創作小説

蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―

  第三章 Side:Roi 瞼を上げたつもりなのに、視界はぼやけ、頭も何処か朦朧としている。確かにジゼルの街に辿りついたと思ったのに、 ここ数日熱に浮かされながら帰りを急いでいたせいか、はっきりと記憶の続きを思い出せない。 「目が覚めたか。」 突然の声に思わず頭を擡げると、喉に鋭い痛みが走った。 「…っ!」 「あー、無理せんでいい。まだ身体を起こすのは無理じゃよ。まったく、自分の傷がどれほどのものかも分かっておらんのか。」 白髪を蓄えた医者らしき老人が枕元に近づいてきて、呆れたようにため息をつく。 「まだ薬が効いておるんじゃ。身体の感覚が戻るまでもう暫く寝ていろ。治療の説明はその後じゃ。」 目で、あんたがやってくれたのかと問うと、 「これだけの傷じゃ。医者として放ってはおけん。」 そう言って包帯の呼びに忙しなく手を伸ばす様子を見て、もう少し眠ろうとまた目を瞑ろうとした時、ふと微かに残る手の感覚 から、自分の手に何か温かいものが触れていることに気づく。 「…?」 俺の反応に、医者はちらりと俺の手元を見て、笑う。 「お前さんの連れだと言っておった。」 医者の言葉に、俺は慌てて頭を上げようとしたが、医者の手によって乱暴に枕に押さえつけられた。 「止めんか。病人が。」 「…。」 「赤毛に蒼眼の男じゃ。今は眠っておる。お前が次に目覚めた頃にはこの男も起きておるじゃろうて。」 そう言って、医者は踵を返して去って行った。足音が聞こえなくなってから、俺は天井を見上げたまま微かに感じる腕の感覚を 頼りに、きゅっと手に力を籠める。ほんの少し動いた指が、自分の手を握るそれをそっと握り返した。 『アラン。』 声にならずとも呼んでみる。が、当然返事はない。耳を澄ますと規則的な寝息が耳に届く。俺は深く息を吐いて目を瞑った。 早く、顔が見たい。 そう思えば思うほどもどかしく、痛みを堪えて頭を上げようと試みるが、やはり自分の手元を覗きこむほどの余裕はない。 ぱたりと力なく横になる。 『起きてろよ、アラン。』 そう子供染みたことを呟いて、自分の考えに苦笑した。 またここに、帰って来た。 五年もかかるなんて、アランはなんて言うだろうか。「遅い。」と怒って、傷が治っても抱かせてくれないかもしれないな、 などと考え、少し笑った。 五年前、ノアに近づくアランを見て、考えていた。エマに似ているノアに、他の男が近づくのが気に食わないのか、 それとも、アランが自分以外の人間に好意を持ったのが気にいらないのか。アランは簡単に好いた惚れたと口にする。 それは奴が愛を知らずに育ったからなのだと思っていた。けれど、俺はどうだろう。 俺だって、愛など知ったものではない。 何故、アランを手放せないのが自分だけだと思っていたのか。その身体を腕の中に収めている間も、 ランネルであり、エリガルであり、ノアでさえアランを欲しいと思っている。そう思うと、奪われるのが情けなくも怖いと思った。 「ん…。」 「…!」 微かに腰の辺りで動く気配がする。寝息が途切れ、シーツが擦れるように動く。アランが起きたのだろう。 頭を上げたいが力が入らない。 「あれ、俺…寝ちゃったのか。」 寝ぼけた声がそう呟く。懐かしい声に思わず目を細める。 『アラン。』 そう頭の中で呼びかけながら、先刻のようにアランに触れている手にぎゅっと力を籠める。 『アラン』 微かに動いた指がアランの手の甲を叩く。 「…ロイ!」 がさりとシーツの動く音がしたかと思うと、ぐっと眼前に見慣れた蒼眼が並んだ。 「ロ、イ。」 