創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
第二章
Side:Aran
「やめて!離してよ…!」
誰か、助けて。
足元に転がる薬の瓶を眺めながら、かつていたあの街を思い出す。
「誰か、助けて!助けてっ!」
ほとんど奇声のような声を発するその女を、誰もが視界の端で追っていた。
「お願い!離して…。嫌あっ!」
荷馬車の後ろに押し込まれた女を、誰も助けようとはしなかった。
俺も、然別。
この街でも女の売り買いがされるのか。
掌に力を篭めると、手の中で握った僅かの小銭が肌に食い込む。
こちらに向かって走ってきた荷馬車が、俺の横を通り抜けると、ガラガラと車輪が小石を踏む音に混じって、女のすすり泣く声が
耳を掠めて消えていった。じとりとした汗が背に流れたのを感じる。横をすり抜けた荷馬車を振り返りながら、小さくなっていく
その影を見つめて思い出すのは、強い既視感を纏った写真のような記憶だ。
『離して…嫌だ…。』
他人の唾液が肌を伝う。
『触らないで。』
ごつごつした太い指が腹を撫でる。
『触らないで。』
意に反した快楽と共に、裂くような痛みが身体を突き抜ける。
『どうして誰も愛してくれないの。』
いつも、後になって気付くのだ。得たものは何もなかった、と。
俺は小さく頭を振って、踵を返す。握りしめた拳の力を抜くと、食い込んだ硬貨が数枚手の中でかちゃりと音を立てて転がり出す。
胃がキリキリと痛む。まだ、後遺症のように残る、この感覚。
「煙草、くれる?」
傍の小窓に身を乗り出すと、手の中の小銭をそこへ差し出す。
「どれにする。」
小さな建物の奥からぬっと出てきた腕はその数枚の小銭を掴み、代わりにその金額に見合う煙草のケースを数箱窓際に並べた。
「この赤いやつ……あ、やっぱり青のがいいかな。」
俺はその中から一つの箱を摘む。
「こっちはきついよ。」
窓の向こうで、毛糸の分厚い帽子を深く被った初老の男が、俺が選んだ青い箱を見ながら言う。
「いいんだ。俺が吸うんじゃないから。」
遣いだよ、と笑うと、主人はそうかい、と興味なさ気に呟いた。
俺は選んだ箱をコートのポケットに突っ込み、その煙草屋の角を曲がる。曲がってすぐに、今泊まっている宿の屋根が視界に入る。
俺はコートの裾を翻し、少し早足で歩き出す。黒く質のいいそれは、最近新しく買ったものだ。
かつて着ていたものによく似ている。
あの男が見たら、またそれを着るのかと顔を顰めるだろうか。
「帰った。」
取ってある部屋の扉を開けながらそう言うと、入ってすぐに部屋の奥でこちらに向かって片手を挙げる男と目があった。
「おう、悪ぃな。」
「いや。これでいい?」
俺は買ってきた煙草を脱いだコートのポケットから取り出し、男に投げ渡す。コバルトに近い青のフィルムが回転したまま、
上手い具合に男の手の中に収まった。
「あ?ああ…まあ。」
男が受け取った箱のフィルムを見て、一瞬訝しげな顔をしたので、俺は薄く笑って言う。
「こっちの方がきついって。」
そう言いながら煙草を加える仕種をして見せると、男もにやりと笑って言った。
「ああ、これでいい。」
コートを壁にかけながら、そっか、と返事をする。男に頼まれたのは赤いフィルムの煙草だった。
男は箱から取り出した一本を加え、火をつける。俺は男がそれを美味そうに吸い込む様をベッドに腰かけて眺めた。
男の口から吐き出されて燻った煙は可笑しな緑色をしている。
「あー…美味ぇ…。」
そう言うと同時に、酔ったように緩む目元。薄く笑った唇はだらしなく開いていて、俺はその気味悪い顔を見ていられなくて、
天井を見上げるふりをして目を逸らした。
「さっき…。」
「あ?」
「さっき、女が売られていくのを見た。」
「ああ。」
よくあることだ、と男は何でもないように煙を吐く。俺はベッド脇の窓辺に乗り出し、外の路地を見下ろす。
何の変哲もない、唯の汚れた街だ。
「この街もそうなのか。」
「も?」
俺の言葉に、男はちらりとこちらを見る。
「…前に、いた街もそうだったんだ。」
階下では、風に押された薬の小瓶が土の上を転がっていく。
「お前の街か?」
俺はああ、と呟く。
「生まれた街だ。」
腐った、街だ。
『いつかきっと、愛してくれる。』
そんな戯言を、よくも繰り返し信じたものだ。
抱かれる男が誰かを抱くことも、愛を知らない人間が愛されることを知ることも、まして、汚れた街で生きた人間が、
何故「楽園」などと有りもしないものを信じたのか。
「お前もどうだ。」
男は窓の外ばかり眺める俺を見て言う。薄く開いた唇。薬が回っているのだろう。
