創作小説

蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―

  Side:Aran 眠ったロイの顔が、暗闇のなかでもはっきりと分かる程、今日の月は明るかった。 ほの白く、でも黄色いその月は、いつもなら冷たく悲しい光に映るのに、今日ばかりは温かい。 眠れない眼を瞬かせて、俺はいつまでもその月を見上げていた。月は、何年も前から変わることはない。 今温かく光を放つこの月も、あの冷たく暗い夜と何の変哲もないと言うのに。 あの身を斬る様な月の夜と。 ――――――泣き疲れたせいで酷く重い身体を引きずって、言われるままに荷馬車を降りると、 そこに建っていたのは以前居た屋敷の数倍はある豪邸で、真新しいそれを建てるために壊されたと思われるスラム民家の瓦礫が まだ辺りに散らばっている。いつもよりも重たいドレスの端を引き摺りながら、言われるままに遣いの男の後に続く。 頭の端に、雨の中でこちらを見つめるロイの瞳がこびり付いていた。 「今日からここがお前の屋敷だ。」 そう言われて目の前の屋敷を見上げる。ここに住んでいた人々がどうしたのかは極力考えないようにした。 「服を正して顔も拭け。御主人様に面会だ、失礼のないようにな。」 とんと背を押され、鉄格子のような大掛かりな門をくぐると、左右対称に刈り込まれた植木が数十メートル向こうの屋敷まで 続いている。豪勢だが白一色で統一された、どこか不気味な屋敷だ。 俺は言われるままその長い庭を抜け、開けられた屋敷の扉をくぐる。一歩一歩、歩を進める度に身体が鉛のように重く感じた。 「ここで待ちなさい。」 使いの男はそれだけ言うと玄関先に俺を残して正面に伸びる螺旋階段を上がっていく。 ほっとした矢先、それと入れ違いに階段を降りてくる足音にまた身体を強張らせる。 「来たか。」 その声に顔を上げると、正面を降りてくる大柄な男。ぎらぎらとこちらを見る眼差しに、背筋が冷たくなっていくようだった。 「名は。」 「…エマ。」 この男も自分を抱くのだろうか。いや、男だと知って自分を欲するなどという鬼畜な輩がそうそういるはずはない。 何れ放たれる日は必ず来る。 「エマ、か。お前のことは以前の主人からよく聞いている。もちろん、女でないことも、な。」 「!」 「何だ。知らないと思っていたのか?」 「…。」 「大方、男だと知れば手放してもらえるとでも思ったのだろうが…残念だったな。」 終わりだと思った。もうここからは、逃れられない、と。 「あの男から話を聞いて、以前から欲しいと思っていたんだ。やっと手に入った。」 男はそう言うと節くれだった硬い指で俺の頬を撫でる。 その感覚にぞくりと身体が震え、同時に以前の主人を殺したのもこの男だと確信した。 通された部屋は、正面の階段を上がってすぐの扉を抜け、更に奥へと進んだ、屋敷の1番奥にある部屋だった。 壁と同じ真っ白な扉を開けると、案外広い部屋にやはり白いベッドや家具がとりつけられている。 「ここが、今日からお前の部屋だ。」 「ここが?」 「そうだ。必要なものは全て揃えたつもりだが、足りない物があれば遠慮なく言うといい。」 くるりと辺りを見回す。そこには机の上の羽ペンからようひしまで何もかも揃っているようだ。 男はおもむろに傍のクローゼットを開けると、中を見るように促す。俺は言われるままに中を覗いてはっとした。 「これって。」 「この屋敷ではもう女の振りをする必要はない。」 クローゼットの中身は全て男物の洋服だった。 「それは…。」 「男として、アランとして生きればいいと言うことだ。」 「…っ。」 「辛かったろう。偽って生きるのは。」 そう言って男が俺の肩を抱く。泣くまいと堪えた涙は簡単に足元へと落ちて行った。男は何も言わずただ傍にいた。 