正面に並んだ瞳はこれ以上ないというほど大きく見開かれる。懐かしい。 離れていても忘れたことのなかったそれと少しも変わらない。 その蒼眼はすぐにじわりと滲んで歪んだ。 「ロイ…。」 まだ上手く身体が動かない。ぽたりと頬に落ちてきた涙を拭うことも、泣き顔のアランに手を添えることも出来ない。 『アラン』 声にはならず、吐く息だけが言葉を紡ぐ。その様子を見て、アランがまた顔を歪めて涙を零す。 「声…。」 掠れた声が響く。見慣れた赤毛が滑り落ち、俺の頬を掠めた。 「出ない…の、か…?」 「…っ。」 聞こえるのは、自分の呑む息の音だけ。 「ロイ…。」 言葉が、出ない。 「よかった、無事で。本当に。でも、声…――――」 アランの腕が俺の背に回り、傷を避けながらきつく抱きしめられる。いつもと逆だなどと思いながら、 肩口のアランの髪に顔を寄せる。知った肌触りも懐かしい。 大丈夫だ。 顔を上げたアランが俺を見る。もう一度大丈夫だ、と呟くと、背に回った腕に強く力が籠る。 「ごめん、ロイ。ごめん。」 こちらを覗き込む泣き顔は依然と変わらないが、やはり少し大人びたように感じる。 自分とそう変わらない大の男をそんな風に感じるのも可笑しな話だが。 「ごめん…。ごめん。」 アランの開いた口は、それしか言えない。何故謝るのか分からなかった。 ごめん。 何故かアランがそう言う度に、ずっしりとその言葉が胸に響いた。 「違うんだ…。違う、本当は…違…っ。」 言いたいのは、そうじゃない。そう言っているのだろう。足掻いた口が上手く言葉を紡がないのをもどかしがって、 アランはもう一度 「…ごめん。」 と言って俺の肩に顔を埋めた。 『アラン。』 アランの欲しがる言葉は、届かない。 「ロイ。」 やっと痺れを残しつつも動くようになった片腕をそろそろとアランの頭に寄せる。微かに上下に撫でるように動かすと、 アランの泣き声は少しずつ小さくなり、やがて静かな吐息に変わって行った。 『まるで子供だな。』 と声が出ないのをいいことに、茶化すように呟いて、アランの髪に口付けた。 「…ったく、人の診療所で暑苦しい男達じゃの。」 その声に、アランが慌てて身体を起こす。離れて行く身体を惜しく感じながらも、渋々手を離す。 アランは泣き顔のまま鼻を啜る。 「大の男が二人、何をやっとるか。…まあ、わしには関係ないがな。」 医者はベッド脇の小さな小瓶に入った液を、手に持っている注射器に移しかえる。 「そろそろ麻酔も切れて来る頃じゃろう。傷が痛み出すから、赤毛の坊主は離れておれ。」 「あ、うん…。」 坊主、と言う歳でもないのだが、今のアランは其処らの子供よりも幼く見える。 「ったく、何をやったらこんな傷がつくんじゃ、全く。死闘でもやって来たってか。」 「…。」 医者は俺を見てため息を吐く。 「お前さんは暫くここに泊めてやる。タダとは言わんが、どうせ金もそう持っておらんのじゃろう。 追いだせる状態でもないしな。」 口悪くののしりながらも、俺の傷にガーゼを当て直す医者の手は丁寧だ。 「ドクター、俺もここに…。」 アランが赤い目をしたまま遠慮がちに医者の脇から顔を出す。 「お前は帰れ。」 医者はちらりとアランを見て、首を振る。 「でも。」 「ここは病院じゃ、力の余っとるもんが寝起きする場所なんぞ空いとらん。」 アランはしゅんと顔を下げ、俯いてしまう。相変らずの幼い様子に、俺は思わず苦笑した。 医者もアランのその様子に同じくため息を吐く。 「…通えばよかろう。」 その言葉に、アランはぱっと顔を上げ、今度は先刻の表情が嘘だったかのように。 「うん!そうするよ。」 と笑顔を見せる。その様子に、結局医者も声を漏らして笑った。 「ほれ、分かったら今日はもう帰れ。