創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
長い旅の途中で口を滑らせた俺が悪かったのだ。途中の木に上手い果実を見つけ、満足そうにほおばって上機嫌になったアランが
「そう言えば、俺がいない間の禁欲生活はどうだった?」
と訊く。
甘えたようなその問いに、あまり真剣に聞いていなかった俺はまたいつもの下らない問いかけなのだろうとあまり深く考えず、
「まあ、適当にやり過ごしてたからな。」
などと答えてしまった。当然果実をほおばって俺の後をついて着ていたアランは立ち止まり、
「それってどういうこと?」
となる訳だ。俺はしまった、と顔を顰め、適当に上手く誤魔化したつもりで居たのだが、そうはいかなかった。
アランを忘れた日は、らしくないとは思いながら、一度もないと言うのが正直な答えだ。
だが、女を買った記憶がない訳でもなかった。
と言っても、酒で酔った勢いに任せ、朦朧とした意識ですり寄って来た女を抱いただけだった。どの女も赤毛で蒼眼だったことは
秘密だが。俺が束縛を嫌うのを知っていてか、あまり強くそのことについて追及してはこなかったが、代わりに道中、
俺は話せとしつこくアランに言い寄られ、もう少し先に話そうと思っていた、傍を離れていた五年の旅の中身を、思い出しながら
途切れ途切れに話して聞かせた。
俺達はジゼルを出てすぐに小さな町をやり過ごし、少し距離を我慢して大きな港町を目指していた。
「ランネルの話をその婆さんに聞いたんだ。ジゼルを出てから二つ目の街、今から立ちよるミネルバの街がそうだ。」
「へぇ、でもその街までまだ暫くあるだろ?」
「まあな…あと一週間は歩くだろうな。」
俺はアランの足元をちらりと見やる。以前は全く無知のアランが黒い革靴で森を歩くのを見て何度か小言を言ったものだったが、
今回は少し歩きやすい靴を手に入れて来たようで、その代わりアランはじっとしておらず、森の周りを走り回っては名前も知らな
い木の実を採ってきて俺に見せる。やはり子供のようだ。
「一週間もあるんだからいっぱい話してよ。暇だし。」
暇と言う割には風呂と寝床がないと文句を言う以外は案外楽しんで後をついてくるアランに、俺は気づかれぬようため息を吐いた。
ミネルバまではその距離こそあるものの、足の短い草の繁った比較的歩きやすい道で、森を端から端まで抜けると言うだけで、
果実のなった木々も多いのでアランもそれほど苦にせずついてくる。俺は時折小走りしながら隣に並ぶアランに、
ミネルバの街で出会った占い小屋の老婆の話を話して聞かせた。
ジゼルを出てすぐの街は、街と言うより町に相応しく、民家が数件立ち並ぶ集落に一件だけ商売屋が店を構えていると言うだけの
古く小さな町だったので、俺はすぐに大きな街が続くのだろうと、さして立ち寄りもせず通り過ぎた。
荒廃した町の手前で飢えて事切れた兵士の刀を拝借し、いざという時慰み程度にはなるだろうとアランに預けて来た刀の代わりに
持ち歩いていたので、刀を携えていることで警戒され、面倒なことに巻き込まれるのはごめんだった。
その時は、多少腹は減っていたが、次の街で上手い飯屋を見つける方が得策だとも思ったのだ。
「ロイ、顔恐いしね。」
アランがふざけて口を挟む。
アランの言う通り、小さな町で刀を持った自分が飯を出せなどと言えば面倒なことに成り兼ねない。
そう思いその町は素通りしたのだが、
「次の街まで遠かった、って訳だ?」
歩いても歩いても建物どころか石造りの壁さえ見えてこない。果実のなる木は多かったが、それでは腹など膨らまなかった。
「こんなに美味いのに。」
そう言って、アランは何処からかもいできた山葡萄に似た房を俺に差し出す。
「お前と一緒にするな。それと、あまり確かめもせずに何でも口にするなよ。」
「食べられるかどうかくらい俺にも分かるよ。」
幸い道が比較的緩やかだったこともあり、一人身の旅では数週間寝起きを繰り返せば覆うように繁っていた木々が少しずつ開け、
