創作小説

蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―

  「ここは…?」 俺達は随分と古びた建物の中にいる。埃ときな臭さの充満するそこへ、ロイは躊躇いもなく入って行くので、 俺も後に続く形でついて行った。 「街の人間が言うには、たまに薬の売買がされる場所らしい。元は賭博場だと聞いた。」 ボードの広げられた後のある机をひっくり返して、ロイが言う。 崩れるように倒れた机は、もう寿命だったのか倒れた衝撃と共にぽきりと足を追って床に転がった。 「随分と朽ちてるね…。」 全面木造だとかレンガだとか言う訳でもなく、張りぼての様な外観を見立てた石造りの裏は木の柱がむき出しになっており、 内装の雰囲気からそう年月は経っていないのに崩れてしまったかのように見えた。 「いねぇな…。」 一通り中を見回ったロイはきっぱりとそう言う。俺は情けなくもびくびくしながら辺りを見て回っていたが、ロイは気配がしない、 と言い切って早々に切り上げようとする。 「行くぞ。」 俺は慌ててロイの後を追う。 「何処にいるんだろ。…エリガル。」 「俺が何だって?」 「「…!」」 二階から降りると、建物の扉に凭れかかる人影がある。背筋が凍る。 「よお、ロイ。久しぶりだな。」 「エリガル…。」 エリガルは俺のことなど眼中にないかのようにロイに無邪気な笑みを見せる。 ロイはいざ対面した奴に苦虫を噛み潰したような顔をしている。 「ったく、何も言わずにデュノムの街を去るなんて、相変わらず冷たい奴だな。」 「…。」 「お前を捜す為にやっと持った店潰して来たんだぜ?」 エリガルは胸ポケットから一本タバコを取り出して加える。 昔から変わらなず吸っているそれが、麻薬の類だと知っているのは恐らく俺だけだろう。 「放っておいても潰れてただろうが、あんな店。」 「おいおい、随分な言い方だな、っと…。」 まるで、そこで初めて俺に気づいたかのようにこちらに目を配る。 視線が絡むと俺は動けなくなったが、その様子ににやりと口の端を上げたエリガルから、わざとそうしていると分かる。 胸糞悪くて仕方ない。 「何だ、ロイ。うちの上玉はお前が預かってくれてたのか。」 びくりと身体を震わせた俺を見て、ロイが眉根を寄せる。 「いや。こいつはもうお前の売り物じゃねぇ。」 エリガルは未だ薄笑いを浮かべたまま言う。 「へぇ…。惚れたか、そいつに。」 「…。」 エリガルが険しい目でその動きを視界の端に捉えていた。 「そうか。」 でもな、とエリガルが言う。後ろ手でパタリと扉を閉めると、薄暗い密室の中でエリガルの声だけが低く響いた。 「俺もだ。」 それは聞くまでもなく、エリガル自身の俺への視線が訴えていることだった。 激しいまでの愛情と、殺人的な独占欲。 今まで自分を抱くどの男からも感じて来た。ロイだけが、その想いに愛を添えて手渡してくれた。しかし、この男は。 「…渡せ。」 一瞬の沈黙の後、エリガルが呟く。眼光が鈍く俺を捉えたままだ。ロイが俺の前に立つ。 「アランはそれを望んじゃいねぇ。」 後ろに回した左手で、俺の腕を掴む。思わずロイを見上げ、泣き出しそうになった。 「元々うちの男娼なんだよ、そいつは。雇い主のところに帰るのが筋ってもんだろ。」 「俺はお前のところには帰らない。」 ロイに触れたまま、その肩口から声を絞る。エリガルの目が、また鋭く俺を捉えて身震いしたが、 それを察したロイが握った腕に力を籠める。 「吐かせ。お前にそれを決める権利はないだろう。」 「…俺はお前から逃げたかった。だからジェフの身請けを受けたんだ。お前さえいなかったら俺は―――」 「お前は売男だろう。」 俺はぐっと言葉に詰まる。勝手気ままに身体を売る男娼ならともかく、一度雇われて身体を売れば、俺は唯の商品だ。 「それなら俺がこいつを身請けする。」 「ロイ…。」 身を乗り出し、隣に立つロイを見上げた。その目はエリガルに向けられている。 「二度とこいつに身体を売るような真似はさせねぇ。それでいいだろう。」 「一文なしだろうが、お前。」 エリガルがため息交じりに言う。身請けなど、そんな関係でロイと結ばれていたい訳ではない。けれど、いまの俺に選択権はない。 「身請けするってんなら、俺からアランを買うってことだぜ?そいつはうちの商品だからな。」 エリガルが嘲る様に笑う。 「払えんのかよ、金。」 ロイの刀がかちゃりと鳴る。 「てめぇ…。」 「筋は通せよ。」 