創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
その日の宿を失っても、半刻もすれば次の宿が見つかるのが常だった。
もちろんそういう輩の多そうな場所に立っていればの話だが、それでも宿なしのまま朝を迎えた日と言うのは今まで一度もない。
「ねぇ、君いくら?」
そう背にかかった声に、
「世話してくれるなら、いくらでも。」
と返事をするのには慣れていた。
「先、使っていい?」
部屋に入ると直ぐ、男はシャワー室を指差して言う。
「どうぞ。」
そう言って笑うと、じゃあ、お先に、と男は中へ消える。
昨夜泊まった宿よりは数段格上だが、やはり連れ込み宿のそこは、あのくすんだ街からは少し離れた郊外にある。
それでも会ったばかりの男の後ろについてここまで来る途中、売春婦を扱う店をいくつか見かけた。
俺は狭い部屋の中で自己主張の強いベッドに座り、上着を傍のスタンドに無造作に引っ掛けた。
同時に握っていた刀をその横に立てかける。
冷たいシーツに寝転がると、数回スプリングが跳ねる音と、遠くで響くシャワーの水音。
静かに目を閉じると、瞼に浮かぶのは真っ赤に染まったかの男の背中。
そんなはずがない。
あの男が自分の血を浴びるにはまだ早い。そう思おうとしても、確証を保つには離れている間に時が流れ過ぎていた。
「空いたよ。次、使えば?」
いつの間にか止んだ水音と同時に、シャワー室から男が出てくる。
「ああ…。」
俺は身体を起こして適当に返事をすると、靴を脱いで床に降りた。
「あのさ、一つ聞いていい?」
男は羽織ったローブの前を肌蹴させたまま、タオルで滴る水滴を拭き取り、俺の隣に腰を降ろした。
「それ、何?」
男が指した先には黒鞘のそれがあった。
「刀。」
そのままを答えると、男は呆れたように笑う。
「それは見れば分かるけど…。」
どうして持っているんだ、と聞きたいのだろう。売男には無縁なものだ。
「俺のじゃないんだ。」
そう言うと、男は怪訝そうに首を傾げる。
「預かってると言うか、形見…とは言わないけど。」
俺はシャツのボタンを外しながら答える。男は露わになるシャツの奥の肌を見つめながら聞き返してきた。
「形見?」
そう、形見。今のところは。奴が無事に帰って来たなら、そんな馬鹿な、と笑える戯言だ。
俺は脱いだシャツを床に落とす。もう長く着ているそれなのに、自分とは違うあの男の香りが未だ残っているようで、
時々酷く胸の奥が苦しくなる。
「俺、シャワーいいや。さっさと始めようよ。」
ベッドに片膝を乗せると、伸ばした手を男のローブの隙間から中に滑りこませた。
「やろう。」
他の男の肌に触れる度に耳の奥に反芻する。
『俺以外の男に抱かれるな。』
そんな一方的な約束は、もう守る価値さえない。あいつは別れ際でさえ、愛してると呟いた俺の言葉に返事をしなかった。
待っていろ、とさえ言われていない。
渡されたのは、鎖のような言葉とあの刀だけ。
何故、帰らない。
今、どこにいる。
どうして、愛してくれない。
「こっち集中してよ。」
上から男の声が降ってくる。舐め回された身体を横たえ、天井を眺めると、慣れすぎた行為に喘ぎ声の一つも出ない。
いつもなら甘い嘘の演技を繰り返すのに、それさえも忘れ、ただこれじゃないと分かっている声と腕に抱かれていた。
「おい!」
男が、焦れたように語尾を強める。横目で視界に入る刀は、手を伸ばせば届く距離だ。
「お兄さん。」
口を開くと、自然に薄っすらと意味のない笑みが零れた。伸ばした腕が刀を掴み、鞘が滑り落ちるように抜ける。
「ごめんね。」
掴んだ刀は吸い付くように俺の手の中で向きを変え、俺に覆い被さっている男の背中を貫いた。
「ごめんね。」
飛び散った他の男の鮮血さえ、あの男を思わせる。もう血を浴びることにも慣れてしまった。
自分が汚れなき純粋だと思ったことなどないが、あの頃の自分をまだ潔癖だと言えるなら、今の俺は一体何者なのだろう。
「ロイ。」
それは、もう何度目かの返事のない呼びかけ。
「愛してるよ。」
それは、報われたことのない想い。
「愛してる。」
自分はもう、あの男の知る自分じゃない。
俺の手の内で、今日も男の刀は血を吸いたいと何度も啼いた。
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