創作小説

蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―

――――――――――五年経った今も、俺はまだこの街にいる。 少し前に、ノアがいたあの店を少ない資金で買い取った。だが、別にあの場所に住んでいる訳ではない。 ただ、せめてもの償いに彼女の想いの詰まった場所が朽ちてしまわないよう、番をしているようなものだ。 崩れたカジノ場の外で、ノアの小刀が埃を被っていたのを拾っておいた。今は、それもこの店に収めてある。 たった一人であの場所に足を踏み入れることは、もう二度とないだろう。 その日から、俺はまた男に買われている。売っているのか、買われているのか、それとも飼われているのか、 今の俺には分からない。 ただ、身体を売りながら心の何処かで待っていることは自覚していた。 あの男が戻って来るのを。 「やあ、アラン。また来たのかい。」 「あぁ。今日も、ある?」 「ちゃんと取ってあるよ。あんたが来るだろうと思ってさ。」 八百屋の主人とはすっかり顔見知りになった。ノアが言っていた通り、街はこの五年の間に随分と荒れ、市民が長閑であることに は変わりなかったが、一歩裏の通りに入れば、如何わしい店や邪な輩の屯している場所が増えた。 そのおかげで俺は金には困っていなかったので、満足過ぎるほどの生活が可能だったが、時たまこの店に顔を出しては、 借りた宿で自分の作った食事をすることもあった。 「今年はこれで終わりだろうよ。」 そう言って主人は毎年同じ紙袋を手渡す。 「あぁ、ありがとう。」 「そんなに好きなのかい、それが。」 「まあね。」 大柄な容貌に似合わず温厚な主人は、この街に居座るために必要な物資や店の場所、街の地図を、面倒見よく俺に与えてくれた。 定期的に俺の身の回りをよく世話してくれるが、今まで一度も仕事や金の稼ぎ口について聞かれたことはない。 恐らく気付いているのだろうと思ったが、俺は当然、主人もそれについて切り出したことは一度もない。 「また来年も頼むよ。」 そう言って手を振る主人に、俺も片手を上げて返事をする。 「来年、か。」 あの主人にそう言われるのも、もう何度目だろう。 初めの頃は、「来年は無理かもな。」なんてあの男の帰りを思い浮かべて笑っていた。 しかし、今ではもうこの先の一年も、同じようにあの店でプラムを買う自分の姿しか思い描けない。 何故、帰って来ない。 あの男の刀を携え、時には買われた男を斬ることも少なくない。 人など殺したことのない自分が、簡単に切り捨ててのうのうと生きることを知ってしまった。 取り立てて目立たない行動をしているつもりはない。けれど、俺はまだこの街に居る。あの男が帰って来るのを待って。 自然と足を向けることの多い街の外れの港。あの男が旅だった場所よりも南よりで、この街の最南端だ。 俺はいつもこのプラムを持ってここへ来る。 たとえあの男が回り道をしていても、俺達が進むべき至極の楽園へと、俺だけは見失わないよう足を向けていようと。 あの男の帰還を半ば諦めながら、そうすることだけはこの五年間かかさなかった。 「おい、聞いたか。」 「何を。」 俺は南の海を眺めていた。傍には仕事の始末をしている漁師がいる。 「東の港に派手な傷を追った男が流れ着いたそうだ。」 ―――――東の港。 ぴくりと肩が波打った。 「派手な傷?また遭難者か。」 「いや、旅の者らしい。小船に少しの食料と水を積んでたって。」 「なら、誰かにやられたんだろうなあ。」 男は積み荷の蓋を開け、木箱の空を路地に無造作に放り投げた。 「みたいだな。顔の真ん中に斜めに大きな切り傷がある屈強そうな大柄の男らしいが…。」 もう一方の男は自分の顔の左上から斜めに指先を振り下ろす真似をしながら、一度口を噤んで先を続けた。 「どうやら口が聞けないらしい。」 他方の男もその言葉に眉を顰めた。 「口なしか。」 「ああ。顔の傷が喉まで達していて、医者が見たところじゃ、それのせいらしいが…口が聞けないんじゃあ何者かも 分からなくってな。」 諦めるように二三度首を横に降った男は、小さく息を吐いて、積み荷の降ろし終わった馬車馬を撫でている。 