創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
「…ア、ラン。」
浅い眠りの最中、頭上から聞こえた声に目を開ける。眠った頃には暗かった室内が、差し込む日差しで明るく白んでいた。
「ロイ!」
飛び起きてベッドの上を見上げると、身体を横たえたままのロイがこちらを見下ろしている。
「アラン…大丈夫か…。」
「ロ、ロイこそ!大丈夫?傷は?痛くない?喉は乾いてない?」
俺が縋りつくように身を乗り出すと、ロイは力なく笑う。
「一度に聞くな。大丈、夫だ…。」
俺はその言葉にほっと胸を撫で下ろし、傷に触らないよう、ゆっくりとベッドの端に腰かけた。ロイは俺から目を逸らし、
天井を見上げると。ゆっくりとまた口を開いた。
「ランネルを探しに行く。」
ロイの顔を見つめる。予想していたことに、小さくため息を吐いた。
「確証はないが、エリガルの口ぶりから、エマを買ったのはあの男だ。」
ロイは悔し気に唇を噛む。知らずともあの男の言うことを聞き入れて人を斬っていた自分を許せないのだろう。
「でも、何処にいるのか宛てが…。」
「ノアが言っていた国を左右する裏の力って奴は、恐らくランネルのことだ。」
「え?」
ロイの声は掠れていて、空気を切るようにして響いた。喉の傷が触っているのだろう。
「前に、奴の屋敷で見たことがあるんだ。大量の金と、国の契約書だ。」
「契約書?」
自分はランネルの下に居たと言っても、主にエリガルに雇われていた。奴の身の回りのことについてはここ数十年、
ほとんど何も知らないと言っても過言ではない。
「国を買うためのな。」
ロイの言葉に、俺は耳を疑う。
「国を買う…?」
「買うと言っても、この国を支配するなんて夢のような話じゃない。
唯奴の仕事で必要な物資の密輸に関わる街を金で買収しようって訳だ。」
薬や売りの蔓延る時代だ。ランネルには都合のいい街がいくつも点在する。
「奴ならやりかねない。金と権力、それとあの狡賢さでいくつもの富豪を圧しているのは今に始まったことじゃない。」
確かにそうだ。奴は自分よりも豊かな人間を潰すことで都美を得て来た。それを自分が一番よく知っている。
「奴がデュノムの街を拠点にしているのなら、恐らく、ここからずっと南の果てに、あいつはいるはずだ。」
南の果て。俺達の目的もそこだ。
止めても無駄だろうと思う。エマのことがある以上、ロイは引き下がることなどないだろう。
どちらにしても奴から逃げられないと言うのなら、向かうしかないとも思う。
「…分かった。それならロイの傷が癒えるのを待って…。」
そう言いかけた俺に、ロイは浅い息を止めて言う。
「いや、出発は明後日だ。」
「な、無茶な…!」
思わず身を乗り出した俺を、ロイが見つめる。その目の色の深さに、言葉尻を呑んだ。
「それと、」
ロイがそこで言葉を切る。一瞬訪れた静寂に、俺はもう一度息を呑む。
「お前はここに残れ。」
「え…?」
それは、予想もしなかった言葉。ロイは俺から目を逸らし、ゆっくりと目を瞑る。
「ランネルの居場所を突き止めたら、必ずここへ戻る。」
「何で!俺も行く。どうせ俺たちが目指していた場所だって南にあるんだ。そう、ロイが言ってたんじゃないか!」
「だからだよ。」
ロイはゆっくりと目を開ける。傷が痛み始めたのか、額に汗が滲んでいる。
「あいつを倒さずには、次には進めない。」
苦しげに顔を歪めながらも、ロイの目は真摯に俺に向けられる。
「頼む。俺一人で行かせてくれ。」
「で、でも。」
「この街で、待っていてくれ。お前に…その気があるのなら。」
「…。」
そんなことを言われれば、待っていない訳にはいかない。それでも、
「頼む。」
酷く胸にずっしりと来る言葉。何を言おうと意志を曲げない。それがロイだと俺が一番よく知っている。