意識も戻ったことだ。これからちゃんと治療してやる。」 「分かった。じゃあ、ロイ。俺、明日の朝また来るから!」 そう言ってあっさりと背を向けたアランを何処となく惜しく感じながらも、素直に医者の言葉に准じる様子に、 五年前と何も変わらないことに安堵して、その背中を見送った。 パタリと戸が閉まり、医者がガーゼとピンセットをベッド脇のテーブルに置き直す。 「ったく、まるで子供じゃな。五年前に戻ったようじゃ。」 俺は驚いて医者を見上げる。アランのことを知っているのか。 医者が一瞬ちらりと俺を見て、目を逸らしてから口を開いた。 「…わしがあの男を知らんとでも思ったか。他所者でも、五年も街におれば顔くらい憶えるわ。 お前さんのことだってちゃんと知っとる。」 医者はまだ感覚のない足元の傷に薬を塗りながら、ベッドの傍に丸椅子を置いて腰かける。 「街外れの娘とやり合ったのはお前じゃろうて。」 「!」 医者は俺に構わず続ける。 「何もそう驚くことではない。街で建物一つ崩れ、人が二人も死ねば自然と噂にもなる。その後この街に居座り始めたあの男の ことを考えれば、自然と察しはつく。お前さんも刀を使うんじゃろう。堅気の人間でないことくらい、見れば分かる。」 随分勘のいい爺さんだと思ったが、街の人間を見慣れている医者の立場からすれば、そのくらい容易に検討が付くのかも知れない。 「八百屋の主人に…頼んでいったじゃろうて。」 「知ってたのか。」 「あの主人とは腐れ縁でな。ちゃんとあの男の世話を焼いておったよ。お前に頼まれた通りに。」 「すまない。」 「それはあの主人に言ってやれ。それより、お前。この傷はどうした。」 射抜くようにこちらを見返す目に、思わず口を噤む。医者は諦めたようにため息を一つ漏らす。 「まあいい。とにかく、こんな身体で旅などしおってからに。傷が開いて化膿しておった。あと数日遅ければ死んでおったぞ。」 「…そうか。」  ふと、器用に動く医者の腕を見て、はっとする。口には出さなかったが、俺の様子に気づいて医者が自分の腕を顔の横で挙げる。 「これか。昔一本、何処かに置いてきてしまってな。」  そう笑う医者の左手はに、中指はない。そう言えば、八百屋の主人も片足を失くしていた。かつてに戦争でもあったんだろうか。 まだランネルの戦火は下っていないと思っていたが。 「お前達、もうすぐこの街を出るんじゃろう。」 他所事に考えを巡らしていると、そう医者が切り出した。 「あぁ。」 「次の街と言えば、ミネルバか。」 そのつもりだ、と言うと、医者は俺の喉元を覗き込みながら暫し考え、 「次の蒼い月の晩までだ。」 と言う。 「あんた、あの月を知ってるのか。」 俺は驚いたように聞くと、医者は何でもないと言う風に 「あぁ。わしもあの街に行ったことがあるからな。」 そう言って、綺麗に巻かれた包帯の留め金を直す。 「あの月が出るまでならもつだろう。」 「あ?どう言う意味だ。」 「わしはお前さんの傷を治してやった訳ではない。言ってみれば、寿命を延ばしてやったようなもんだ。」 要するに、 「声が出なくなるってのか。」 「時期にな。」 ぱたりと蓋の閉じられた治療箱が、医者の脇にひょいと抱えられるのを目で追う。 「わしは魔術師の類ではないからな。正確なことは言えんが、お前さんを見ていると恐らくその頃が身体の限界だろう。 生きていただけましだと思え。」 「…。」 「命は粗末にするものでないぞ。少なくとも、守りたいものを抱えているなら尚更な。」 医者は医療器具の箱を抱え直し、去り際にそう呟いた。 「あぁ。」


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