創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
「ねぇ、ロイ。前から聞いてみたかったんだけど。」
情事にひとしきり浸り、暫くして気がついたアランに同じくひとしきり小言を言われた後、
珍しく二人起きてシーツに包まっていた。
「何だ。」
「ロイが話してくれた絵本の場所へ行って、どうするの?」
アランはシーツに顔を伏せ、俯いたまま呟く。
「どうする?」
再度そう聞き直すので、酒瓶から口を離してアランの顔を覗き込んだが、アランは枕に顔を埋めたまま、
細い赤毛をシーツの上に散らしている。俺が咄嗟の返答に困っていると、アランが沈黙を埋めるように口を開いた。
「俺はその場所へ行ってみたいと思うよ。その場所を見て、ロイとその場所で生きて行きたい。」
何故か決意の籠った言葉。俺はアランの表儒尾が見たくてその赤毛を一撫ですると、アランがそっと顔を上げて俺も見上げた。
「でも、ロイは?」
その目があまりにも真摯に見つめて来るので、俺は思わず口を噤んだ。見上げて来る蒼眼には違えた言葉を紡げない。
「俺は…。」
こうやって、昔自分を見上げている目があった。その目も、深い蒼だった。俺はまた酒を口に含む。
度数の強いそれは、いつの間にか喉に焼けつくこともなく喉を通るようになった。自分は、幼かったあの頃とは違う。
この目も、エマではない。
「俺もその場所を見てみたい。それに…。」
「それに?」
「それに、今何処に居るのか…生きているのか死んでいるのかも分からないエマを連れて行ってやれない分、
俺には、その場所に辿りつく義務がある。」
それは、償いと言う訳ではないと呟く。アランは何も言わずこちらを見上げていた。
償いではない。
今ではそう思えるようになった。死ぬのなら、あの場所で死にたい。ただそれだけだ。
「その場所へ辿りつく。それが俺の目的だ。」
そう言うと、アランは酷く切なそうに目を細めた。
何を考えているのか、不安げなその表情に、俺はアランの頭を自分の肩に引き寄せた。
アランが居なければ、今でも業を背負って、償うことばかり考えていたかもしれない。
報われなかった愛を、アランが零さず拾ってくれた。
「エマを…捜そうとは思わないの?」
「思わねぇな。」
それを迷ったことはない。
「どうして?その…売られちゃったから?」
アランは驚いたように顔を上げ、躊躇いながらそう言う。俺は一度だけ首を横に振った。
「俺は人斬りだ。人を殺した俺を昔のようにエマが受け入れてくれるとは限らない。」
怖いんだ、と言って、素直にそう言えた自分に驚く。アランはじっと俺を見上げている。アランの目を見て、俺は思わず笑った。
「お前は、俺の手が汚れていようとこうやって傍に居る。今は、それだけで十分だ。」
そう言うと、アランの目尻がじわりと赤らんで、また俺の肩に顔を埋める。何も言わず、ただ黙ってそうしているので、
不思議に思って声をかけようとすると、
「ねぇ、ロイ。」
アランは俺の肩口に映える赤毛を擦り寄せる。アランは俺が傾ける酒瓶をそっと取り、ベッドサイドのテーブルに置く。
「おい。」と声をかけると返事の変わりにアランが背中まで着ていたシーツを腰に落として、ベッドの上に腰を下ろす。
どうした、と聞いても口を開かないので、俺も身体を起こして向かい合う形で胡坐をかいた。アランは、暫く何も言わず、
俺の目だけをじっと見つめ返していたが、意を決したように一つ長い息を吐くと、酷く震えた声を絞り出す。
「俺の名前、知ってる?」
「名前?」
俺は唐突な質問に思わず眉をひそめた。何を今更、と言う感じだが、アランがあまりにも真剣な目をしていたので、不用意に軽口を叩けなかった。
「アラン、だろ。」
そう言うと、蒼眼がじっとこちらを見つめ返してくる。ふと視線を外すと、アランの手が小さく震えている。
どうしたのかと思ったが、口には出さずにそっと向かい合ったシーツの上でロイの手を強く握る。
それを見て、アランが今にも泣き出しそうな顔をした。
アランが目尻に涙を溜めてこちらを見る。痛々しい視線に、俺はその頬に手を伸ばしかけたが、その腕をアランの手が取って、
同じくシーツの上で握られた手の上に重ねられる。
「そう。でも本当は…。」
アランが、汗ばんだ手でぎゅっと俺の手を握る。涙が一筋アランの目尻から零れ、俺があ、と声を上げる前に、
アランが泣きながら口を開いた。
「エマニュエル・L・アラン」
「エ……――――――」
「俺がエマだよ。」
「なっ…。」
何故。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。ただ、アランの泣き顔が酷く目に焼きつくので、
早くその頬に手を伸ばして、それを拭ってやらなければならないと思うのに、アランが俺の手をぎゅっと握って離さない。
