創作小説
蒼の晩 ―斬獲人と愛妾―
自分は今、夢の中にいる。
そう気付くのに、いつもそんなに時間はかからない。何故なら、全く身体の感覚がないのだ。
そして、俺は客観的に別の俺を眺めている。
もう一人の俺も、その俺が立っている街も、通り過ぎる人も全て、見覚えのある『あの夢』の中の光景だった。
『俺はお前なんか嫌いだ。』
まるで意地になったかのようにそう言う俺はまだ幼く、汚れた街を這いずり回っていた頃の自分だ。
汚れたシャツを纏って、固く引き結んだ口元は自由を知らない子供の顔をしている。
『傍に寄るな。』
本当は、他の誰よりも気を許していた。けれど、俺の向ける牙に動じないその女に、何故かいつも苛つくのだ。
『一緒に居れば、好きになるよ。』
そう何の根拠もなく言う女はこうも言った。
『ロイの話、信じるよ。』
信じるなんて容易く言うな、と一瞬そう思ったが、本当は他の大人が誰も信じてくれないだろうそのお伽話を、
疑いもなく信じると言った言葉が嬉しかった。
『約束。いつか、そこへ連れて行ってね。』
―お兄さん
遠くであの赤毛の男の声が聞こえる。そうだ、自分は夢の中だった、と気付いたが、思わず後ろを振り返った夢の中の俺の前には、
今度は忘れたくとも忘れられない、あの雨の日の広場が広がっていた。
『さよなら。』
霧のような小雨が降る中、俺は広場の端で、中央にいる女を眺めていた。
幼女だった女は少女になり、紅をひき、伸びた髪を翻して、ほんの一瞬こちらを振り返る。
目があったのは何年ぶりだろう。彼女が静かに呟いた。
『ロイ。』
降りしきる小雨が女の頬を伝って流れていく。
涙みたいだ。そう思う間もなく、女は再度呟いた。
『さよなら。』
と。その時、初めて思ったのだ。この女を手放したくないと。
『エマ!』
叫び、追い掛けた俺を突き放して、彼女を乗せた馬車はどんどんと街を遠ざかっていく。
子供の足で広がる距離を縮めようともがきながら思った。
あぁ。もう、手に入らない―――――――
「お兄さん!」
「…っ…!」
がばりと勢いよく身体を起こすと、茶色い髪が避けるように身を引く。視界に飛び込んで来たのは、自分の部屋の壁と昨夜の男。
額に手を当てると酷く汗が浮き上がっているのが分かる。
「大丈夫?魘されてたよ。」
そう言って頬に伸びてきた手を咄嗟に払う。驚いたようにして手を引っ込めた男を見て、俺はベッドから這い出すと
「何でもない…。忘れてくれ。」
と言って背を向けた。部屋の隅の水道で、水を一杯、勢いよく喉に流し込む。
冷たさが心地よく、身体の熱も困惑した頭も冷めていく。
「目が覚めたのなら出ていけ。」
グラスを流しに置くと同時に、男に背を向けたまま言う。しばしの沈黙の後、ベッドから小さく声が上がる。
「昨日も聞いたよ。」
俺はくるりと身体を反転させ、後ろを振り返る。男はシーツを膝に引っ掛けたまま、小さくなってベッドの上に腰かけている。
「昨夜のは礼なんだろう。礼ならもう受けた。」
こちらを真っ直ぐ見据えてくる目に堪えられず、平静を装って、男の奥にある窓の外を眺めた。
もうすっかり朝日が差し込んでいる。
男は敢えて自分から外される俺の視線を追いかけながら言う。
「お兄さん、剣士なの?」
「いや、人斬りだ。」
俺が刀を振るうのは、金の為に殺しをする時だけだ。男は膝上で皺を作っているシーツの端を、指で弄びながら言う。
「人斬りってことは、殺しちゃうの?」
「あぁ。お前もあんまり煩いと、どうなるか知ぇねぇぞ。」
脅しをかけてみるが、男は怯まない。
「俺、行くところがないんだ。」
「もう聞き飽きた。」
「だからさ。」
するりと切り替えされ、思わず男の顔を見る。視線がぶつかり、ぞくりと嫌な予感を覚える。
「だから、ここに置いてほしいんだ。もちろん身請けしてくれなんて言わないよ。お兄さんは人斬り、俺は男娼。
稼ぎは身体を売って作るから。」
俺に口を挟む暇を与えないように捲くし立てる男に、負けじと言い返す。
「だから何だ。俺がお前をここに置く理由にはならない。」
そう言うと、男は見越したように笑う。
「お兄さん、普段は女の人を買ってるんでしょ?」
その言葉に、思わず顔を顰める。男は膝のシーツを引き上げ肩から被ると、ベッドに寝転がって俺を見上げる。
甘えているようで、優位な立場をほくそ笑むようで、その表情はまるで生意気な子供だ。
「わかるよ。首筋についていた痕を見たから。ああ言うの好きだよね、女ってさ。」
俺は何も言えずに黙っていた。既に、目の前の男の伸ばした糸に、片足を絡め捕られてしまったような気分だった。
「でも、俺は違うよ。お兄さんが俺を抱きたくなければそれでいい。昨日みたいにしてあげるよ。」
「何を…。」
やっと搾り出した声は自分の耳に掠れて響く。情けなくて握った拳は軋んだ。男は追い撃ちをかけるように酷く甘い声で囁いた。
「毎晩でも、何回でも。」
「ふざけっ…!」
思わず張り上げた声を、男は優しく遮った。
「だから、言ったでしょ?」
子供っぽい表情が消え失せ、人を掬い上げる様な目が俺を捉える。
「離せなくなるって。」
捕らえられた自分の間抜けな顔が、男の瞳にはっきりと映る。こうならない可能性がない訳ではなかった。拒否こそ出来ても、
何故か、この男を斬り捨てることが出来ない。
「お前じゃないよ。」
男はシーツを纏ったままベッドから降りると、俺の傍へと近づいてくる。
「…アラン、か。」
男はにこりと笑う。
「ロイって呼んでも?」
甘えた様に首を傾げる仕種には苦笑した。俺を言い包めたと分かれば、またすぐ幼い顔をする。
「…好きにしろ。」
身寄りのない男を一人家に泊めてやるだけ。そう思えば自分の不甲斐なさも多少和らいだような気分になる。
「好きにするよ。」
欲に支配されて行く自分に、男は屈託ない笑顔を投げて寄越した。
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