創作小説

蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―

次の朝、俺はもう一度街を回って来るというロイをベッドの上で見送った。 「誘ったのはお前だ。んな目で俺を見るんじゃねぇ。」 「…。」 恨めしい視線を送るが、ロイは何てことないと言うようにふいと顔を逸らす。 「今日も収穫が無ければ、明日にでもこの街を出る。お前も必要なものがあったら今日中に手に入れておけ。」 ロイは昨夜の残りのパンの端切れを口に含み、扉の方へと歩いて行く。 「…歩けないし金もないのにどうやって。」 ぼそりと呟くと、ロイは小さくため息を吐いてこちらをふり返る。 「俺の知ったこっちゃねぇな。金はある分だけで何とかしろ。」 「何とかって…。」 「何処かで金になる輩の情報でも聞き出して来い。俺が斬って金に変えてやる。」 「そんなことしなくても俺も稼ぎに出ればもう少し金に余裕が出来―――」 「いや、いい。」 俺の言葉を遮ったロイの声は、酷く低く耳に届いた。俺が思わず口を噤んだので、部屋には不自然な沈黙が流れた。 まただ、と思った。 しかし、すぐにロイの言葉が沈黙を破る。 「それよりいつまでもへばってんじゃねぇ。」 そう言って壁際に落ちていた上着をポンとベッドの上に放る。 「一晩に5回もやれば普通へばると思うけど。」 「数くらいこなしてるだろうが。」 「ロイ程絶倫の客はいなかったんだ。」 「そりゃ光栄だな。」 にやりと口の端を上げて笑う仕草は今の俺にも酷く憎たらしく、結局対して言い返すことも出来ずに部屋を出ていくロイを黙って 送り出した。ロイが部屋を出た後、俺は重い腰に手を当てながら、ひどく無様な格好でソファの上のズボンのポケットを探った。 昨日、ノアと言う少女のバスケットから持ち出した薬の小瓶が当然そこに入っている。 「どうすっかな…。」 盗みに後ろめたさを感じるほど真っ当な人間ではない。それに、あの少女に関わることは、自分にとって事が悪い方に転ぶ可能性 もあるということは言うまでもない。彼女の顔を見た時、言葉にならなかった。彼女の顔を思い浮かべなから、数年前の過去を遡 れば、今でも手の震えを止めることが出来ない。 それに、自分がロイの傍に居たければ、決してノアとロイを引き合わせてはいけない。けれど、 「…。」 考え込むのは自分の性に合っていない。 俺は取り出した小瓶の蓋を開け、中の薬に鼻を近づける。ふわりと香るその匂いは、甘く砂糖菓子のように鼻に香る。 やはり、あの薬だ。 昨夜の情事のあと、何度も考えていた。あの少女に近づくのは義務か、運命か、それともただの好奇心か。 俺はすぐに身なりを整え、薬をポケットに入れ直して部屋を出た。 彼女を探すのはそう難しくはなかった。彼女の店を知っていたからではなく、言うなれば、俺が彼女の薬を持っていたからだ。 「やあ。」 俺は畦道の下に見えた赤毛に声をかけた。 「あ…。」 振り返った彼女は俺を見て、一瞬、あ、と言う顔をした後、自分がこの場所にいることを思い出し、ふいに眉をひそめた。 「昨日拾い損ねた物でもあった?」 俺は欄干の上からノアを見下ろしていた。 「え、ええ。まあ…。」 そう言う彼女は立ちあがってくるりと自分の周りを一度見回した後、諦めたように坂を登って来た。俺は彼女に手を差し伸べ、 引き上げてやる。 「ありがとうございます。」 「いや。それより、君が探してる物って、もしかしてこれ?」 そう言って、俺はポケットの中から昨日拾った薬の瓶を取り出し、彼女に差し出す。 「あ…!」 そう声を荒げた彼女は、俺の手から奪い取る様にその小瓶を手に取った。 「やっぱり、そうだった?」 そう言って笑いかけると、彼女はそれを直ぐに自分の着ていたスモッグのポケットに隠し、とり繕った様な笑顔を浮かべる。 「そ、そうです。助かりました。また助けてもらっちゃって…。」 頭を下げる彼女に笑顔を向けたまま、俺は努めて柔らかく言った。 「朝飯まだなんだ。店、邪魔しても平気かな?」 彼女の小瓶の中身は「キシトローム」。媚薬の一種だが、麻薬に近い依存性と、世の中のどの媚薬よりも即効性を持つほぼ毒薬と も言える品だ。決して表ルートには出回らず、その道でそれなりの地位を得、入手手段を持っているものか、その下で働く者。 例えばランネルや俺のような者なら常に常備していなくとも、仕事上で一度は目にしたことのある代物だ。 「アランさんは旅の方ですか?」 「よく分かったね。」 問題は彼女があの薬をどこで手に入れたのか。また、あれを使用しているのは彼女なのか。 「この街は旅の人が通過点によく訪れるんです。長閑な街で、資材の補給にも都合のいい場所にありますから。 この街の人間でなければ、大抵の人は旅の方です。」 「へぇ、そうなんだ。」 たかが数日立ちよった街の見知らぬ娘だ。気にしてやる必要などない。 いくら長閑な街だと言っても、裏街や売春くらいあるだろう。 金に困って身売りをし、客から与えられている薬なのかもしれない。 「お一人で旅をされてるんですか?」 「あ、ううん。一応連れがいるんだ。」 