創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
帰り道も、シャワーの前も、酒を飲んでいる間もそうだった。
「ロイ。」
「…。」
「ロイってば。」
「…。」
ベッドに腰かけ、ロイはずっと床を見つめたままでいる。
酒の瓶はいつものように手に持っているが、もう随分前から一口もそれを口に運んではいない。
考えているのだ。ノアのことを。
「ロイ!」
語気を強めて呼ぶと、ロイははっとしてこちらを向く。視線が交わったのが、とても暫くぶりのように思えた。
「…どうかした?」
知っていて、そう聞く。
「…いや。」
ロイが何を考えていたかは聞くまでもない。ロイは静かに席を立ち、蛇口から直接グラスに汲んだ水を、一度に口に運ぶ。
今日は、酒さえ碌に口にしていない。今日も少なからず人斬りの仕事を終えてきたはずだ。
人を斬った日の晩は、ロイは必ず俺を抱いた。
食事をし、シャワーを浴び、ほとんど会話を交わさずに酒を口に運ぶが、最近はその合間にも俺の独り言のような話に二、三口を
挟み、相槌をしてくれるようにもなった。
そして、一通り酒に満足すると、ロイは黙って俺を傍に呼び、そのままシーツに押し倒す。
抱かれている間は特に優しい訳じゃない。抱き方は男を買った客の抱き方だ。
愛を感じない、手荒い抱き方は変わらない。けれど、決して抱いた後の俺を捨て置く様な真似はしなかった。
身体を繋いでいる間は感じずとも、傍で肌を合わせている間は少なからずその愛を信じている自分がいる。
口づけも抱擁もしてくれる。そのことに、俺は求められている安堵を覚えていた。
ソファから腰を上げ、こちらに戻って来るロイに近づく。
「ねえ。」
喉の奥から出した撫で声と、こちらを見つめるロイの腰元に伸びる腕。いつもなら、これだけでロイは俺の腰を自分に引き寄せる。
「止めろ。」
耳に届いた言葉は俺の予想したものとは違った。ロイは俺が伸ばした手を振りほどき、俺の傍をすり抜ける。
「ロイ…。」
すっと音もなく離れたロイは、そのままソファに寝転がり、こちらに背を向けた。
「…もう暫くこの街にいる。」
ロイがぼそりと呟く。
「え?」
「金にはならないが、そこらのチンピラを潰していけば全く食えない訳でもない。」
俺は黙ってロイの話を聞いていた。
「…タダ飯の食える宛ても出来た。」
紛れも無く、ノアのことだと分かった。
「…。」
沈黙をこんなにも長く感じたのは初めてだった。ロイは背を向けたままこちらを見ようともしない。
言われずとも、ノアとエマを重ねていることは隠しようがなかった。
俺が何も言わずにロイの背を見つめていると、その気配を感じたのか、
「お前もさっさと寝ろ。」
と言ったきり、今度こそ口を噤んでしまった。
「うん、おやすみ…。」
俺は素直にベッドに寝転がる。いつもは俺を抱いた後に同じベッドで眠ることも少なくないが、今日は違う。だから分かった。
ロイが俺の為にわざとベッドを空けてくれたのだと。それだけで、俺はまた心に小さな針が刺さったような気持ちになる。
枕元のライトを消し、暗闇の中で横になると、背を向け合うような二人の間に長い静寂が訪れた。
ふと、暗がりの中で目を開ける。
広がっているのは、ただの見慣れた闇だった。
眠れなかった。俺だけじゃない。夜中に何度か寝返りを打つ音が、少し離れたソファからも聞こえていた。
だから、やっと俺の瞼が落ち始めた明け方、ロイが静かに部屋を出て行ったのも知っている。
ベッドから身を起こすと、部屋のテーブルの上に数枚の硬貨と札が置かれているのが目についた。ロイが昨日稼いだ金の一部を
分けておいてくれたらしい。
「金がないって言っちゃったからな、俺。」
そう一人で呟くが、零れた苦笑を拾ってくれる者はいない。優しさは直接与えられなければ、時に酷く心を苛む。