俺は泣き腫らした顔を男に押し付けたまま、いつの間にか眠った。男の腕に自分を許してしまった過去を今でも後悔している。 「もう大丈夫だ。」 その言葉は地獄の前の前座に過ぎなかった。 次に目が覚めたのは空が暗くなってからで、気付くと自分のベッドに横たえられており、すぐ傍にはまだほんのり湯気の立つ夕食 のトレーが置かれている。 「目が覚めたか。」 きょろきょろとほの暗い部屋を見回していた俺に、広い部屋の隅から声がかかる。 そちらを見ると、先程の男が大きな椅子に背を預けながらこちらを見ていた。 一瞬、ぞくりと背を走った感覚に身震いする。 「あ…はい。」 身体を起こすと、夕食のいい香りが鼻を掠める。少し、腹も減っている。 「そうか。それは良かった。」 男は席を立って、机の上の夕食のトレーを持ち上げる。 「あ、ありが……え?」 てっきり手渡してくれるのだと思っていた俺の予想に反して、そのトレーはすっと脇のデスクに避けられてしまう。 思わず男を見上げると、男は月明かりに照らされた窓辺で薄く笑った。また、ぞくりと身が竦む。  男がベッドに足を掛け、俺の腕を掴む。 「や…やめっ…!」 「大人しくしろ。」 低く響いた声に思わず動きを止めると、力任せにシーツの上に組み伏せられた。 「いい子だ。」 その言葉に、次に自分が何をされるのかが容易に想像できた。もう何度も経験してきた光景だ。だからこそ分かったのだ。 自由を得たのではなく、新しい籠に移っただけなのだと。 押し倒されたベッドの上で、屋敷の天窓を眺めていた。すぐ傍に外の世界が見えているのに、今、自分の上には知らない身体が 圧し掛かっている。黄色い月はそこから覗き、曝された肌もシーツを濡らす涙も見ているのに、自分を助けてはくれないのだ。 誰も、愛してくれないのだ。 「この薬を知ってるかい?」 一度用の済んだ身体に飽き足らずも、また男が圧し掛かる。 もう抵抗する気力も残っていなかったが、朦朧とした意識を呼び起こすほど、その言葉に酷く嫌な予感がした。 ランネルの手の中には小さな小瓶が見て取れる。小瓶の中には薄い桃色の液が揺れている。 「…嫌だ。」 それが何かは分からなかったが、その妖艶にも見える桃色の液体を眺めていると、ぞくりと背筋に悪寒が走る。 「怖がることはない。」 そう言いながら柔らかい笑みを浮かべたランネルが近付いてくる。後ろ手に後ずさるが、すぐにシーツの肌触りが途切れ、 ベットの端へと追いやられる。 「すぐに気持ち良くなるさ。」 その言葉は、恐怖以外の何物でもなかった。 「嫌だ… 」 止めろ、と叫ぶ前に、ランネルの手が俺の顎を掴む。一筋涙が目尻から零れ、同時に喉に生暖かい液体が流しこまれる。 抵抗する身体はシーツに縫い付けられ、伸ばした手は簡単に宙を掻く。 怖かった。 流し込まれた液が喉を通ると、時期に身体が熱くなり、意識が薄れて身体が震えた。 「薬が効いてきたようだな。」 自分を押さえつけているランネルの口からそんな言葉が吐かれる頃には、もう自分を掻き抱く身体が欲しくて仕方なかった。 「…早く…早く。」 早く抱いて欲しい。欲が欲しい。熱が欲しい。 口から流れた唾液も拭わずにそう叫ぶ。自らランネルの腕に手を伸ばした俺を見て、あの男は今までで最も卑下だ笑みを見せた。 「いい玩具を手に入れた。」 そう言った言葉を俺は一生忘れない。 自分の体に使われる頻度に反して、その薬の名は随分と後に知った。 「キシトロームって言うのよ。」 売りを始めてすぐの頃だった。花街で自分と同じように客を探していた情婦が、 「あなた、これ知ってる?」 と小さな小瓶を差し出して来たのが始まりだった。見覚えのある液体に、身体が竦んだ。 「見たことはあるけど…。」 曖昧に返事をすると、客引きに飽きたのか、女は小瓶を揺らしながら話し出した。 