創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
昼が近くなり、俺は腹の虫を抑えて街を彷徨っていた。
広い街だけに、何処に何があるのかさっぱりだったが、街を道なりに進んでいると、商店の中に一件の家を見つけた。
「宿…?」
宿にしては小さな建物で、しかも民家のようなそこには拙い字で此処が宿だと自己主張する看板が立っている。
よく見ると食事が出来ると書いてあるので、俺はほとんど興味本意でその門をくぐった。
中は案の定小さな民家を改築しただけのようなこじんまりとした室内に、ぽつんとカウンターがあるだけだ。
「誰かいねえか。」
声をかけるが返事はない。カウンターの奥を覗くと、物陰から人の姿が見え隠れしている。
「おい!」
少し声を張り上げると、その主は驚いてこちらに顔を出した。随分若い青年だった。
「あぁ。すみません。余所事をしていて…。」
「いや、飯を一つ頼む。」
「ありがとうございます。お部屋まで案内を…。」
「いや、ここでいい。それより何か出してくれ。」
腹が減って死にそうだ、と漏らすと青年は俺の腰の刀をちらりと見て、また慌てて奥に引っ込んだ。
小さな宿だが、この男1人と言う訳ではないだろう。そう思い、辺りを見回すが自分とこの青年以外の人間は見当たらない。
通された奥の机に腰掛け、食事を用意してくれると言う青年が再び顔を出すのを待った。
小さな店なので、奥の物音も様子も座っている席からよく分かる。
「主人はいないのか。」
カウンターの奥に向かってそう言うと、青年がこちらを振り返る。
「あ、僕がそうなんです。」
「へぇ。その歳で主人か。」
大したもんだな、と言うと、青年は照れたように笑って、そんなことはない、と謙遜する。素直な男だな、と思う。
「1人でやってるのか。」
「あ、いや。妻と二人で…。」
「何だ、家族がいるのか。」
どう見ても自分より十は下だ。幼い顔立ちであることを除いても、まだほんの子供のように見える。
「えぇ。子供はいませんが、数年前から。」
青年はそう言いながら器用に食事の用意と準備前のカウンターの片付けを熟して行く。
「お客さんは?旅の人ってことは、郷里に残して来たとか…。」
家族は居るのかと聞かれているのだと言うことはすぐに分かった。
「いや。残念ながら独り身だ。」
「そうなんですか。すみません。僕はてっきり…。」
言い澱む青年に問う。
「何故、そう思う?」
「何となくですよ。」
すぐ様返ってきた答えに、府に落ちないまま
「そうか。」
と呟く。青年は笑って
「唯、待たせている人は居るんじゃないかと。」
と付け足す。俺は驚いて顔を上げる。
「当てずっぽうにしては感が良すぎるな。」
そう言うと、男はグラスに注いだ水と炒飯を俺のテーブルに運んで来た。
酒はないか、と聞くと一度奥に引っ込んでまた瓶を持って戻ってくる。
「ご一緒しても?」
そう言う男に了承の返事を出すと、男は俺の前の席に腰を下ろした。
「独りで生きて行く覚悟の出来た人間なら、そんな目はしていませんよ。」
「あ?」
意味が分からず、思わず聞き返す。
「あ、すみません。気に触ったら。でも、そう言う意味じゃないんです。」
俺は炒飯を口に頬張りながら,男の話に耳を傾けた。
「偏見を持たれる方も多いので,全て話すのは躊躇われるのですが…。」
「話してみろ。」
言い難そうにしている青年から視線を外すと、ぽつりぽつりと話し出した。
「実は俺、昔一度男娼として売りをしていた経験があります。」
思わず目線を上げてしまい、視界に苦笑している青年が映る。
「でも、男に抱かれた経験はありません。」
青年の言葉に首を傾げる。その様子を見て、青年はまた先を続けた。
「初めて仕事を受け入れた夜、自分を買った男を持っていた護身用の銃で撃ちました。」
今度は黙って酒を流し込む。
「その客がどうなったかは知りません。すぐにその場から逃げ出したので…。」
「こんな時代です。売りなど珍しい仕事柄ではありませんが、やはり妻と僕の境遇を聞く人は少なからず顔を顰めます。」