「いや、いい。」
俺は窓の外に視線を投げたまま言う。
汚れた街だ。
金貸し屋の裏には女を乗せる荷馬車が停まり、煙草屋には煙草の箱に入った薬が並ぶ。そう言う街だ。
そろそろ、どこかの街に移ろうか。そんなことを考えていた時だった。
「それよりお前、いつまでここにいるんだ?」
ふーっと吐き出された煙がまた一つ部屋の中に燻り出す。
「どうして?」
俺は開けた小窓から、外の空気を目一杯肺に吸い込む。俺の横を緑色の紫煙が通り抜けて行く。男は少し考えてから静かに言った。
「いや…お前、ただの売男じゃねぇだろ。」
「…そんなことないよ。」
すぐさま否定したが、男は聞いていないように話を続ける。
「お前、旅の人間だろ。一人…じゃないな。連れがいるんじゃねぇのか。」
頭の悪い男だと思っていたのに、そこまで気づかれていたことにも驚いたが、男の「連れ」と言う言葉が胸に引っ掛かる。
そんなもの、と思う。
「別に。」
それだけ言って口を噤む。この花街に来たのは最近のことだが、もう長くこの辺りから出ていない。
男は煙草を加え直して呟いた。
「…まあ、言いたくないなら聞かねぇけどさ。」
俺の金が尽きるまでは買ってやるよ、と男は言う。俺は振り返って少し笑った。男に聞こえないような小さな声で呟いて。
「金が尽きるまで、か。」
それじゃあ、そろそろ別の居場所を捜さないと。俺は部屋の脇に置かれた黒鞘の刀を眺める。
『こいつは、血を吸いたいと唸るんだ。』
以前、かの男がそう言っていたのを聞いたことがある。
『俺が帰るまで、お前が持ってろ。』
そうも言っていた。
―それなら、いつ帰る?
ベッドから降り、麻薬に虚ろう目をした男の傍を横切ると、立てかけてあった刀を手に取る。
血が吸いたいと唸る、か。
俺は引き抜いた刀の表裏を眺め、椅子に緩く腰かけている男の背後に近付いた。
男は俺には気付かず、そろそろ買ったばかりの箱が空になろうと言うところまでその中見を吸いきっている。毒されているが、
未だ死に損なっている男だ。
馬鹿な男だ。
「ごめんね、お兄さん。」
「え?」
俺は間抜けた声を上げる間もない男の右肩から刀を振り下ろした。
静かに汚れた血が宙を飛び、俺の頬を掠って地に落ちる。どさりと音を立てて転がる身体。部屋中に満ちた緑の紫煙。
その中で、血まみれになって佇む俺がいた。
「ねぇ。」
動かない身体に問いかける。
「俺のこと、愛してた?」
抱かれながら呟かれたその言葉を、今度は男に問い直す。その言葉を乗せたのは、欲しかった声じゃない。
「ねぇ。」
答えて。
俺は血塗れの刀を鞘に納め、早々に宿を後にする。
「ごめんね。」
転がったまま動かない身体に悪びれもなくそう呟いた。
この男には、随分と長く養ってもらった。だが、それも今日までのこと。
この男に抱かれる度、口付けであろうと何だろうと、繋がった部分から腐敗した薬が自分の体内に流れこんでくるようで、
酷く気分が悪かった。そっちの腕も対したことはなく、取り柄といえばぎっしりと金の詰まった財布を常に持ち歩いていると言う
ことだけ。
「重ねてんのかな…。」
そう呟いて、自分の言葉にはっとする。女々しいことは言わない。そう決めたはずだったのに。俺は先刻の男の背中を思い出す。
広く、男らしさしかない背中に、漆黒の短髪。
似ていたのだ、あの男に。
『アラン。』
けれど、戯れの半ばに呟かれた声に、酔いが醒めるような思いがした。
『愛してる。』
欲しいのは、その声じゃない。
そう叫んで、もっと早くあの男を切り裂いても、状況は何も変わらなかっただろう。
「馬鹿だな。」
それは自分への叱咤。もう戻らないかもしれない男の背中を待ち侘びて、こんな過ちはもう数えきれない程繰り返した。
『俺以外の男に抱かれるな。』
あの男が大切な黒刀を預けて行ったあの日、別れの言葉の代わりに残していったのは、永遠に俺を自分に縛りつける為の鎖だった。
『俺以外の男に抱かれるな。』
そう言うなら、何故帰ってこない。
歩き慣れた街角を曲がって、先刻の煙草屋の前に差し掛かる。
「きつかっただろう。」
窓の奥から先刻の主人が低い声でそう言った。俺は一瞬歩みを止める。
「ああ、きつかったみたい。」
そう言ってまた歩を進めると、降り出した雨が一滴肌を叩いた。この街も、あの街のように厚い雲に覆われている。
「きつすぎてさ、」
薄く笑うと、先刻見た血塗れの背中が他の誰かのそれに重なった。
「死んじゃった。」
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