「強い媚薬でね、欲を惑わすだけじゃなく、使い続ければ二度とその依存から逃れることは出来ないわ。」 その通りだ。媚薬効 果と、使った者のホルモン分泌を狂わせる。 自分の体を求める人間が絶えないのは、自分の中にこの如何わしい薬の成分が流れているからだ。 見覚えのある桃色の液体に自分に使われたものだと確信する。 「使ってみる?あなたも。」 差し出された小瓶を見つめる。使ってみるかと言われても、自分にか、それとも客にか。 「いや、いいよ。」 知らない薬じゃないんだ、と言って情婦に手を上げ、その場を去る。 あら、と驚いた情婦を背に、俺は握った拳をコートのポケットに突っ込んだ。 キシトローム。 それがあの薬の名。人を惑わせ、狂わせ、快楽を見せた後で地獄に突き落とす背徳的グロテスクな薬。 「二度とお目にかかりたくはないな。」 花街の角で声をかけて来た客の男に腕を絡ませ、その見知らぬ手に引かれながら、俺は薄らと笑っていた。 売りを始めた理由は覚えていないが、ランネルの元に仕事の話をしにきたエリガルに、自分を雇わないかと口走ったことは記憶に 残っている。ただランネルの妾として養われているうちはあの広い屋敷で自由はない。自分が汚れてしまった自覚はあったので、 今更身体を売ることに抵抗などなかった。街に人身売買が横行していることは分かりきっていたことだったし、男を好んで買う客 が男女問わずいることも知っていた。自暴自棄だったのだと言えばそれも否めない。 ただ、自信があった。 「俺は高く売れると思うよ。」 諦めと言う名の自信だった。 初めてそう言った時、ランネルは目を丸くしてはいたが、暫く考えて「いいんじゃないのか。」と笑った。 俺はそれから、屋敷を離れて人に買われながら暮らした。ランネルに、また欲を現したエリガルに呼ばれることもあったが、 俺はランネルが力を握る街で売りをすると言う小さな自由を手に入れた。 人間とは浅はかなもので、一度覚えてしまった快楽は二度と忘れない。ランネルがあの薬を手に笑う限り、自分はずっと籠の鳥だ。 全て分かっていた。逃げ出すにはどうすれば良いのか。何を拒めば良いのか。 それでも気付けば俺は男娼として身体を売る。 羽のもげだ鳥を籠に閉じ込めて何が楽しいのか、あの男はどこまでも非道だった。 ランネルが自分を手放すとは思えなかったが、売りに出た俺にランネルは何も言わなかった。むしろ俺に仕事を与え、 最終的に身請け先まで選んで来たのだ。 ほんの一瞬、あの手から逃れる自由を夢見た。 例え、知らない男のものになったとしても、この屋敷を離れて暮らせば、いつか、何年か先、死ぬまでには自分に本当の自由が 訪れるのではないか。もし、自由になったら自分は何をするのだろう。やはりこの街を出て、何処か他の静かで穏やかな街に移り 住んだりするのだろうか。いや、それともやはり、あの人を、探したいと思うのだろうか、あの場所を、あの楽園を、絵本の島を。 もし、見つけられたのなら、あの男を探しに行こう。 俺がエマなんだと、本当はアランと言うのだ、と。あの場所を見つけた、と。 共に生きよう、と。 夜、目を瞑ると、他の男に抱かれていようと一人で冷たいシーツの上に転がっていようと、 夢の中で瞼の裏に映るのは自由になった自分の傍に寄りそう誰かの影だった。 それが誰のものかなど、考えずとも分かった。けれど、幸せな夢は空が陰り、目を閉じている間だけの自由だった。 朝が来て、目を開ければ、また誰かに抱かれ、鎖に縛られた自分を見つめる。そんな日々を何度も繰り返したのだから、 あの夜は身体が喜びで引き裂けそうだった。 『お兄さん、俺、行くところが無いんだ。』 誰かに死ぬほど愛されたかった。 唯、それだけだった。


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