「でも、まだ傷も癒えてないじゃないか。その傷、もしかしたら喉に達して、」
「アラン。」
せめて傷だけでも直して、そう言おうとしたが、ロイの目の色は変わらない。何と言おうと無駄なのだ。
「心配しなくていい。必ず、帰る。」
「…っ!俺は…―――」
最後まで、言い続けることが出来なかった。唯目を閉じると、ロイの腕が髪に伸びる。
「今日はもう寝ろ。そして、」
ロイの横たわるベッドに頬を埋めると、ロイの手が何度か頭の上を行き来し、やがてシーツに落ちる。
「忘れるんだ。」
そう言ったきりロイは、二日間ずっと眠り続けた。傷のせいで噴き出した熱の看病をしてやりながら、
目覚めたらここを出て行くであろうロイの顔を、俺はずっと眺めていた。
これで最後になってしまうような気がして、不安でならなかった。
「おはよう、ロイ。」
目覚めると、窓から差し込む日差しの中で、シャツを羽織るロイが居た。
「あぁ。」
痛々しい包帯の上にシャツを羽織り、自分の身支度を整えると静かにこちらに向き直った。
「行くの?」
「あぁ…。」
差し込んだ朝日が照らす背中は、同じ男の自分よりも逞しく、唯凛と立つ。
「俺、待つよ。」
ロイが振り返る。
「アラン。」
離れることに抵抗が無い訳ではなかった。本当は、あの頃のようにまた逢えなくなってしまうのではないか。
そう思うと、もう二度と離れたくない。
「だから―――」
必ず、帰って来い。
「待ってろ。必ず帰る。」
ロイは小さく頷く。ロイは俺の腕を引いて自分の肩の上に頭を抱くと、囁くように言った。
「俺以外の男に抱かせるな。」
俺は返事の変わりにロイのシャツをそっと掴む。
「絶対だ。」
まるで、それを誓わせるかのように俺の髪に指を差し入れ、耳元で静かに言う。その言葉が、俺をどれだけ自分に縛りつけるのか、
ロイはこの時知っていたのだろうか。
「…ロイ。」
抱かれた腕からそっとすり抜け、ロイの目を覗き込む。帰って来ると言う言葉を信じていた。
けれど、俺を縛りつける言葉の変わりに、欲しい言葉があった。
「愛してる。」
そう言った俺に、ロイは一瞬躊躇って、困ったように笑った。
「…あぁ」
そうじゃない、そうじゃないんだ。
「ロイ―――」
欲しい言葉はそうじゃない。
ロイは俺の腕を解き、腰の愛刀を俺に手渡す。
「持っててくれ。必ず帰る。」
「でも、刀がなくちゃ…。」
「なくても何とでもなる。お前にもしもの時があれば必ず使え。」
そう言って、部屋の扉へと歩いて行く。大切な刀を俺に託して。
「行って来る。」
振り返ったロイは、目を細めて暫くこちらを見つめると、踵を返して静かに部屋を出て行った。パタリと閉まった扉の音だけが、
俺が残された室内に響く。
俺は部屋の窓を開け、階下を見下ろす。日差しの中を、南の外れへと去っていくロイの姿が目に映った。
「いつか、きっと愛してくれる。」
気づけば、遠ざかっていくロイの背中を見つめながら、小さな声でそう呟いていた。
いつか、きっと。
まだ、待てる。十三のあの日から、あの男だけを待ち続けた。まだ、待てる。
愛をくれる、その日まで。
――――――――あの日、全てひん剥かれて自分の裸体を曝し、思った。
身請けとは保障であり、自由ではないと知っていた。
この男のものになってしまえば、もう本当に、二度と自由を手にすることは叶わない、と。
だから、驚くなんてものじゃなかった。今でも鮮明に思い出せるのだ。
ジェフを斬ったロイを見たあの瞬間。
気付けばその背中に声をかけていた。
『ねぇ、お兄さん』
溢れた涙は、再会の喜びなのか、縁への感謝なのか、業への悲しみなのか。
『俺、行くところがないんだ。』
行くところなど、居場所などずっとなかった。
だから、求めていた。この男が「もう一度」俺を救ってくれるのを。
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