創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
俺は傷口に裂いたシャツを巻付け、やっとの思いで城を降りた。一瞬気を失っていたようだが、気付くとランネルはいなかった。
止めをさして行かなかったのかと頭の端でぼんやり考えながらも、痛む傷を抑えて、広場の噴水に腰掛ける。
静かだった。街は眠りの中に沈んでおり、ずきずきと痛む傷もいくらか和らいでいるように思える。
血塗れのシャツも今なら夜の闇が隠してくれ、傷口からどくどくと滾る体内の血の音だけが、心臓の音と重なって耳に届く。
「蒼い…月、か。」
ぽつりと零れた自分の言葉にはっとする。そう言った瞬間、ふとよく知った顔が瞼の裏に蘇った。
アランは、今どうしているだろうか。
俺は酒を傾けながら空を見上げる。火葬場の上に浮かぶ月は、ほの白く、そして蒼い。
「…死人が焼かれる晩の月は、いつもこうだ。」
「!」
振り返ると、あの老婆がそこに立っていた。いつから居たのか、その気配に気付きもしなかった。
「何してんだ、婆さん。」
そう言う俺を無視して、老婆はゆっくりと俺の隣に腰かける。座っているところしか見たことがなかったが、
しっかりとした足取りをしている。
結構な歳だと思っていたが、そうでもないらしい。いったい幾つなのか見当もつかない。
「ロゼだ。お前と同じ北の国の生まれ。私もこの街に初めて訪れ、この月を見た時、驚いたものだ。」
「婆さん、この街の人間じゃねぇのか。」
「ああ、お前さんと同じさ。」
そう言って、ロゼは丸めた身体を伸ばして月を見上げる。
「この街は満月の晩に身寄りのない死人の火葬をする習慣がある。人を焼くとな、その亡骸から酸が出るそうじゃ。
それは空気中で、蒼く光ると言う。」
「それで月が蒼く見えるって訳か。」
俺は何だかしみじみと納得しながら、老婆を見た。この老婆がいつもの場所以外で普通に歩き、話している姿を見るのは
何処か妙な気分だった。
「だが、それだけじゃあない。焼かれた死人はかつての病人であり、不慮の事故に見舞われたものであり、兵士であり、
罪人であり…あるいは罪なき人間の亡骸かもしれん。」
老婆は被っていたマントの襟を詰め、冷たい夜風に更に身体を丸めた。
「悲しみが浮かぶんじゃよ。月が蒼いのは月が死人の悲しみを吸うからじゃ。」
老婆はじっと俺を見る。射る様な目で、ただそれ以上は何も言わなかった。
俺は暫く怪訝な顔で老婆を見ていたが、直ぐにはっとした。
「蒼い月。」
そう呟くと、老婆は小さく頷く。
「お前さんの故郷の月も蒼いじゃろうて。そこに大切に思うものを残して来たのならばな。」
そう言うことだったのかと、今更ながらに気づく。最後にジゼルの街で別れた時のアランの顔を思い出す。
今更になって気づくなら、あの時に奴が欲しがった言葉を言ってやればよかった。
俺は腰を上げ、自分を見上げる老婆に一つため息を零す。
「そう言うことは、もっと分かりやすく言ってくれ。」
アランの泣き顔が、頭に何度もちらつく。
「その言葉、当たるんだろうな。」
「あぁ。何度助けてやったと思っておる。」
老婆は俺を見上げて静かに笑う。
「あぁ、恩に着るさ。」
そう言うと、ロゼは珍しいものを見たというように眼を丸める。
「それにしても、一人の男を追う為だけにこんな南の地まで来るなど、大したものだな。」
「いや、それだけでもねぇんだ。…南の果てに、用があったんだが…。」
結局、この国の最も果てのこの地に辿りついても、目的の場所は見当たらない。
薄々、勘づいてはいたが、認めたくなかったのだ。あの話が唯の御伽話だと。
「婆さん、笑わねえで聴いてくれるか。」
何故か、話してしまいたい気分だった。
そう言う俺に、ロゼは唯静かに頷くので、俺はいつかの拾った絵本のことを話して聴かせた。
全てを話し終わると、ロゼは黙ったまま目を瞑る。
「笑っちまうだろ。柄にもねぇな。」
自嘲気味にそう言うと、ロゼは閉じていた目を開いて俺の見る。真剣な眼差しに、俺は浮かべていた薄ら笑いを引っ込めた。
「お前さんの話す場所かどうかは分からないが、この街の外れに小さな港がある。もう使われていない古い港だ。
そこから船を出して更に南に進むと、小さな無人島が見えて来る。人を寄せ付けない神聖な島だ。
この街の…この国の最も南の果てはその島だ。」
言葉が、出なかった。
「それは…。」
「お前さんの捜している島が南の果てにあると言うなら、お前さんの目的はまだ果たされておらんよ。」
ロゼがそう笑うので、俺は詰まる喉を抑えて、思わず噴き出す様に笑った。
