
「ああ。」
俺は迷わずそう答えた。親を殺した人斬りに。この荒んだ時代に愛などという平和なものを感じたことはなかったが、
自然と刀を握った腕に力が篭る。
「面白い、なってみろ。」
その時を待っていてやる、と男は両親を殺した男の首を抱えて去っていった。
何故かその時、いつか自分はまた必ずこの男と何処かで出会うのだろうと思った。
その男との出会いが十三の時。あれから二年たった。エマも、あの男も、まだ俺の前には現れない。
刀を抱いた子供が、気付けば一人、この街で新参の人斬りと呼ばれる器になっていた。
生きるために刀を振れば、刀は血の味を覚えてさらにそれを欲する。生き血を吸った刀は、より高い獲物を俺に求めさせた。
「俺の下で働かないか。」
ランネルがそう言ってきた日のことも覚えている。
暗い路地裏で今まさに殺したばかりの男の首を刈ろうと言う時、背中にかかった声に振り向くと、
そこには強面の部下を従えた男が不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「誰だ。」
聞かずとも、その道の人間だと言うことは一目で分かった。
「金は働きに見合った分をきっちり払ってやる。どうだ、坊主。」
皆を聞かずとも、何を要求されているのかは容易に察しがついた。
「…坊主じゃねぇ。」
睨み返しながらそう言うと、ランネルは馬鹿にしたように一つ鼻で笑う。
「はっ…。お前、名前は。」
「ロイ。」
「ロイ、まずはこの男で試してみろ。」
まるで子供に使いを頼むかのように、軽々とそう言ってのけたランネルは、一枚の手配書を俺に手渡す。
「…分かった。」
十三の自分に手渡されたのは、自分よりも遥かに図体の大きな男のものだった。
俺は狩った首をこの場所に持ってくることを約束し、ランネルの持っていた僅かな手懸かりを頼りに、裏路地の奥へと向かった。
闇雲に街中を捜し回り、ふと立ち止まったのは白く清い建物の前だった。
「教会の傍か…。」
この頃から俺は教会の鐘の音が嫌いだった。けれど、行きたくないなどとは言ってられない。
今の俺には金以上のものはこの世になかった。
「おい、聞いたか。地主のとこの話。」
教会の敷地内を覗きこんでいた俺の背後を、裏街の酒屋の人間と思われる男が二人、荷車を引きながら通り過ぎる。
「ああ。どうやら本当らしいな。」
「屋敷の取り壊しも決まったらしい。」
「へぇ。ってことはお家ごと潰れちまうのか。」
俺は振り返ってその男達の会話に聞き入った。
「そうらしい。使用人もあの強欲主人の囲っていためかけも皆お役ご免だと。」
「何?妾もか。」
「あぁ。ただでさえ娘の身売りが其処ら中で蔓延っている時代だ。あの主人の屋敷の娘達と言ったら、格別色のある女ばかりだと
聞くからなあ…。こりゃあ、また売り屋が一つ儲けそうだな。」
男達は教会の向かいの物売り小屋の前に荷車を止める。俺はすぐに話されている屋敷がアランの居る地主のものだとわかった。
「そういやあ、今日にも早速売られる娘がいるらしいぞ。」
男の一人が荷車の紐を解き、荷台に積まれた木箱を下ろしだす。
「そうかい。」
もう一人が然も人事と言った感じで返事をする。
「何でもまだ十三、四の娘らしいって噂だ。面倒を見ていた女が身売りに出したそうだ。」
「十三、四って言ったらまだほんの子供じゃないか。」
俺は教会の柵に寄り掛かったまま、じっとその会話に耳を澄ます。酷く嫌な予感がした。
「あぁ。けれどかなりの美人らしいぞ。赤毛に白肌、目は蒼ときたもんだ。」
―エマ
「あぁ。さっき教会の前の広場に派手な金渕のついた馬車が停まってたのは、きっとその娘の迎えだな。」
飛び出すように駆け出した自分の後ろで、がしゃんと音を立てる鉄柵と、何だ、と不思議がる酒屋の男達。
―エマ
こんなに走ったのは久しぶりだった。刀を振る腕が強くなればなるほど、無駄な動きをせずに仕事をこなせるようになっていた
せいか、息を切らすほど何かをすることなど早々なかった。宙を切る足が酷くもたついているように見えて、もどかしかった。
広場―――広場―――広場―――――。
走りながら、最後に見たエマの顔と彼女がいるであろう、その名ばかりを反芻させた。
裏街を一気に駆け抜け、教会がその屋根の先端程した見えなくなるまでがむしゃらに走ると、気付けば前方に開けた煉瓦造りの
地面が広がる。野次馬のような市民の群れの奥に、黒馬を携えた馬車が見える。俺は走って来た勢いのまま人込みに飛び込み、
囲まれるようにして中央に見える人影に目を凝らした。
「…エマ。」
それは、以前見た彼女よりも幾らか大人びてはいたが、見間違えるはずのないその瞳の色に、俺は小さく息を呑んだ。
「行くぞ。早く乗れ。」
広場の中央で、街の連中の注目を浴びながら、彼女は今まで見た中で最も煌びやかな服を着て、馬車に乗るよう急かされている。
彼女の背を軽く押す様に先を促している男は、どうやら彼女が売られていく先の遣いの者のようだった。俺は声を潜める街の連中
に囲まれ、その場から少しも動けずにいた。
「エマ…。」
彼女に聞こえるはずのない声で呟いた声を、まるではっきりと聞き取ったかのように、馬車に乗り込もうとしていたエマがこちら
をふり返る。視線がかち合った瞬間、喉がひゅっと鳴ったような気がした。
「ロイ。」
彼女の口元が俺の名を呟く。
「エ―――――」
彼女の名を叫ぼうとしたその時、エマの口元が微かに笑う。俺が躊躇したのを見て、彼女の唇が再度開かれた。
「さよなら。」
霧のような小雨が降る中、俺は広場の端で、中央にいるエマを眺めていた。少女は女になり、紅をひき、伸びた髪を翻して、
ほんの一瞬こちらを振り返る。
目があったのは何年ぶりだろう。彼女が静かに呟いた。
「ロイ。」
降りしきる小雨が女の頬を伝って流れていく。
涙みたいだ。
そう思う間もなく、女は再度呟いた。
「さよなら。」
と。そしてそのまま遣いの男と共に黒い箱の中に姿を消す。その時、初めて思ったのだ。
この女を手放したくない、と。
「エマ!」
気づくと、足が勝手に人ごみを抜けて馬車の後ろを追いかけていた。
「エマ!行くな!」
俺を突き放すようにして、エマを乗せた馬車はどんどんと遠ざかっていく。
俺の声は、彼女に届いているのかいないのか分からない。
けれど、姿の見えない彼女を追いかけずにはいられなかった。
「エマ!」
喉が切れて、血の味が口内に広がるほど、声を絞り出して叫んだ。
「行くな!」
行くな、ともっと早くそう言っていたら、彼女はずっと俺の傍にいてくれたのだろうか。
好きだ。
そう気付くには、もう遅すぎていた。
それが、俺が彼女を見た最後だった―――――
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