アランは驚いたまま二の句の挙げられない俺を見て、ぽつりぽつりと全ての経緯を話し始めた。
「十三の時、俺が居た屋敷の主人は男色だった。女をたくさん侍らせていたのは確かだけど、飽くまで召使として。
その多くの女の中には、男もいたんだ。」
「…それは。」
「綺麗な男ばかりを集めて、女として教育をして。」
「何…?」
「勿論、体裁の為にそれを公には出来ない。だから、俺達を女として自分の傍に控えさせた。妾としてね。」
脳裏に浮かぶのは、街で何度か見かけた、金と権力を振りかざした男の陰と、エマの赤毛。
「夜、あの男が自分の部屋に呼ぶのはいつも男だった。
入れ替わり、立ち替わり犠牲なっていく自分と同じ歳の子供を何人も見て来た。」
異常性欲者って言うのかな、とアランは言う。
「俺は唯の使用人の扶養児だったのに、あの主人に気に入られただけで服も食べ物も、いつも良い物が与えられた。」
エマはいつも綺麗な洋服を着せられていた。それはよくエマの白い肌に映えていた。あの屋敷で大切にされている。
その記憶が強いのは、まだ俺が幼かったから。
「知らなかったんだ。自分が性欲処理の道具として大事にされてたなんて。」
信じられなかった。あの屈託ない笑顔が、本当ではなかったなんて。
「いつしか侍らされていた少年達は減り、毎晩あの主人の寝室に呼ばれるのは俺だけになった。」
「だから、俺の前から姿を消したのか。」
アランは答えなかった。その代わりに、ベッド脇の窓から遠くを眺めたまま話の続きを零し始めた。
「そんな時、主人が裏で手を回していた組織の裏切りで、屋敷は潰れ、使用人もめかけも養えなくなった。」
アランの目に、窓の外の月が映り込む。
「屋敷はどんどん荒れ、気付いた時には俺だけを残し、残りの人間はその組織に奪われた後だった。」
「その組織の長がランネルか。」
俺の言葉に、アランは小さく呟く。
「一文無しになった主人は已むなく俺を手放し、同じく仕事を失った扶養者の女は売春まがいの仕事で見つけた男に囲われて、
生き延びる道を見つけた。
だけど、その為には身形を着飾る為の金もいるし、何より俺が邪魔で仕方なかったんだ。」
アランの腕がまた小刻みに震えだす。俺は堪らずアランの体を引き寄せて、自分の組んだ足の上にその身体を座らせた。
やはり、男の体。
けれど、アランがエマだったと言われて気づいたことがある。赤毛も蒼眼も記憶の中のそれとよく似ているが、そうではない。
こんなに自分が惹きつけられて止まないのは、この男だからだったのだ、と。
「売屋に引き渡される日、言われたんだ。」
アランが俺の首に頭を寄せる。零れた涙がアランから俺の肌を伝って流れて行った。
「どうせ売られる為の体でしょ、って。」
どうして、気付いてやれなかったのだろう。あの頃とは違う後悔が、また一つ胸の奥でくゆり出す。
「自分が男でいようが、女でいようが、そんなことはどうでもよかったんだ。唯…。」
―誰かに死ぬほど愛されたかった―
それは、何度となくアランから発せられていた無言の言葉。随分と長く聞き入れてやれなかったことを、今はただ悔やむしか
出来ない。奥歯をぐっと噛み締めると、それに気付いたアランがそっと手で俺の顎元を撫でる。
それだけで、自然と力が抜けて行った。
「ロイが気づかなくても仕方ないんだ。女として生きている間は、身体も男の発達を拒否するみたいに、ずっと子供の体のまま
だった。男らしい部分なんて何処にもなくて、時々自分でも男なのか、女なのか分からなくなるくらいだったし。」
アランはまた俯いて、申し訳なさそうに言う。
「まさか、俺がエマだなんて思わないだろ?…俺もそれを望んでたし。」
俺は情けなくも思うように言葉を紡ぐことが出来なかった。アランはその度に申し訳なさそうに目を細め、時折自然と流れた涙を
頬に零しながら、「嘘ついて、ごめん。ロイはエマのことなんて忘れてると思ったし、そんな風に考えてるなんて知らなかった。」
と、俺が今まで話してきたエマへの想いを口にする。知らなかったとは言え、俺はエマ自身にあの日から自分が業を背負ってきた
事実を口にしてきたようなものなのだ。
「俺は、エマであろうと、アランであろうと、ただロイの傍にいられればよかったんだ。」
ただ、傍に。
そうぽつりと零すアランの言葉からは、真実など見えなかった。それが俺を想って言ってくれた言葉だと分かっていた。
俺はアランではなく、エマを追いかけていた。俺に縋りつくアランを振り払っても、もし今の自分の傍にエマが居たなら、
俺は迷わず彼女の腕を取っていた。
だから、アランは言えなかったのだ。俺の中で、エマとアランはあまりにも違う存在だと気づいていたから。
俺はそっとアランの肩を抱いた。柔らかい赤毛に触れて目を瞑れば、エマの姿が脳裏に浮かぶが、それでも今触れているものは