光が差し込むようになった。
よく目を凝らせば森の終わりを知らせる平たい草原が先の方に見え、とにかく足早に残りの森を抜けた。
「ねぇ、この実もっと取ってきても――――」
「お前、聞いてんのか。人の話。」
「え?あ、うん。聞いてる、聞いてる。」
「…なら少し黙ってろ。」
平たく広がった草原は丘になっており、随分明るく無防備なそこを抜けるとただっ広い丘の下に白い城壁が見えた。
城があるのか、と近付けば、街の入口には大きな鉄の門も建っている。
城下街なら廃れているはずもないと、空いた腹を抱えて丘を下った。
しかしいざ門を通り抜けようと言うところで、その両端に案の定門番らしき人影が見てとれる。
厄介だとは思いながらも街に出入りする荷馬車に紛れて通り抜けようとすると、やはりあっさりとそれらの一人に呼び止められた。
「待て。その腰の刀は。」
向けられた警棒のような槍に顔をしかめたが、当たり障りのない答えをするべきだろうと刀に手を添えたまま答える。
「この街に刀鍛冶がいると聞いた。こいつの手入れを頼みたいんだ。」
「何の為の刀だ。」
顔色一つ変えず矢継ぎ早に尋ねられる。
「…人は斬ったりしねぇから安心しろ。ただの護身用だ。」
言い訳苦しかったか、とも思ったが、門番はしばし考えあぐねた後、静かにこちらに向けた槍を自分の脇に抱え直した。
「…通っていい。だが、むやみに城下でそれを振りかざすなよ。」
「ああ、分かった。」
門を潜ると直ぐに石造りの壁と開けた広場、そこを行き交う人の群れと、右手に延びる街の上に建つ城が見えた。
後ろを振り返るとまだ先刻の門番がこちらを眺めている。
「気分の悪い野郎だな。」
聞こえない程度の舌打ちをして俺は街の広場へと進んだ。
「ここなら痛くないかも。」
日も暮れたので、とアランは適当に眠れそうな平らな場所を探す。
昨夜、石の上で眠って痛めた背中をそう言えば何度も気にしていたな、と思う。
「ロイはここな。」
そう言って寝転がった自分の隣をぽんぽんと叩くので仕方なくそこに座り込むと満足そうに笑う。
「それで?街に入ってどうしたの。」
「ああ…まず飯屋を探した。」
「やっぱり。」
「腹ぁ、減ってたんだよ。」
「それで?」
「適当に入った酒屋で食事して直ぐ店を出た。宿も探さなくちゃならなかったしな。」
「うん。で?」
「それで……って、何でそんなに話の先を急ぐんだ。」
はたと気付き横に寝転がるアランを見ると、悪びれもなく
「いや、いつ女を買ったのかな、と思って。」
とさらりと口にする。辺りが暗く、明かりもないのでそう言うアランの表情は分からなかったが、大方拗ねた顔でもしているの
だろうと容易に察しはついた。
「お前な…まあ、いい。」
店で腹拵えを済ませ、そうそうに席を立つ。こじんまりとして余り人気のないそこは柄の悪い連中が多かったが、
自分も余り柄のいい人間ではないので周りを気にせず食事をすることが出来た。何処か似た雰囲気の小さな店を思い出し、
少し複雑な気分だった。城下は中心にある広場から蜘蛛の巣状に伸びる脇道から民家や商店、飯屋や、言ってしまえば夜に明かり
の灯る、如何わしい店まで行き着くように出来ている。
その一本を入ってすぐの店が俺の入った店だった。狭い道で、入る時には前の建物の白壁が迫ってくるように感じていたが、
食事を終えて店を出ると、酷く狭い道の前にぽつんと老婆が座っていた。一瞬、黒っぽいマントに身を包んだ姿にぎょっとしたが、
浮浪者かと思いそのまま前を通り過ぎようとした時、ぽつりとそのマントの下から声をかけられる。
「蒼い花は悲しみを喰らう。」
「何?」
「日の下では赤く輝いても、月の光の下では蒼く照らされ悲しみを自分の中に取り込んでいる。」
「俺に言っているのか。」
振り返って緩慢な口調に問いかけるが、返事はない。
頭がおかしいのかとそのまま通り過ぎようとすると、少し離れた場所で遅れて老婆の返事が届いた。
「忘れるな。」
「その後はただ宿を探して街をさ迷った。あの婆さんが誰だったかも気になったが、でも………。」
