創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
アランは言葉通り、毎日ほど俺の元へ通っては、他愛のない話をした。
俺の意志に反して、傷はなかなか塞がらず、
痛みとアランに思い通りに触れられないもどかしさで気が狂いそうなほどだった。やっと頑固な医者から許しが出た頃には、
アランと再会してから一月以上経ったあとだった。
「取るぞ。」
医者が俺の喉を覆っていた包帯をゆっくりと外す。もう痛みはほとんどなかったが、急に外気に触れた喉に少し違和感を感じる。
「話せるか…?」
医者の言葉に、俺はゆっくりと口を開く。
声の出し方が一瞬分からず戸惑ったが、ゆっくりと息を吐くと、自然と憶えていたように口が言葉を発した。
最初の言葉は、決めていた。
「…ア、ラン。」
「ロイ。」
心底安心したような声で呟き、アランが俺を覗き込む。医者もその様子にやんわりと頬を緩めた。
「もういいじゃろう。」
医者はそう言って薬の粉袋を俺に差し出す。
「今日は安静にしていろ。また傷が開いても、今度こそこんな大傷見るのは勘弁じゃ。また身体に無理をかけさえせねば、
このまま傷が癒えて今よりも楽に話せるようになる。」
「あぁ、ありがとう。」
俺はその袋を受け取って席を立つ。アランが何度も医者に礼を言っていた。
医者の愚痴にも似た小言を受け流しながら外に出ると、市場の八百屋の主人が立っていた。
主人は俺を見て微笑むと、直ぐにアランに向き直る。
「その人かい?」
「え?」
「あんたが待ってた人さ。」
「あぁ…。」
アランが眼を細めて笑う。以前より随分柔らかく笑うようになったと思っていたが、恐らくこの街に居た五年の間に、
この主人のようにアランを支えてくれた人間が居たのだろう。
「よかったな。」
「ありがとう。」
そう言うアランと主人を見て、先刻医者に頭を何度も下げていたアランを思い出す。
「ちょっといいか。」
「ロイ?」
アランをその場に残し、俺は八百屋の主人を呼んだ。主人は和かに微笑んで俺の後について来る。
アランに声が届かないだろう場所まで離れると、主人の方から口を開いた。
「あんたに言われた通りやったよ。」
「あぁ。長い間すまなかった。」
礼を言って、断る主人の手に僅かばかりの金を握らせる。
「五年なんてあっと言う間さ。大したことは何もしていないよ。唯、毎年同じ品物を売り続けただけさ。」
「いや、いいんだ。それで。」
五年前、アランをジゼルに残して街を出る途中、この主人の店の前を通りかかった。
「兄さん、買って行かないか?」
差し出された手の上には、いつだったかアランが口にしていたプラムが一つ乗っていた。
「一つもらう。」
代金と引き換えにプラムを受け取ると、主人は美味いよ、と人のいい笑顔で言う。普段、甘いものなど口にしないのに、
言われるままに思わずその場で口に運ぶ。香りのいい果汁が口の中に広がる。
「美味いな…。」
そう言うと主人は誇らし気にだろう、と言う。そのまま手の中の欠けたプラムを眺める。
アランはこう言う甘ったるいものが好きだった。
「どうだい、兄さん。もっと買ってかないか?」
主人の笑顔を見ながら、暫く考えた。
「いや、俺はいい。それより、一つ頼まれてくれないか。」
「あの時、あんたに言われた通り、毎年欠かさずアランさんはあのプラムを買って行ったよ。」
「そう出来るように残してくれてたんだろう。あんたの店は繁盛してると街の人間から聞いている。」
「いや。俺もあの人と話すのは楽しくてね。あんたの頼みがなくてもそうしていたさ。」
そう笑う主人の笑顔に、俺もまた頬を緩める。この主人にアランを頼んでよかった。恐らく医者が言っていた通り、
ずっとアランの面倒を見ていてくれたに違い無い。
「俺が暫くこの街を離れている間、アランと言う旅の男に毎年必ずこのプラムを売ってくれないか。」
「アラン?どんな男だ。」
「赤毛に蒼眼…綺麗な男だ。以前あんたの店で同じものを買ったはずだが。」
主人は暫く考えて、合点が言ったと言うように頷く。
「ああ、その客なら覚えてるよ。しかしまた、何で。」