アランの髪であり、自分を覗き込む蒼眼もアランのものであり、自分の腕の中で朱に染まる姿も全てアランだ。
「それなら、ずっとそうすればいい。」
気づけば、そう呟いていた。アランの体をきつく抱いて。
「え?」
「俺の傍にずっと居て、離れなければいいだろう。」
エマではなく、アランとして。
「ロ…―――」
「他の誰がお前を愛さなくても。」
俺はお前を愛してる。
顔を見ずとも、アランが泣いているのが分かった。零れた滴は俺の背を伝っていく。
「でも、俺…ロイに嘘を…。」
途切れ途切れに嗚咽を交えた言葉を遮って、
「嘘じゃねぇ。」
と言い聞かせる。
「男だろうと女だろうと関係ねぇ。お前はアランでありエマだっただけだ。」
それだけ、だ。
「言っておくが、俺はお前がエマだったから惹かれた訳じゃねぇ。」
「まあ、男に興味はなかったがな。」
「お前だったから、あの日、ジェフを殺した宿に放って置くことが出来なかった。」
今なら、その理由が分かるのだ。あの日、アランが流した涙の意味も。
「何か、どっと疲れたな。」
話が途切れたところでそう零すと、
「…ごめん。」
と今日、何度目かにまたアランが俯いてしまう。
「そんな顔するな。」
俺は笑ってアランの髪を撫で、その場に横になった。
ぼんやりと座っているアランに笑いかけると、アランは耳の先をほんのりと赤く染めて、慌てて口を開く。
「き、今日はもう寝よう。遅いしさ。」
「ああ。」
俺は今更何を、とまた思ったが、アランの態度が変に可愛かったので放っておくと、アランがすっと腰のシーツを剥いで
ベッドから這い出ようとする。
「おい。何してる。」
上半身を起こすと、ロイは拾った服を抱えて気まずそうにこちらをふり返る。
「何って、寝ようと…。」
「いつもここで寝てるだろうが。」
情夜の時だけ、と言う言葉は呑み込んで。
「でも、いつも俺がベッド占領してるから。たまにはソファで…。」
言い訳がましい言葉を呟きながら、少しずつソファのある壁際へと歩いて行こうとするアラン。俺が小さく舌打ちをすると、
アランが首を傾げる。少し困った様な顔をしながら。
「来いって言ってんだ!」
「で、でも…。」
「何だよ、今更。」
「でも…な、何か全部話したら急に…。」
「ったく。いいから来い。」
言うと、アランが一歩ずつおずおずとこちらに近づいてくる。じれったいその仕草に、俺は眼の前まで来たアランの腕をぐいと
引いた。さっとシーツを捲ってもう一度初めの様に自分の隣に収め、けれど今度はしっかりと腕をアランの腰に回して。
髪に顔を埋めると、いつもの香りに安心したのは自分の方だった。
「お前の腹ん中に溜めてたもの、全部吐き出したか?」
「うん。」
妙に潮らしいアランが頷く。
「もう隠し事はねぇな。」
「うん。」
「よし。」
満足してアランの唇に一つ口付けを落としてそう言うと、アランがちらりと腕の中で俺を見上げる。
「ロイ…?」
「どうした。」
「初めてだね。」
「これか?」
「ん…。」
もう一度そっと落とした口付けに、アランは小さく声を漏らし、唇を離すと緩く笑った。何故か、とんと胸を突かれた気分になる。
「すまなかった。」
「え?」
「あの時…売られて行くお前を助けてやれなかった。」
終わった話をぶり返すのもどうかと思ったが、やっと整理のつき始めた頭で、これだけは言っておかなくてはならないと思った。
俺達は13のあの頃に記憶を遡っていた。
「それは、違うよ。」
俺の言葉をアランが慌てて否定する。
「あの日、離れなかったら、こんな風に傍には居られなかった。」
思いもしなかったアランの言葉に俺は腕の中を見下ろした。
「そう思うことにしたんだ。」
そう笑うアランは眉根を下げて、ほんの少し苦しそうに見えたが、俺の背に回した腕に力を籠める仕草に、
「そうか。」
と笑い返した。
「助けてやれなかった後悔は残る。でも、お前は今ここに居る。」
アランを見つめながら、愛しいと言う言葉がこの世に無ければ、今この瞬間を表現することは出来なかっただろうと思う。
「もう二度と、傍を離れるな。他の男に抱かれるな。」
それは、いつかの束縛の鎖。けれど今は、アランが約束の言葉として受け止めてくれることを願った。
「ずっと、俺だけを見てろ。」
そう言うと、アランが花のように笑うので、今度は俺が不覚にも泣き出しそうな想いに駆られた。
やっと、手に入った。そう思った。
「やっぱり。」
思わず目を逸らす。
「何?」
「…抱いていいか。」
照れくさくなって明後日の方を向いてそう言うと、アランは噴き出す様に笑った。
その腕を、俺の首に向かってそっと伸ばしながら。
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