「まだ何かあるのか。」
「妻も、同じように春婦として身体を売っていました。」
皿が空になったので、椅子の背に身体を傾ける。
「妻は子供が産めません。」
青年は自分の手元に視線を落とす。
「恐らく売りをしていた頃の薬や身体の無理が祟ったせいだと医者には言われました。」
顔を上げた青年は、俺越しに窓から差し込む光の輪を眺める。
「僕は女としてではなく,1人の人間として彼女を愛しています。」
澄んだ声が部屋に響く。青年が俺を見た。
「お客さんが待たせていると言うその人は、とても大切な人なんですね。」
「何故…。」
「見れば分かります。」
青年が言葉を遮る。
「…だから、何となく…か。」
「えぇ。」
屈託のなさが少しアランに似ていると思う。
「愛する…か。」
思わず呟いた言葉に、自分で驚く。
「その言葉に抵抗はないか。」
言ってしまうことが怖くないか、と問う。青年は大きく頭を振った。
「僕に愛をくれたのは彼女唯1人です。唯一無二だと知った上での言葉に嘘はありません。」
そう言ってあまりにも綺麗に笑うので、俺も思わず笑ってしまった。
「気に入った。そこの棚のボトルを出してくれ。」
「毎度。」
青年はまた柔らかく笑った。
結局その宿で今日の部屋を取り、食事の後に通された部屋にはシンプルだがこ綺麗で使い勝手のよさそうな
小さな調理台も付いていた。
「ごゆっくり。」
主人の青年に礼を言って、小さなテーブルに腰かけ、一息つく。主人と話し込んで、気付けばすっかり夜だ。
酒も随分飲んだような気がする。珍しく少し酔ったようだったので、小さなベッドの枕元にある小窓を開ける。
縁に腰掛けると、冷たい夜風が頬を撫でた。自然と深い吐息が漏れる。まっ暗な空には月が浮かんでいる。下弦の月だ。
「…蒼い、月。」
見上げた月はやはり黄色く、そして少し白っぽい。蒼いとはやはりとても言えない。
「蒼、か。」
アランの瞳の深い蒼が脳裏に浮かぶ。自分の下で瞬かれるそれを思い出すと、いつも堪らなくなるのだ。
「アラン。」
以前から、考えていたことがあった。
「アラン…。」
このままジゼルへ帰らない方がいいのではないか、と。
もしそうなれば、アランは俺を恨むだろうか。何年かは俺を待って、辛い思いもするかもしれない。
けれど、いつかは俺のことを忘れ、在り来たりで普通の幸せを手に入れることもあるのではないだろうか。
男に買われることなどなく、女を嫁にもらって子供が出来て。幸せとはそう言うものだろう。
俺は、生涯独りだと言う自信がある。人を殺めたことのある人間が普通の幸せを望むのもお門違いな話だが、
アランに触れた自分が感情を持って別の人間に触れる日など、もう二度と来ないと確信していた。
アランを自由にしてやる。
出来ないことなどない。このまま1人でランネルを追い、殺ろうが、殺られようが、それは俺の問題だ。
アランを自由に。
『他の男に抱かれるな。』
自分の残した束縛の言葉を後悔する。
いつの間にか、その言葉に縋っていたのは自分だった。
『唯一無二だと知った上での言葉に嘘はありません。』
唯一無二だと言うなら、何故ジゼルに置いてきてしまったのか。何故死の覚悟に心残りを感じるのか。
自由にと言いながら、何故想いを捨て切れないのか。
『愛してる。』
あの時、何故愛していると言わなかった。言ってしまえば、こんなにも未練を感じることなどなかったのに。
その言葉に、同じだけの想いを抱いていたのは、愛していたのは誰なのか。
それが自分だと、今更になって何故気付く。
「冷えてきたな。」
冷めた頭を振って、開け放した扉をそっと閉める。酔って悲観的になっているのだ。疲れている癖に深く考え込むからだ、
とシャツを脱いで部屋の灯りを消す。シーツに寝転がって目を閉じれば、いつもと同じ夜だ。
月の光は、窓ガラス越しに部屋の隅に零れ続けた。
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