「は…っ。そうか。それなら、まだ希望はある。」
アランを、連れて来よう。必ず。
「この街を出る前に、見に行くといい。」
「いや、止めておく。まだその時じゃねぇんだ。」
あそこへ行く時は、あいつと一緒だと決めている。
思わず子供のように喜んでしまった俺を見て、ロゼは笑っていた。
「それにしても、婆さんは何故俺を導く?あんたのその不思議な力は信じるが、占ってもらっても俺には払う金がねぇってのに。」
商売道具なんだろう、と言いながら、空になった酒瓶をどんと傍の縁に置く。老婆は黙って俺を見ていた。
「罪滅ぼしさ。」
「罪滅ぼし?」
俺は老婆の言葉に、一度上げた腰をまた下ろす。どちらにしても、今日、今すぐアランの元へ帰れる訳じゃない。
早くても、明日の朝。一刻も早く、ジゼルへ帰ろう。
「長く生きれば、その分犯した罪も咎められるべき行いも、積み重ねなければいけない。」
ロゼは瞳を伏せたまま呟いた。
「人とは、罪深い。」
まるで、自分に言い聞かせているようだった。
「何か後ろめたいことでもあるってか。」
「受けねばならない罰は未だに背負ったままでいる。」
「まあ、人間なんてそんなもんだろ。俺だって斬った輩の数も顔も覚えてねぇが、呪われても可笑しくねぇくらいの
罪にはなると思うぜ?」
俺の言葉にロゼは顔を顰める。言葉を続けるのを躊躇っているようだった。
「私は…罪のない人間を土台にして自分の明日を選んだ。」
膝の上の指が小刻みに震えていた。
「許されぬ罪は例えこの身が滅びようとも、絶えはしない。」
ロゼはぐっと掌を握る。月を見上げた瞳は真っ直ぐと空を見つめる。
「来たるべき明日はいつも地獄だ。」
ロゼは静かに目を瞑り、またゆっくりと瞼を上げる。短い睫毛が震えている。
「こうやってお前さんのような旅の者や行きずりの者に道を差し延べてやるようになって幾年が過ぎた。
それでも、まだ私の身体を蝕む病と、心を喰らう辛い記憶が一日たりとも途絶えたことはない。」
「私は…私を捨ててこの街を出ていった男の顔を今でも忘れることが出来ない。
女の身体を捨て、小綺麗な売子を抱えて背を向けたあの男が憎い。」
「そいつは男色だったのか。」
「分からぬ…。ただ最後に見た時にあの男が抱えていた人影は、少年の後ろ姿のだった。私に分かるのはそれだけだ。」
「許せなかった。私を捨てたあの男が。だが、自分もまた許されない身。こうなることが私への罰だと思った。
まだ、ほんの一欠けらに過ぎぬ、な。」
そう行ったきり、俺もロゼも口を噤む。夜だけが刻々と過ぎ、また傷が痛み出した頃、ロゼがゆっくりと腰を上げた。
「長く…話し過ぎたようじゃ。」
「そうだな。」
「お前さん、帰るんだろう。待たせている者のところへ。」
振り返ったロゼに、あぁ、と答える。
「また戻って来るさ。まだ何も終わっちゃいねぇからな。」
「そうか。だが、その傷じゃ。目的の場所に辿りつく前に、あるいは…。」
「あぁ、分かってる。」
ロゼの言いたいことは十分に分かっていた。先刻から痛み出した傷に、俺はロゼと同じように立ち上がることさえ出来ない。
それを隠して腰かけたまま、ロゼのその言葉だけは素直に聞き入れた。傷を癒してから旅立つのが最善策だと言うことは分かって
いる。けれど、ロゼの言葉の意味が、蒼い月が何なのか、アランが苦しんでいるとしった今、悠長に傷を治してからなどという
考えは毛頭なかった。それを知って、ロゼも敢えて真っ向から止めはしない。
『来たるべき明日はいつも地獄だ。』
ロゼの言葉が胸に沁みる。
アランならこう言うだろう。
「気をつけて行け。」
俺が頷いたのを見て、ロゼはまたいつもの通りへと戻って行った。
「必ず帰るさ。明日はまだ死に時期じゃねぇからな。」
アランなら、こう言うだろう。
明日が見えるうちは光だ、と。
次の日、俺は街の端にある小さな船乗り場に来ていた。
港からは見えない小さな島の影を、街の外れ、一番南の錆びれた船乗り場からなら、望むことが出来るとロゼに聞いた。
案の定、小さな島に茂る緑が窺える。港からは見えず、時折時期外れの海流も通ることから、ほとんど人が近寄らないと言われる
その島は、この世界の一番南に位置しているとも言われていた。
あるとしたら、あの場所しかない。
俺はその島の形を目に焼き付け、その場を後にした。傷が痛んで仕方無かった。けれど、帰らなければならない。
一刻も早く、アランの元へ―――――
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