静かになった隣から、小さな寝息が聞こえる。とっぷりと更けた夜の月が木々の合間から覗くことが出来た。
俺は羽織っていた上着を寝入るアランにかけてやる。唇にかかった髪をそっと指で除いてやると、微かに細い息を吐いて身震い
する。その様子に場所柄も考えず手を出したい欲に駆られたが、よくはしゃいでいたせいで疲れたのか、ぐっすりと眠るアランを
見て、自分も大人しく同じように横になった。
その婆さんが誰だかも気になった。宿を探すのも先決だと分かっていた。
しかし、気付くと明かりの灯る中心から少しずつ離れ、たちの悪そうな輩の後を追って春婦街へと足を運んだ。
街が大きいだけあり、花街と言える程の規模だった。
「お兄さん、いい身体してるのね。」
角を曲がって直ぐ声をかけてくる女はいくらでもいた。どの女からもきつい香の匂いがし、派手で露出の多い服と髪を翻す。
アランを連れて来なかったことを少しばかり後悔した。
「お前、いくらだ。」
声をかけてきた一人にそう尋ねる。
「あなたなら好きな値段でいいわ。」
そう言って擦り寄ってくる女の腕を引いて、じゃあ一晩買う、と言うと一緒にいた数人の女から非難の声が漏れる。
構わずその女を連れ出すと、女から聞いた安い宿に部屋を取った。
白い肌に、赤毛と蒼眼の女だった。
アランに束縛の言葉を残しておいて、自分は他の女を買った。よく考えれば、俺が女を抱いてはいけない理由などないのだが、
何故か後ろめたさだけは拭えない。
結局、その夜は女に処理をさせただけで、満足に抱きもしなかった。当然翌朝早くに怒った女が財布ごと金を持ち去ったのも知っていたが、面倒でそのままにしておいた。
普段なら斬り殺してやっても支障はないのだが、自分から買うと言った手前、見逃してやった。
アランには言えないな、と思う。女を買ったことよりも、アランに似た女を買ったことを。まだ、自分がアランに対してどうある
べきか、その時は分からなかったのだ。あの腐った街に置いてきたことで、何かを失ってしまうような気がしてならなかった。
日が高くなると宿の外は賑わい始め、古ぼけたブラインドから窓の外を覗くと、左手に街の中心である広場が見える。
広場を囲む低く丸い壁に沿って市を出すのが決まりのようで、細道に並んだ民家から顔を出した人々が吸い込まれるように市へと
流れて行く。
「大した街だな。」
俺はベッド脇の水差しに直接口をつけながら、皺の寄ったシーツに腰を下ろす。ノアの話が本当であれば、
やがてこの街も薬と売りと貧困に溺れてしまうのだろうか。
国を救いたいなどと大それたことは考えていない。滅びれば、自分はそれに従って移り行くだけだ。
しかし、自分の業の為に滅する男がその元凶であり、意に違うところで結果的にそうなったのだとしたら、結構なことではないか。
どちらにしても、奴の居場所を見つけることが、最善の道だと分かっている。
壁に立てかけた刀を手に取り、鞘から引き抜く。刃が少し欠けている。やはり拾った刀では駄目だったか。
アランに託してきた刀を思い出す。
あれは手荒い使い手によくついてきた。刃すら少しも欠けていなければ、人も、物も区別なく切り捨てて来た。
そういえば以前、アランの買ってきた羊の肉をあの刀で切り分けたら、珍しくあのか細い男の拳が頭に振り下ろされたことが
あった。何を切ったか分からない刀で食べ物を分けるな、と。思い出して自然と笑みが零れる。アランは、どうしているだろうか。
まだ、自分を待っているだろうか。
他所の男に抱かれてなどいないだろうか。別れ際のアランの言葉を頭の中で反芻する。求められているものは分かっていたが、
それを同じだけ返す術を知らなかった。
それが悲しみや、寂しさや、孤独だったならば理解できたのに。
刀を鞘に収め、腰に挿す。部屋の扉を開け、どこも似たような安宿の一室を出る瞬間、ふと考えた。
俺は今、何故寂しいのだろう、と。
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