有無を言わさぬ言い方に、ぐっとロイが言葉に詰まる。 「…分かった。」 そう言って、ロイが手を伸ばした先に、はっとした。ロイは腰から刀を引き抜き、エリガルに投げ渡す。 「これを持っていけ。」 「ロイ!」 俺の言葉を無視してロイが続ける。 「使いこんであるが、今まで刃も欠けずに保った名刀だ。アランの値段にはお前の店で飲んでいた酒一杯分くらい、 足りねぇかもしれねぇがな。」 エリガルは受け取った刀を舐めまわすように見る。刀などに興味などないだろうこの男が薄ら笑いを浮かべる。 「へぇ…いいのか、お前。」 エリガルは値段がどうと言うことよりも、この刀を手放したロイが面白くて仕方ないと言うように、にやりと笑って見せる。 「さっさと持っていけ。」 「ロイ!」 ロイは俺の目を見なかった。表情はいつもと変わりなかったが、その拳は強く握られていた。 「いいんだよ。」 お前には変えられねぇ。その言葉に思わず息を止める。 「でもなあ、ロイ。」 エリガルはロイの刀を頭上に掲げる。窓から差し込んだ西日がロイの刀に反射して眩しく光る。 その光の下に垣間見えたエリガルの表情に、俺は酷く嫌な予感がした。 「俺が欲しいのはアランなんだよ。」 振りあげられた刀が、今度は勢いよく床に叩きつけられる。ロイが我慢出来ずに、ぐっと一歩前に乗り出す。 「エリガル…!」 エリガルはロイに向かってまた嫌な笑みを零す。何より、エリガルのその表情にロイは歯を食いしばって耐えていた。 「でもまあ、お前と刀を交えたって俺は勝てねぇだろうから…。」 ロイの刀を脇へ蹴遣り、背後をふり返る。その視線を追うように俺もエリガルの向こうを覗き込んだが、 ロイは既に鋭い目でその先を睨んでいた。 「こいつとならどうだ?」 開いた扉から、長い赤毛が棚引いて覗く。 「…ノア。」 「こいつと一線交えて見ろ。…と言っても、この間こいつの店でいいものを見させてもらったばかりだがな。」 エリガルの横に並んだノアを見て、ロイが渋い顔をする。 「お前…。」 「斬れなかっただろう。この女を。」 エリガルはノアの顎を掴んで顔をロイの方に差し出す。ノアは無表情でされるがままだ。 「似てるんだろう?あの売られて行った女に。」 今度はロイが息を呑む。俺は思わず目を逸らした。 「…!何故、お前がエマを知っている。」 ノアから手を離し、エリガルはポケットから煙草を一本取り出して加える。マッチの先で火をつけ、余裕な表情を浮かべて、 ゆっくりと煙を燻らせる。 「知りたいか?でもまあ、俺はあの方から話を聞いたことがあるだけだ。その女に会ったことはねぇ。」 「…ランネルか。」 ロイが呟く。その名に、一瞬身が竦む。 「それに、昨日のお前たちの話を聞いていれば大抵のことは察しがつく。」 エリガルは見ていたのだ。ノアの店でロイとノアが刀を交えたことを。 「ほら。殺れよ、ロイ。その男の為に、好きだった女の顔を斬ってみろ。」 「…くっ。」 「どうして、ノア。」 俺は睨み合うエリガルとロイの横で、ただ何の感情も浮かべないノアを見つめた。 「あたしはアランが欲しいの。ロイさえ居なければ、あなたが手に入るかもしれない。」 その目は、唯俺だけを見返してくる。ぞっと背筋が凍る思いがした。ノアがゆっくりと胸のポケットから小刀を取り出し、 その切っ先をロイに向ける。 「ノア。」 ロイは自分に向けられる刀の先に、ノアを見ているのだろうか。それともエマを見ているのだろうか。 「早くしねぇとこの建物もやばいぜ?」 唐突にそう言うエリガルに、俺達は眉を潜めた。ロイが低く呟く。 「何をした。」 エリガルの吐き出した煙が徐々に室内に立ち籠める。 「ここの裏の柱を一本抜いて来ただけだ。さっさと済まさねぇと勝負の決着に関わらず、俺達皆全滅だぜ。」 言われてちらりと天井を見上げる。そう言えば、先刻から揺れてもいないのにぱらぱらと埃が舞い落ちて来る。 ノアが一歩前に出る。それを見て、ロイが構える。刀は、ロイからもエリガルからも遠い。 「アランはあたしのよ。」 笑った顔は、いつものノアの笑顔ではなかった。執りつかれたように歪む頬には憎しみが浮かんでいる。 ノアが刀を頭上に大きく振りあげた。 「ロイ!」 俺の叫びを振り切って、ロイが刀を振り下ろす。思わず一歩踏み出した俺を制して、ノアの刀はロイの肩を掠めた。 じわりとシャツに血が滲む。 「…ちっ!」 刀がなくては振りだと言うことは言うまでもない。ロイも上手くノアの刀をかわしてはいるが、そう長くは続かないだろう。 