創作小説

蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―

  『あなたの為に死んだら―――――』 瞑った瞼の裏で、自分に縋りつくノアの姿が映る。その姿は暗闇の中でよく似た少女の姿に変わり、縋りつかれた自分はロイへと 姿を変える。死んで愛を得られるのなら、俺は遠く遡った過去のあの日に死を選んだ。 「…っは、あ…。」 寝苦しさに身体を起こすと、直ぐ傍にロイの顔がある。 硬い腕が自分の背へと回っており、抱きすくめられる形で眠っていたらしい。 俺は回された腕をそっと解き、ベッドの脇に腰を下ろす。ノアの店から宿に引っ張られるように戻ってきてすぐ、 ベッドに押し倒され、何時の間にか気を失った。ロイがこんな風にしっかりと自分に腕を回して眠ることなど早々ない。 そっと腕を伸ばして、起こさないように指先だけで汗ばんだ額を撫でる。 胸の奥から湧きおこってくる気持ちは、きっと愛しいと思う感情によく似ているのだろう。そっと指先でロイの黒髪を撫でる。 よく眠っているらしく、起きる様子はない。以前なら、人の気配だけで刀に手を伸ばそうとしていたロイが、自分と二人の時は 随分と信頼を傾けてくれるようになったと思う。 口にしたことは一度もないが、それが嬉しくて仕方ない。 『愛してるって、信じてくれる?』 ロイの肩に、いつも自分がされるようにそっとシーツを掛け直す。枕元の窓から外を見上げると、まだ暗く沈んだ空が見える。 ノアは、どうしているだろうか。 宿に帰ってきてすぐ、ロイは俺のシャツに手をかけながら 「あの女には二度と近づくな。」 とそう言った。その時は唯、無言でロイの言葉に頷いたものの、放っておける訳もなかった。 彼女の姿は、彼女を知れば知る程いつかの姿に重なって行く。 俺は水差しの水を口に含み、深い深呼吸を一つして、またシールに潜り込んだ。その振動で、ロイが目を開ける。 「あ、ごめん。起こした?」 「いや…。」 そう言って、重い瞼を少しだけ開けて、ロイはまた俺を自分の腕の中に抱き寄せる。 身の丈の差などほとんどないのに、引き寄せられるままに身体を合わせると、ロイの胸板に頬を寄せる形になり、 隙間なく密着した肌が心地いい。 いつの間にかまた寝息を繰り返すロイの緩やかな心音に、俺もいつの間にか目を閉じていた。 次に目を開けると、俺よりも先にロイがベッドから這い出していた。 既にシャワーも浴びたのか、いつもの黒いズボンだけを身につけて、少し蒸気した肩からタオルを下げている。 身体を起こすと、ロイがこちらに自分の持っていた水差しを差し出す。俺は礼を言ってそれを受け取る。 「何か食べ物を買ってくるよ。」 そう言えば昨日は朝から何も食べていない。一息ついて頭が覚醒すると腹が減っていることに気づく。 足元に落ちていた服を拾い上げると、ロイが暫し考えた後。 「俺も行く。」 とぶっきら棒に呟いた。 「…大丈夫だよ。ノアのところには行かないから。」 そう言うが、まだ何か言いたげにしているロイを見て、もう一度大丈夫、と言う。 「真っ直ぐ帰ってこい。」 らしくない言葉に笑って頷きながら部屋を出た。宿の扉を閉めるまで、ロイはじっとこちらを見ていた。 ロイには悪いと思った。けれど、朝の市で賑わう人ごみを流れるように抜け、途中で適当にパンとロイの為の酒を買った後、 どうしても気になってノアの店の前に来ていた。まだ店を開ける時間ではない。ノアを見かけたとしても、 店を開ける準備をしている頃だろうか。どちらにしても、逢える可能性は低い。むしろそれを望んでいた様にも思う。 市の人ごみを抜け、揉み出されるように脇道の角を曲がる。細い通路を道なりに進むと、人気が少なくなると共に背の高い林の木 が見えてくる。その下にノアの小屋があるのだが、俺は細道から裏街と言われる薄暗い通りへ抜ける道の途中で、その暗がりの奥 にまだ朝早いと言うのに佇んでいる女の姿を見かけた。こんな時間から売りの仕事をしている訳もないだろうと、ついそちらを 覗いて驚いた。 「あれ…ノア?」 よく知る赤毛がその角で揺れている。俺はよく確かめもせずその横顔に声をかけた。 「おーい、ノ…――――」 ノアと思われる少女と共にいた男の姿に、俺はぐっと息を呑んだ。赤茶色のシャツと、顔にかかる長い黒髪を縛った男。 見覚えがある。いや、見忘れる訳がない ―エリガルー 「…っ。」 俺は気付かれないよう、静かに数歩後退る。ノアは未だにエリガルと何か言葉を交わしている。 俺は曲がってきた角に隠れると、そのまま弾けるように脇目も振らず、その場を走り去った。 エリガルが、何故この街に。 昔、売りを始めたばかりの頃、自身の惨めさに奴の元を逃げようと試みたことがある。 まだ十五になったばかりだったが、エリガルがそれを許さなかった。 いや、正確にはランネルがそれを許さなかったのだ。 『嫌だ…!離して、離して!』 その晩だった。初めてエリガルに触れられたのは。言わば、俺の最初の客だった。 肌を撫で回されながら、泣くことなど既に諦めていた。


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