出掛けに眠る俺のシーツをかけ直したり、こうやって何気ない文句を聞き入れてくれるようなロイの優しさは、
いつも言葉を交わすことなく与えられる。
気がつかないように施されるそれに一人きりで気付いた時、まるで鎖のように、いつも俺をロイに縛り付ける。
日が程よく昇り、宿の外が騒がしくなり始めてから、俺はシャツを羽織った。
行く宛ても外出する用もなかったが、ロイのことが気になった。
探しに行く必要などない。何処にいるかは分かっていた。
「おじさん、プラムある?」
俺は先日立ち寄った果物店の前にいた。俺の声に店の奥から髭の豊かな恰幅のいい男が出てくる。
「ああ、この間の兄さんか。」
「覚えてるんだ?」
少し、驚いた。
「俺ぁ、店に来た客の顔は皆覚えてるぜ?この間のプラム、気に入ったのかい?」
「ああ。上手かった。」
俺はロイの残してくれた金で、先日食べたものと同じプラムを三つ買うと、店の店主に礼を言い、ノアの家へと向かった。
ノアの小屋は街外れの森の入口にあった。決して客入りの良い場所ではなかったが、店を続けられる程度には客の出入りはある
らしい。小さなログハウスのようなそこへプラムの袋を抱えて近づく。店の扉を開ける前に、外から中の様子に耳を傾けると、
ノアの声とは別に、よく聞きなれた男の声がしていた。
「大したものは出せませんけど…。」
「いや、食えれば何でもいい。」
相変わらず愛想のない言葉でそう返している男を扉の陰からそっと窺う。下手に目立てばロイには気配ですぐに気付かれてしまう
ので、ほんの一瞬だけ中を窺う。昨日の俺と同じように、カウンターの向こうにいるノアを見ながら、出された酒の瓶を握って
いるロイが少し離れた席に腰を下ろしていた。じっと、ノアを見つめている。
「名を…何て言った。」
ロイが言う。
「ノアです。」
「ノア…。…そうか。」
ロイはそう言ったっきり黙り込むと、一口酒を運んだ。ノアはエマではないか。そう思っても不思議はなかった。
「誰かに、似ていますか?私。」
「あ?」
驚いたように顔をあげたのは、ロイだけではない。俺もそうだ。ロイを見ているノアの目は、困ったように笑っている。
「そんな顔、してたから。」
「…。」
そう言って、ノアはまた手元の料理に視線を戻す。ロイは酒の瓶を見つめたまま口を引き結んだ。
「アランさんも、同じことを言ってました。」
ふと、そう切り出されたノアの言葉にどきりとする。まずい、と思った。
「アランが?」
俺は堪らず、勢いよく店の扉を開けた。カランと扉の鈴が揺れる。
「アランさん。」
同時にこちらを振り返ったノアとロイの視線が俺に注がれる。俺は直ぐさま笑みを張り付け、
「朝飯のついでにお土産。」
そう言って買ったばかりのプラムの袋を顔の横で掲げる。ノアはその言葉に笑顔を浮かべたが、ロイは無表情のままだった。
「ちょうど三つあるよ?」
俺は店に入り、ロイを見た。
「ロイも来てたんだ。」
そう言うと、ロイはちらりとこちらを見て、すぐに目を反らす。
「腹が…減ったんだ。」
言い訳のような言葉。それでも苦しい言い訳以外はその口から紡がれることはない。
ロイは俺がエマとノアが似ていると言う事実を知らないと思っているのだから。
無意識な後ろめたさもあるのだろう、ばつの悪そうな顔でそこに座っている。
「たまたま仕事で通りかかったんですって。アランさんも座って下さい。今、食事の用意をしますから。」
ノアはカウンターの向こうでそう言うと、手慣れた様子で食事の準備を続けた。既に肉の焼ける香りが漂っている。
俺はロイの隣の席に腰を降ろした。
「収穫あった?」
「いや、まだだ。」
短くそう言うロイは、テーブルの上に酒と共に出されたのだろう、臥せられたままのグラスに俺の分の酒を注いだ。
朝から酒を飲む気分でもなかったが、出されるままに口に運んだ。