「字は?」 「満足のいくもんじゃねぇよ。」 「そりゃあ、困ったなあ。」 赤茶色く錆びた網を片す男達に、俺はそっと近づいた。 「なあ…。」 変に声が掠れた。 「あ?ああ、あんた…。」 俺がここに来ているのを知っていたのだろう、見たことあるな、と言う風にちらりと視線を上下に巡らす。 「その男って、どんな奴だ?」 「どんな奴って…あんたもさっきの話聞いてたんだろう?」 男達は困ったように笑いながら言う。 「そうじゃなくて、もっと、こう…!」 俺が切羽詰まった様子で表現に困っていると、男の一人が言葉の続きを察して口を開いた。 「あー…。黒髪で体格のいい男で…そう言や、最初に見つけた酒屋の亭主が何か身元の分かるものはないのかと聞いたら 店のナイフを握ったそうだ。」 「ナイフ?料理人か?」 「いや、握って見せた手が刀を使う人間のもんだって主人が豪語するからよお。」 「刀?剣士ってことか。」 もう一人の男が口を挟む。刀、と言う言葉にどくりと胸の奥が鳴った。 「どうだろうなあ…。だが実際、刀は持っていないらしい。」 「何だあ?そりゃあ。」 「分からねぇ。だが、主人の差し出した紙に拙い字でやっと自分の名だけは書けたそうだが…。」 男の言葉に、俺ははっと顔を上げる。 「名前は?」 「ん?あ、あぁ…確か…。」 男は驚きながらも考える素振りをする。 「ロイ、とか言ったな。」 「―――――!」 息を大きく吸い込むと、それ以上の呼吸の仕方を忘れたように、喉の奥がきゅっと音を立てて締まった。 「まあ、名前だけでも分かってよかった……って、お…い、どうした。あんた、そんな色の悪い顔して…。」 二人の漁師が心配そうにこちらを覗き込んでいたが、後の言葉は、もう俺の耳には入ってこなかった。 帰ってきた。 「大丈夫かい?兄ちゃん。」 帰ってきた。 東の港、あいつが。 ロイが、帰ってきた。 例えば、もしこの5年間がなかったとして、笑ってロイの帰りを「遅かったな。」と言えるなら、 どうやって彼の帰還を出迎えようかと考えたことがあった。長い旅で、もしかしたら多少の傷を負ってくるかもしれない。 本当は考えたくなどないけれど、ロイのことだから俺に愛想を尽かして買った女を小脇に抱えているかもしれない。 それとも、無愛想に「帰った。」と一言言うだろうか。 いい方にも、悪い方にも考えた。 だから、自分の想像を遥かに超えた目の前のロイを見ても、笑うことなど、この5年間をなかったことにするなど出来なかった。 「ロ、イ。」 街に唯一ある設備の整った医者の元へと走りながら、口の中がカラカラに乾いていった。 病院の木戸を乱暴に開ける。入ってすぐの診察台に、見慣れた身体が横たわっていた。 「ん?お前さんは。」 ロイに包帯を巻いていた医者はちらりと俺を見て納得したようにそう言うと、 「あんたの連れかい?」 と言った。 「あ…あぁ。」 「そうかい。今は薬が効いて眠ってる。待つんなら構わないが。」 何の躊躇いもなくそう言うと、医者は巻き終えてしまった包帯の芯を見て、包帯が足りんくなるのう、 とぼやきながら診療室を出て行った。 俺のことを知っているのだろうかとふと思ったが、今は目の前に横たわる男のことが気になった。 「ロイ…。」 そっと近付き、医者が座っていた丸椅子に腰かける。顔を覗き込むと、何重にも巻かれた包帯の下に、見知った顔があった。 すっと通った鼻筋や、伏せた切れ目はロイのものだ。 「帰って…来たんだ…。」 そっと腕を伸ばし、ロイの髪に触れる。自然と涙が零れて、覗き込んだ上からロイの包帯を濡らした。 涙の滲む目でよく辺りを見回すと、 ロイの腕には出掛けて行く前にはなかった小さな傷がちらほら見える。それさえも、もうすっかり古傷になっている。 長く待ったのだ、と改めて思う。 俺はシーツの上に伸びる腕を取って、そのまま顔を埋め、目を瞑る。次に目を開けた時に、 居なくなってしまったなんて泡沫を味わわないように。  


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