もしもアランが俺の残した束縛の鎖を解いて、離れてしまう日が来たとしても、
「情けないが、自信がなかった。」
全て忘れてなど、欲しくなかった。
五年前の主人の解いへの答えはそれ一つだ。主人は小さく首をふる。
「帰ってくれてよかったよ。あの人がどんな想いでこの数年を生きてきたか、分かってるんだろ?」
「あぁ…。」
主人は何もかも見通している様子だった。
抗わず、素直に頷いた俺に、主人は口髭を揺らしながら満足そうに笑って、俺の背を押す。
何処となく、包む様な優しさがアランに似ている。
「なら早く戻ってやりな。また心配そうな顔してるよ、あの人は。」
言われて振り返ると、アランがちらちらとこちらに目配せしている。
目が合えば、わざとらしく逸らして何でもないふりを装っている。
呆れたため息をつく俺に、主人は声を上げて笑っていた。
「今日はもう寝ろよ。また傷が開いたら面倒だろ。」
部屋に着くなりそう言うアランに、俺はやんわりと断りを入れた。今までずっとベッドの上だったのだ。
食事すらまともに取っていない。
いい加減病人扱いは飽きてしまった。アランの言葉を無視して部屋の隅にあった酒瓶に手を伸ばすと、アランがそんな俺の背中に
「おい。」と低くぶっそうな声を上げる。
俺は伸ばした手を引っ込めざるを得なかった。
アランに手渡された白湯を何か物足りないと思いながら口に運びながら、口が聞けるようになったらまず言わなくてはならないと
考えていたことを正直に告げることにした。
「ランネルの…居場所が分かった。」
「!」
アランが片づけていた空の瓶や食事を終えてそのままだった皿をがちゃりと腕の中で取り落とす。
俺は口を開いてみたものの上手く言葉の出ない喉元に何度も手を当てて言葉を紡いだ。
「情けねぇが、まだ決着はついてねぇ。だが、奴が居るのはここからずっと南の、果ての国だ。」
アランはこちらに背を向けたまま、食器を抱えて俯いている。その表情は、俺からは読み取れない。
「そっか…。」
暫くして、アランがそう呟いた時には、ふり返った顔はいつもの柔らかい笑みを浮かべた顔だった。
俺はその他人事のような言葉に、何処か無理しているのではないかと声をかける。
「アラン。」
「ロイ、その話はまた傷が癒えてからゆっくり聞くよ。」
アランはそう言ったきり、抱えた食器を奥のテーブルで片付け始める。これ以上、話す気はないらしかったので、俺は諦めて、
「分かった。」
とだけ返事をした。
「ロイ。」
食事もまだ満足にとれず、酒を寄越してもらえないので、結局手もちぶたさになった俺は、腰を下ろしたベッドに横になる。
薬が効いているのかずきずきといた喉の痛みは感じない。つい先日まで熱で魘されていたことを思えば、
身体はだるいが元々の体力も相まって、自分が病人だと言うことを忘れそうになる。
「…。」
やけに静かなアランの背中を、ベッドに横たえたままぼんやりと眺める。やはり、随分細くなった。
自分でも、奴を探しだすのに5年もかかるとは思ってもいなかった。今でも、この街を出る時にアランに言った言葉を憶えている。
『俺以外の男に抱かれるな。』
身勝手な言葉だと分かっていた。だからこそ、この街に戻って来るのに五年もかかった自分に苛つきもし、
またアランに再会して直ぐに分かった事実にも目を瞑った。
その約束は守られなかった、と。
「ロイ。」
俺がじっと背を見つめる視線に気づいたのか、ふり返ったアランがぽつりと俺の名を呼ぶ。
「来るか?」
「うん…。」
アランが捲ったシーツの中に、靴と上着を脱いで潜り込む。回された腕は自分と同じ柔らかさを持たない、
ごつごつとしたものだが、優しく引き寄せると離れまいと寄り添って肌に心地いい。
「言ったら、怒るかもしれないけど…。」
俺の背にゆっくりと手を離せながら、アランが言う。言わんとしていることが分かって、俺はアランの頭を自分の肩口に引き寄せた。
「言わなくていい。むしろ言うな。怒らない保証はねぇ。」
肩口に、より深くアランが顔を埋める。傷に触らぬよう、喉元を避けるようにしてはいるが、背に回った腕は俺のシャツをぐっと
握っていた。
「怖かったんだ。信じてたけど…。」