「今朝、改めてお会いした時はびっくりしました。刀を下げてらっしゃったので…。」
「あ、これは…。」
何て言い訳しようかと口を開いたところへ、ノアが全て心得ていると言った顔で口を挟む。
「護身用なんですってね。旅の方ですものね。」
ロイを見てそう言うノアに、ロイはあぁ、とだけ呟いて口を閉じる。
「まあね。」
俺もそうノアに笑い掛け、ちらりと隣のロイを見た。
「へぇ…。」
何が護身用だ。毎日のように人を斬る刀だ。ロイは俺の視線に気づいて小さく舌打ちをした。
「うるせぇ。」
「どうぞ。」
ちょうどその時、ノアがカウンターの向こうから料理の乗った皿を運んで来た。肉の切り身が挟まれたパンが二切れずつ、
俺たちの前に出される。
「今スープも用意しますね。アランさんのプラムも一緒に頂いて…。」
「いや、俺はいい。」
ノアの言葉を遮って、ロイが席を立つ。俺とノアは立ちあがったロイを見た。
「そろそろ仕事に戻る。」
そう言って出されたパンを掴むと、ロイはそのまま扉の方へと歩いて行く。
「…また来る。」
店を出る前にそれだけ言って。
「私、何かしましたか?」
ロイが出て行った後、ノアが困ったように俺を見る。俺は直ぐに柔らかい笑顔で彼女に言った。
「いや、ロイは甘いものが好きじゃないだけだよ。」
と。どうせ俺の言葉が気に障らなかったか、俺が来たことで本当に確かめたかったことが分からなかっただけ、
と言うところだろう。
カウンターの向こうで眉根をすっかり下げてしまったノアに、俺は
「気にしなくていいよ。」
と笑うしかない。ノアは少し顔を上げて心配そうにこちらを見ている。
「ね?」
もう一度笑顔を向けると、ノアは安心したように笑って、
「…はい。」
と呟いた。
まるで普通の少女だ。この少女があの忌まわしい薬と関わっているだなんてとても想像がつかない。
―キシトローム―
俺はノアが出してくれたサンドイッチを口に運びながら、店の北側にある小さな小窓から外を覗いた。
森のある南側とは違い、林のような草原を抜けた向こうに宿のある街が見える。こうやって少し離れた場所から見ると、
街の景観はデュノムの街によく似ている。
『誰か助けて。』
懐かしさよりも、幼い頃のおぞましい記憶を思い起こさせる。
『嫌だ…っ。その薬は嫌…!』
頭の中でスパークする記憶は身体の震えになって現れる。窓から視線を逸らし、震える指で皿の上の食事を黙々と口に運んだ。
「アランさんも何かお仕事を?」
ふいにかけられた声に顔を上げると、ノアがこちらを見ていた。咄嗟に笑みを浮かべる。
「あ、うん。まあ…商売屋みたいなもんだよ。」
ロイのことを言えないな、と思った。商売屋、などとは大嘘だったが、あの薬のルートを知るには都合のいい嘘だ。
「ねぇ、ノア。」
洗い物を終えてカウンターからこちらに回って来たノアに声をかける。
「この間君が探してた小瓶の中身だけど…。」
ぴくりとノアの肩が上下する。警戒を解くため、笑顔を絶やさずに続けた。
「俺、薬の商売をやってたこともあるから、名前くらいは知ってるんだ。匂いも独特だしね。」
「…。」
「媚薬…だよね?」
ノアは黙ったまま答えない。俺はとりあえず、とノアを自分の座る席の正面に腰かけさせ、言葉を続けた。
「どうして君がそれを?」
「…。」
「ノア?」
「ごめんなさい。」
持っていたことではなく、これ以上先を話せないことにだと直ぐに分かった。
「…いや、いいんだ。気にしないで。」
そう甘くはないということか。
席を立ち、食べ終えた食器を店のカウンターに置くと、傍にあったプラムの袋をノアの前に差し出した。
「食べない?女の子って、甘いもの好きなんだと思ったんだけど。」
そうおどけたように言うと、ノアはやっと頬を緩めて
「えぇ。」
と笑った。
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