創作小説

蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―

買い出しに出たいと言う宿の主人の控え目な要望を快く了承し、俺は真昼間の好きっぱらを埋める為に街へと繰り出した。 主人が気前よく洗濯を済ましてくれた小奇麗なシャツを羽織って、刀こそ携えているものの今日は堂々と街を歩ける。 市の中心で美味そうな飯屋を見つけ、昼間から鱈腹酒を飲んだ後で、宿に戻る前に、と思いついたように 俺はあの老婆の店を訪れた。 「店とは言えないがな。」 そうぽつりと漏らした時には、既にいつもの場所に来ており、案の定そこに彼女はいた。いつも広げているクロスを畳んで、 ローブの内ポケットに仕舞っている。 「もう店終いか?」  俺に気づいて老婆が顔を上げる。「おぉ。」だか「あぁ。」だか歯切れの悪い返事をして、 「その様子だと光の端は見えた、と言うところか。」 と俺の顔を見て早々尋ねられた。 「相変らず勘がいいな。そんなことまで分かるのか。」 「職業柄な。」 老婆は目の前の木箱をずらして座れと言う。 言われるままに腰を下ろし、ちらりと並んだ姿に目配せすると、老婆は手の中で小さな水晶の様な玉を転がしていた。 商売に使う道具だろうか。その玉が路地に射しこむ光を反射しているのをぼんやりと眺める。 「なあ、婆さん。」 「何だ。」 なんとなくかけてしまった声の続きを一瞬躊躇って、興味なさげに手の中の水晶にだけ気を配っている老婆に、 またもなんとなくを装って尋ねた。 「何で、この街なんだろうな。」 随分と脈絡のない質問をしたと自分で分かっていたが、言ってしまった者は仕方なかった。何故、この街に。 そんなこと、つい先日確かめたばかりではないか。 あの男はこの街で国の中核を侵し、自身の脅威の幅を広げるつもりなのだ。 「何でだろうな。」 ただ、なんとなく。 「何で…。」 それだけではないような。 「お前、酒は飲むか?」 老婆は磨いて艶の増した水晶をローブのポケットに仕舞いながら言う。 「飲む…が。」 唐突な質問に思わず口籠る。 「だろうな。先刻も鱈腹飲んできたと言うところだろう。匂いが酷いぞ。」 「何だ、そんなこと言う為に…。」 「強く執着しているものを、何度求めても不思議はないがな。」 「あ…?」 ため息をつきかけた喉がくつりと締まる。 「強く求めるからこそ、お前もそこに行くのだろう?」 老婆はそれだけ言うと、それ以上話すことはないと言うふうにやはりゆっくりと目を瞑った。 俺はただ、その意味深な言葉を反芻しながらその場をそっと立ち去るしか出来なかった。 闇に紛れて街を彷徨う時はいつも、人を斬った晩でなくとも自分の存在が闇ン紛れて消えてしまうかのような錯覚に陥る。 あの老婆の「職業柄」と言う言い訳を使うなら、職業柄決して光の下に生きられない人間に生まれてしまったようだ。 どうせ光が似合わないならわざわざ日の高い日中に動き回るのを選ぶ必要もない。暗闇に紛れるように昼間昇った城を登る。 「誰だ。」 月明かりの下にいる人影に目を凝らす。見覚えのある顔がこちらをふり返った。 「…またお前か。」 バルコニーの向こうに視線を戻す男の声は思ったよりも静かだった。 昼間腰にさいしていた警棒も今は腰を下ろした男の直ぐ傍に横たえられている。 俺を見てもそれを掴む様子がないことから、俺も刀の柄から手を離してその背中に近づいた。 「何だ、今度は追い払わないのか?」 「今日の仕事は終わったからな。」 兵士の足元を覗き込むと、中瓶程度の酒が数本転がっていた。微かに甘い果実酒の香りが漂う。とんだ守衛だな、と皮肉ると、 男は笑って瓶の一本を後ろ手で俺に手渡した。 「飲むか。」 その毒牙のない声に、俺は差し出された瓶を手に取った。親指で押し出す様にコルクを抜くと、小気味よい音が空に昇る様に響く。 俺も兵士の隣に腰を胡坐をかいた。 暫く何を言うでもなく、お互いに手の中の酒を傾けていたが、目の前の空を小さな星が流れたのを合図にするかのように兵士が 口を開いた。 「死ぬのは、怖くないか。」 「あ?」 「人斬りだろう。死ぬのは怖くないかと聞いてる。」 「…覚悟は出来てるからな。お前こそ国を守る兵士だろ。」 「多くを闘ってきた。銃弾も受けたし切り傷なんて絶えない。毒を盛られることなんて戦場に出ればしょっちゅうだ。」 「それは覚悟が出来てるってことじゃねぇのか。」 いや、と兵士は言う。 「この間、ここで人斬りの男が打ち抜かれるのを見た。」 「そう言っていたな。」 「打ち抜かれる瞬間、あの男は笑っていた。」 「俺は怖い。ただ、一思いに殺られるのならまだ良かった。」 「どういう…。」 その腕に刻まれた痣は、外からの傷で出来るそれではなかった。 言うなれば、身体の内から蝕まれている様な毒々しさが滲んでいる。 「お前…。」 言いかけた言葉を遮る様に、兵士は酒瓶をからんと地面に転がした。 「あと何年なんて暦は俺にはない。毎日毎日、明日は、明後日はと探る日々だ。」 また目の前を星が弾けた様に流れていく。 「何かの為に捧げる命だったなら、まだ死に甲斐もあっただろうに。」 その言葉が酷く切なげに響いたので、俺は容易に言葉が返せなかった。 都合のいい、根拠もなく前向きな言葉ならいくつか浮かんだが、そのどれも口をついて出なかった。 言い淀む俺に、兵士は笑って言った。 「まあ、余生を楽しむと決めている。何れ死ぬなら悩む時間さえも惜しい。」 無造作に転がった空瓶を拾って、兵は腰を上げた。俺も同じく腰を上げる。無言のその動作が、この奇妙な時間の終わりを告げる。 「上手く生きろよ。」 下手な言葉ばかりが口をついて出る中で、その言葉が一番下手なのではないかと言ってしまってから思ったが、 俺の言葉に兵士は一瞬目を見開いて、すぐに口の端を上げた薄ら笑いで 「斬り捨てるのが専門の人間には不似合いな言葉だな。」 と呟いてから、片手を上げて去って行った。 ただ、誰かに聞いてもらいたかっただけなんだ、とその背中が言っていた。 「随分月が明るいな。」 「この景色…。」 もし、あの丘の麓から見た城が何処かの丘から見た屋敷に似ていたなら、この城から見下ろす丘の麓は、 「あの屋敷から…。」 ずっと考えていた。ランネルが欲しかったのは、何だったのだろうか。 「…そう言うことか。」 強く執着しているものを、何度求めても不思議はない。 老婆の言葉が耳を過る。 例えば、殺したい程に欲しい物があったなら、俺は何としてでもそれを得ようとするだろう。あの男も然り。 アランに魅入られた男は皆アランを求める。アランもまた、尽きることなく人を誘う。 それはまるで、媚薬の様に。


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