帰って来ない気がして、と言う続きの言葉は掠れるように消えて行った。
「悪かった。」
子供のように縋りつくアランに、俺はただそう言うしかなかった。
透ける様な赤毛に指を差し入れて髪を梳いてやると、繰り返されるその行為に、時期にアランがゆっくりと眼を閉じる。
俺もその様子を見て、そっと枕元の灯りを消した。
声が支障なく出るようになるまでには、少なくとも一週間はかかった。
もっと早く治ってしまえばよかったものの、傷ばかりはそう言う訳にはいかず、初めのうちは寄り添うようにくっついて
離れなかったアランも、次第に傷を考えず無茶をする俺を見て、酒と刀と自分には触るなと小言を言うようになった。
「酒ぐらい飲ませろ。」
「駄目。」
「なら抱かせろ。」
「馬鹿!」
アランは意外と頑なで、まだ俺が自由に動けないのをいいことに、決してその考えを曲げようとはしなかった。
「いいじゃねぇか。五年ぶりだぞ。」
そう言うと、決まってアランは少し顔を赤らめて
「何、柄にもないこと言ってんだ!」
と怒鳴る。柄にもないのはどちらの方だと言ってやりたいが、機嫌を損ねてしまっては思い通りにならないので我慢した。
「何か…ロイ、変だね。」
「何が。」
「帰って来てから、何か…急に…。」
アランは着替えのシャツを握ったまま言い淀む。言いたいことは何となくだが、分かっていた。
「…時期に話してやる。」
それは、離れていた五年間の俺にしか分からない。アランが望むなら、話してやるべきだ。
唯、最後の言葉は、ランネルを斬った後だと決めている。
経験したことのない、正しく禁欲生活とも言えるそれらをアランの傍で生殺し上等に何とかやり過ごし、
部屋から出られなかった間にアランが街から調達してきた地図や保存食を床に並べた。
「明日にはここを出よう。」
そう言い出したのはアランだった。何を買ったか一目で分かるよう、地図を広げる俺の傍で、
アランの並べた保存食が綺麗に積み上げられていく。
「もう傷は平気?」
「あぁ、もう治った。お前こそ、準備はいいのか。」
「うん、必要なものは揃えたしね。」
そう言いながら、アランは窓の外へ眼を向ける。今日もよい日差しがそこから差し込んでいる。
「長く居た街だったから、少し寂しい気もするよ。」
そう言って、アランは少し眉を下げる。
「ここには…長く居過ぎた。世話にもなった。だが、これ以上長居する余裕はない。」
「そうだね…。」
街は荒廃の兆しを著しく見せる。最近では、表向きの通りにも売り屋の馬車が停泊しているのを見かけるようになった。
街自体は裏街が増えた以外、特に何の変哲もないが、街の北の森から街の入り口にさしかけては、
北の国から降りて来た浮浪者や薬に溺れた輩で溢れ返っているという嫌な話をアランが街の人間から聞いて来た。
「急がないと。」
そう呟いたアランの言葉は、恐らく本音だろう。この街には世話になった人間が何人もいる。
もしこの街の荒廃に加担しているのがランネルであったなら、
俺達が奴を討つことで、必然的にそれも食い止められるかもしれない。
俺は広げた地図を隣のアランに見せながら、ランネルがいると聞いた街を指差す。
「ランネルのいる街から海を出ると、少し離れたところに人の住んでいない島があると聞いた。」
それは、初めてアランにする話だった。
上手く話せるようになり、ランネルを追う決心がついた時、話そうと思っていたことだった。
アランは俺の指を辿って、指し示された地図の上の孤島をまじまじと見つめる。
「熱帯の植物の茂る、神聖な島らしい。」
「それって…。」
聞いた話では、俺達が探している場所にとても近い。確証は何もなかったが。
「行ってみる…価値はある。」
そう言うと、アランが暫く俺を見つめて、すぐに地図に目を落とす。
「そう。」
その一言はとても静かだ。
「また明日から、暫く野宿だぞ。」
にやりと笑ってそう言うと、アランは一瞬きょとんとした後ふわりと
「それじゃあ。」
と笑ってシャツのボタンに手をかけながら、俺の首元にそっと口づけた。
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