振り下ろされる刃を避けながら、ロイが自分の刀に近づこうと目配せをするが、ノアがそれを許さない。 ロイの刀を自分の背後で守るようにして斬りかかる。 何とかロイの刀さえ拾えれば。 いつかのように走り寄って、一か八か刀に手を出せば、ロイの元まで届くだろうか。 そんな俺の考えを呼んだのか、注がれる視線に気づいてそちらを見ると、エリガルがナイフをシャツの脇からこちらに向けている。 動けば殺すと言うかのように。 エリガルの直ぐ脇にロイが追いやられ、ノアが刀を振りあげる。エリガルはノアとロイを見比べて言う。 「死ね、ロイ。」 ノアとの戦いに夢中だったロイには、エリガルの刀が見えなかった。 殺気を感じて振り返ったロイの体を、エリガルが斜めに斬り裂く。 「ぐ、あぁ!」 「ロイ!」 飛び散った血を目で追う暇もなく、今度はノアが刀を振りあげた。 「くっ…!」 「ロイ…!」 ノアが刀が追いやられたロイに振り下ろされる。刀が落ちる瞬間、俺は駆け出し、エリガルは笑っていた。 赤い血が、西日を注ぎ込む窓を真っ赤に染める。刃から鮮血の滴り落ちる刀を抱えたノアの前には、 「な、に…?」 エリガルが立っていた。 「ごめんなさいね。」 ノアの手に握られたあの小刀が、エリガルの胸を貫いていた。 「ノア…?」 そう呟いて、つっとエリガルの口から鮮血が零れる。ロイも俺も驚いてその様子に見入った。 「ロイを殺して、あたしはあなたに殺される計画だったのかしら。」 ノアが呟く。エリガルは壁に沿って身体を崩しながらまた血を吐いた。 「悪いけど、先に死んで頂戴。」 「お、前っ…。」 苦しげな息と共に吐き出した恨みの声は、それだけを零すと息絶えていくエリガルに従って消えて行く。 倒れたエリガルの体の上に、崩れ始めた天井の砂が振りかかる。 がたんと大きく建物が揺れて、遠くでまた一本柱の倒れた音がする。 骸になったエリガルを見遣りながら、ノアが言う。 「早く逃げないと、潰されちゃうわよ?」 自嘲気味にそう言うノアの目を見て、俺はノアが何を考えているのかがすぐに分かった。人を殺めてのうのうと生きていけるほど、 彼女は完全に自分を見失った訳じゃない。 純粋なまま、今ここに立っている。 「本当は、あたしじゃ駄目だって分かってたの。」 「ノア。」 「だって、アランはあたしを愛してないんだもの。」 「お前…。」 「あなたに任せるわ。彼のこと。」 そう言うノアに、ロイは黙ったまま小さく頷く。ノアはロイの刀を拾って、それをそっと胸に抱いてから、ロイに手渡した。 「父の形見なの。大切にして。」 「あぁ。」 ノアは俺達からゆっくりと身体を離す。崩れ始めた天井の瓦礫が、俺達とノアの間にがさりと落ちて煙が舞う。 床に穴が空き、建物が傾き、扉が軋む。 「ノア。」 俺がノアの元へ一歩歩を進めると、彼女はそれを制しするような穏やかな声で呟いた。 「アラン。」 彼女の笑顔は、やはり自分のよく知っている少女にそっくりだった。 ノアはふわりと頬を緩め、俺を見つめて呟いた。 「愛してた。」 と。 ――――――――それは、本当に愛だったのか。 「ノア!」 俺の叫び声を掻き消すように、建物が大きく軋んで、古い賭博台がひっくり返る。 今度こそ上の階ごと落ちて来た瓦礫がノアの傍で無残に崩れた。 「ノア、ノアッ…!」 ロイが、俺の腕を掴んでドアの方へと引っ張った。天井が崩れ、床が割れた。 『あなたの為に死んだら、』 「アラン、ここは危ねぇ!」 ロイが叫ぶ。外への扉が瓦礫に埋まろうとしていた。 「でも…!」 『私が本当に』 「アラン!!」 ロイの怒声と共に掴まれた腕に従って、俺は笑ったまま立ち尽くすノアからどんどん遠ざかる。 『あなたのこと愛してるって、』 彼女は生を諦めていた。よく知る笑顔がそこに浮かんでいる。 「ノアァァァ!」 『信じてくれる?』 大きな瓦礫が目の前で崩れ落ち、ノアの笑顔を押し潰した。 ロイに手を引かれ、扉を出る瞬間、瓦礫の下のノアの白い手が何かを掴むように宙を切る。 ロイは、一度も後ろを振り返らなかった。 俺は、瞬きすら忘れていた。 ―――――心の何処かで、彼女の死が愛ではないと叫んでいた。 彼女に言った言葉を思い出す。それは、愛じゃない、と。誰かを傷付けて得るものは愛じゃない。 ノアは俺を愛してなどいなかった。 愛じゃない。 愛なんかじゃないのだ。


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