ロイは、もしノアが…いや、あの容姿の少女が売りをしていると知ったら、どう思うだろうか。 「そうなんですか。それじゃあ今度はその方も一緒に遊びに来て下さい。」 もし、エマが売りを…―――― 「アランさん?」 「…!」 気づけば、目の前には料理が並び、それを運んで来たノアが怪訝そうにこちらを見ていた。 「ご、ごめん。ちょっとぼうっとしちゃって。…あ、美味しそう。」 俺は出されたスープにスプーンを入れ、口に運ぶ。昨日と同じものだったが、よく煮込まれていて美味かった。 今日は豆のオムレツがその傍に添えられている。 「どうしたんですか?何か考え事でも?」 慌てて食事をする俺を見て、彼女はくすりと笑ってカウンターの奥に戻る。 昨日よりもいくらか警戒を解いてくれているのか、それとも小瓶のことを誤魔化そうと友好的に振る舞っているのか…。 「でもアランさんが旅の人なんて、そんな雰囲気しませんね。 昨日お会いした時も綺麗なシャツに革靴を履いてらっしゃったから…。」 そう言って笑うと、ノアは流しの洗い物を片し始める。 一か八か、彼女の気を俺に引かせてみるのも手。 初めてのことではなかった。男娼として生きてきて、男ではなく女の手を必要とする時は、この容姿に適当な演技を加えて何人か の女を騙し、利用してきた経験があるのも事実だ。彼女がプロの売女ではなく、ただの少女がその道に手を染めてしまっただけだ としたら、まだ救い出してやることも出来るかもしれない。 その方が、俺の嫌な記憶も多少は払拭されるかもしれない。 「ねぇ、ノア。」 彼女は似過ぎているのだ。ロイの愛した、あの少女に。 「また、ここへ来てもいいかな?」 真っ直ぐにノアの瞳を見つめ、多くは語らない。他人を自分に惹きつける方法なら、腐る程知っている。 「駄目かな?」 エマの目尻が潤み、落ちたと確信する。 ただし、ロイに悟られてはいけない。もう少しこの街に居られるようロイを説得し、この少女を救ったら、直ぐに街を出ればいい。 この先、自分がロイの傍に居たければ、決してノアとロイを引き合わせてはいけない。 「ね、いい?」 危険な罠に敢えて乗る。照れたように女の笑みを浮かべるノアを見ながら、コートの合わせを握った。 「美味しかったよ、ありがとう。」 店を出たところで、後に続く彼女をふり返る。 「お代なんてよかったのに…。」 「いいんだよ。今日はお客として来たんだから。今度はお金の無い時に来るからさ。」 そう言うと彼女はくすりと笑って、 「分かりました。お待ちしてますね。」 と笑みを零す。 内気に振る舞っていた彼女の話を聞き、警戒を解しながら隣に座らせ目を見つめ、女が求めるようにしてやると、 彼女は徐々に笑顔を見せるようになった。 近くで視線を合わせ、知れば知る程「彼女」に似ている――――― 「アラン…?」 え、と口にする暇もなく、ふいに背にかかった声に、全身が凍りついて動かなかった。 「ロ、イ…。」 恐る恐る振り返る。身体に冷たい汗が流れる。 咄嗟に視線を外しても、さくっと草を踏み分け、店に続く小道からこちらに近づいてくる足音。 ロイは俺の様子には気づかず、すぐ後ろまでやって来る。 「お前、こんな所で何して…。」 「こんにちは。」 正面をすり抜けて、ノアがロイを覗き込む。頭の中で、警告音が鳴った。 「…!」 息を飲む、ロイの喉音が聞こえる。目を見開き、ノアを見つめるロイの目に、俺は何も言えなかった。唯、出会ってしまった。 俺の目の前で。 「…。」 いつも冷静なロイが、酷く取り乱していた。 「エマ…。」 漏れた言葉で、握りしめた掌に爪の先が食い込む。 「初めまして、ノアと言います。」 ノアは俺の背中越しに、そこに立ちつくしているロイに小さく頭を下げた。 「ノ、ア…?」 ロイはゆっくりとそう聞き返し、自分の想像した人物と違うことに、我に返ったように驚いた瞳に風た旅色が戻った。 「ロ、ロイ。この子だよ。俺が言ってた…。」 俺はくるりとロイに向き直り、焦るようにそう説明づける。 「あ、ああ…。」 ロイは俺の方はまったく見ようともせず、うわ言のような返事をしながら、唯目の前のよく知り得た顔の少女を見つめている。 「昨日はアランさんにお世話になって…。」 「ノ、ノアは飯屋をやってるんだ…。」 取り繕った自分の笑顔が滑稽だ。 「アランさんのお友達なら、またいつでもいらしてください。…えっ、と…?」 「ロイ、だ。」 いつの間にか、普段の仏頂面に戻っている。 「ロイさんも、是非。」 そう言って、ノアは柔らかい笑顔を見せる。 昨日のおどおどした彼女は、俺への警戒心を解いたことから、ロイへも同じように笑みを見せる。 その笑顔は、俺に、そしてロイにもよく知った笑顔だ。既に、俺の成したこと全てが悪い方向へ進み始めている。 「あぁ、そうする。」 そう言って、俺と共にノアに別れを告げるロイの瞳は、始終ノアを追っていた。ノアの髪を、肌を、目を。 それはノアを通してエマを見ている目だった。 無論、そこに「アラン」は映っていなかった。


Copyright (c) 2003 You Fuzuki All rights reserved.